【Prologue】鷺宮千夏、ディサイディング
【White】
夏休みも半分を過ぎたころ、どうしても我慢が出来なかったことをひとつこなすことにした。
シャワールームで服を脱いで、乾いたタイルに新聞紙を並べる。その上に椅子を置き、鏡に向かって座る。白い肌着だけの私の顔に、前髪がだらりと、鬱陶しく垂れ下がってくる。
いろいろと――、そう、いろいろとあって、切るのをさぼっていた髪をようやく切ろうと思い立った。今日こそ決心したのだ。もう暑さのピークも過ぎて、これからだんだん涼しくなってくるというのに、今さら切っても仕方がないとは思ったけれど、だんだん鬱陶しさが目に付くようになってきた。
右手の人差し指と中指で前髪を挟み、左手に持った自分用の鋏を慎重に入れていく。ここまで長いと、多少は適当に切っても問題なさそうだ。ちょき、ちょき、ちょき……切るたびに新聞紙の上に落ちていく私の黒い髪の毛と、鏡に映った自分の顔を見比べながら、少しずつ長さを整えていく。だいぶ短くなったところで、今度は鋏を縦向きに入れて、形を整えていく。
適当に形を整えたら、今度は髪の毛をすいていく。あまり厚いと、汗ばんで不快だし、寝癖も直りにくい。ここは量を減らし過ぎなければ、別に適当でもいい所だ。
最後に後ろ髪の長さを整える。ついこの間までは肩にかかるくらいだったはずの髪の毛は、いつの間にか、肩甲骨の間にまで伸びてしまっている。手で手繰り寄せて肩から身体の前に出し、適当なところでばっさり切り落とす。あとは前髪の時と同じ、毛先に縦向きに鋏を入れて、適当に形を整えていく。
髪の毛を切るときのコツは、なんでも「適当」に済ませてしまうことだ。こだわり始めたらいくら整えてもキリがないし、放っておいてもいつかは伸びてしまうものなのだから、見苦しくなく、不快でない程度に切ってしまえばあとは適当でも構わないのだ。
新聞紙の上に、まるで生き物の死骸のように散乱する髪の毛を包むようにまとめ、ゴミ袋に放り込んでいく。こぼれてしまった分はシャワーでざっと排水溝へ流し、同時に、肌着を選択籠に放り込むと、頭からざっとぬるめの水温でシャワーを被り、髪の毛の間に挟まった小さな切りくずを流していく。
シャワー室を出て、洗面台の上にある鏡に映った自分の姿を見る。
鷺宮千夏。
ちゃんと自分がそこにいる。前髪が短くなって、より露になった自分が。
「お待たせ、お父さん」バスタオルでさっぱりした髪の毛を拭きながら、「シャワー空いたよ。ちゃんと髪の毛も流しておいたから」
「今回はずいぶん、ばっさり切ったなあ」
「夏だし……」
今日はたまたま、お父さんは一日まるまる休みの日だった。テレビで高校野球の試合を見ながら、朝からビールなんて飲んじゃって。
「オジさんみたいだよ、お父さん」
「オジさんだよ、もう」
お父さんは苦笑していた。昨日もずいぶん遅くって、帰ってきた途端にご飯も食べず、シャワーも浴びずに眠ってしまったので、この缶ビールは昨日の晩酌の代わりといったところだろうか。
お父さんはシャワーを浴びようと立ち上がり、私もそれにならって部屋に向かった。
「ちょっと、出かけてくる」
「どこか遊びに行くのかい?」
「図書館」半分ほんとうだ。「宿題、もう終わらせたくって」
「もっと遊んできてもいいんだぞ?」
すると、お父さんはおもむろにスーツのポケットから財布を取り出し、中に入っていた一万円札を私に押し付けるように手渡した。
「お盆だからね。お小遣い」
「いいよ、そんなの」
「駄目だ。ちゃんと貰いなさい。それで好きなことに使うんだ、いいね?」
私が何か言い返す間もなく、お父さんはシャワー室にこもってしまった。
このままスーツのポケットに戻したら、帰ってきたときにたぶん、また怒られる。お父さんは私を怒っているわけじゃないけれど、怒られる。
仕方なく一万円を私の財布に戻し、鞄を肩から掛けてスニーカーを引っ掛けて外に出た。
『おはよう』
と、大和にメッセージを送ると、すぐさま既読のサインが付いた。
『おはよ!』
と、同じような内容で返ってくる。
千夏『もう戻って来てるの?』
大和『戻ってきたよ!』
大和『でも、すぐ田舎に直行』
千夏『田舎?』
大和『和歌山』
大和『お母さんの母方の実家、おばあちゃんの家』
大和『何にもなくて退屈だよ』
大和『千夏はどうするの?』
千夏『宿題しなくちゃ』
大和『まだやってないの!?笑』
大和『とっとと済ませちゃいなよ笑』
私は適当な壁に寄りかかって、慣れないセルフィー機能で自分の顔の写真を撮ってみた。
画像を送信。
千夏『髪切ったよ』
大和『おー!』
大和『いいカンジじゃない?』
大和『自分で切ってるんだよね?』
千夏『うん』
大和『次はロングに挑戦してみたら?』
大和『似合うと思うよ!』
千夏『そうかな』
大和『顔ちっちゃいんだもん笑 羨ましい笑』
千夏『ありがと』
スマートフォンをポケットにしまい、首に引っ掛けたヘッドホンを耳につけた。そこから、『Pisces』の――あの、中井明日架の歌声が聴こえてくる。珍しい、アコースティック調のバラード。確かタイトルは『Sunset』。
今の気分にぴったり合う曲だと思った。
今日、出かけるのは宿題をするためじゃない。
宿題をするのも嘘じゃない。でも、それは、今日一番の用事を済ませてからだ。
あれから嫌というほど考えた。
ずっと悩んでいた。家にこもって、考えて、でも考えがまとまらないから、仕方なく宿題に手を付け始めた。だから、実はもう夏休みの宿題なんて、ほとんど終わってしまっているのだ。それでも、考えはまとまらなかった。
ヘッドホンから流れる曲はいつの間にか変わっている。このメロディは――『I’M BLUE』。記憶に鮮烈に焼き付いた、あのライブの最初に歌われた曲だった。前に聴いていたときとはずいぶん違った曲に感じられる――何度も聴いていたはずのイントロ、歌詞、歌声。その全部に、あのライブハウスで見た、明日架の姿がちらつく。ごった返す人の熱、吐息、歓声。ステージに降り注ぐ色とりどりのライト、それを浴びて歌う明日架と、ギターの奏でるメロディ、地を這うように響くベース、軽やかなキーボードの音。心拍数みたいに、定期的に私たちを打つドラム。
CDの音源なんかじゃ、ぜんぜん、物足りない。
「また行きたいな」
今度はまた、大和に誘ってもらおう。
大通りをずっと歩いて行って、曲がり角を折れ、住宅街に入り込んでいく。もう随分と歩き慣れた道だ。夏休みも真っ盛りの昼間だというのに、都内の住宅街は閑散としていて、あまり人の気配を感じない。お盆だからと、親の実家に行く人が多いのだろう。
どこかでセミがじんじんと鳴いている。
焼け焦げるような石の匂い。アスファルトの舗道の向こう側、遠くの道には陽炎が立っている。でも、髪をばっさり切ったせいか、足取りはちょっぴり軽やかで、涼しい。
「あ、」
十字路の左手から、ばったりと、高校生くらいの女性が現れた。
黒地に青の英文が書かれたTシャツと、色あせたジーンズを穿いて、黒いギターケースを背負っている。左右非対称にセットされたセミロングの髪は、ファッション雑誌の表紙に写ったモデルがするようにびしっと決まっている。
中井明日架だ。
魔法少女でも、『Pisces』のヴォーカルでもない明日架がそこにいた。
「東さんのところにでも行くの?」
開口一番、明日架は私の目を見て素っ気なく言った。
私がうなずくと、ふん、と少し鼻を鳴らした。そして、私が目指す東さんの工房のある方向へ歩き出した。私は明日架のあとをついていく格好になってしまって、少し気まずい思いで明日架が背負ったギターケースが揺れるのを見ていた。
無言。
明日架のほうから私に話しかけることはない。彼女は魔法少女ではなくても、身体に電気を纏っているように刺々しく、ぴりぴりしている。歩くたびにがちゃがちゃと、ギターケースが重たい音を立てる。黒にシルバーのアクセサリーがいくつもくっついたパンキッシュなブーツが、更にその足音を強調するようにアスファルトを鳴らした。
私は首に引っ掛けたままのヘッドホンから音漏れするメロディに耳を傾けていた。
「この間……、」私はなぜか、勇気を出して明日架と話してみたくなった。「この間のライブ、とても、凄かった。見に行って良かったって、思った」
「そう。ありがとう」
明日架はこっちを見もせずに言った。
「ステージから見えてたよ。リサと、香苗さんも一緒だったね」
「うん」
「あんまり贔屓目で見られても、嬉しくない。無理に付き合うこと無かったのに」
「そういうんじゃ、ないよ。明日架の歌、ずっと聴いてたから。明日架の歌だって知らなかったけど……それが、この間、はじめてわかって……」
「ふうん」
明日架はそこではじめて立ち止まると、ざっと音を立てて私のほうを振り返った。
「私、あんたのこと、あんまり好きじゃないの」
無言。
「ひばりのことは、聞いてる。あのライターをあんたが守ってくれたことも、あんたと一緒に戦ったことも。そのことは感謝してるよ」
「うん、」
「でもね、私はあんたを信用してない。結局、あんたの持ってる『白のライター』のことは分からないままだし……あんたが強いことは認める。けど、あんたが本当に仲間になったとは思ってない」
言い返せないでいると、明日架の前髪からぱちっと静電気のような、青白い火花が散った。
「もし、ひばりや、リサに危害を加えるつもりなら、今度こそ容赦しない。初めてあんたと出会ったあの時みたいに、逃がしたりはしない。あんたの身体を撃ち抜いて、芯から黒焦げにしてやる」
うん、と私は軽くうなずいた。
明日架は、たぶん、リサさんや香苗さんよりも私のことをずっとよく分かっている。そんな気がする。明日架の近くにいると、身体がぴりっと痺れるような気持ちがする。こっちの気持ちや、考えていることが、明日架に伝わっているように感じられる。
その証拠に、明日架の顔は穏やかだった。
ちょっと歩き疲れた普通の女の子みたいな顔で、私を見ていた。
だから私も、努めて、ふつうに彼女に宣言した。
「魔法少女を、やめようと思って」




