石上香苗は悪夢に魘される
【Green】
帰りにコンビニに寄ると、いつも買っていたバニラ味のアイスがたまたま品切れだったので、期間限定の抹茶味のアイスと、缶コーヒーとを買って自分のマンションに戻った。
随分雨に濡れてしまったのですぐに濡れた服を洗濯機に放り込んで、シャワーを浴びようと蛇口をひねった。どばっと、胃液を吐き出すようにヘッドから出てきたのは透明で温かいお湯ではなくて、海藻を何時間も煮込んで作ったような、黒くて臭い、粘り気のある液体だった。肌に張り付く湯気がたまらなく気持ち悪い、小さな羽虫の群れのようだった。
「ああ…………」
口から漏れた溜息が湯気に紛れて消える。
身体にへばりついたヘドロのようなひどいにおいを払おうという気力も起こらない。ここまで魔力を一度に使ったのは久しぶりだ。この間の新宿での騒ぎの時でさえ、ここまでひどい倦怠感に襲われることはなかった。
さっきの食事が悪かったのだろうか?
不摂生からくる体調不良か、あるいは、職場の冷たすぎるクーラーで夏風邪でもひいたのだろうか。身体が重くて、何をするにもやる気が起こらない。
ひとまずシャワーを止めてバスタオルで身体を拭き、長袖のパジャマを着てリビングに戻った。ベランダの外では、ごうごうと音を立てて雨が降っている。時どき、遠くで青く光る雷が落ちて、窓をびりびり揺らしていた。私はそれを見て、明日架のことをぼんやりと思い出した。
今この時も、どこかで戦っているのだろうか。
ひょっとしてあの雷の落ちた場所の足元に、明日架がいるのかもしれない。それに、彼女を追いかけて行ったリサちゃんも――千夏ちゃんは今どこにいるのだろうか、あの後、どこかへふらふらと消えてしまった。
鷺宮千夏――
影を操り、刀を振るう魔法少女。私の炎が照らしだした影を身体にまとうようにして、あの分身する魔法少女を圧倒していた。あの子を見ていると、なぜか、たまらなく落ち着かない気持ちになる。心がざわざわして、悪い夢を見ているような気分になるのだ。
落ち着かない夢。
見たくもない、小さなころの記憶。そう言えばあの時もこんな風な雨だった。
病院のベッドで横になりながら――
白い天井を見上げながら、私の耳には、雨のざあざあ降る音と一緒に、小さな子どもの泣く声が、延々と響いていた。私はそれが嫌で嫌で、耳を閉じてじっとうずくまっていた。清潔で消毒液の匂いが染みついたシーツにしがみついていると、もぞもぞと私のお腹の上で何かが動くのだ。生温かくて、しっとりした肉の塊みたいなものが、患者服の内側でもぞもぞ動いているのだ。
見たくない。聞きたくない。
でもだんだん這い上がってくるのだ――お腹を掴んで、二の腕をぐいと引っ張って、胸の間をすり抜けるようにして、首の後ろに手を回してくる。私の身体は動かない。怖くて、怖くて――そして頬をぺちっと叩いて、瞼をぐいっと開く。
そこにいるのは、
それは――
「ねえ、あなた」
はっとした。
目の前に誰かがいる。草のような色のフードを目深にかぶり、その中から銀色の縁の眼鏡がのぞく、背の低い少女だった。小柄な、中学生か、小学校高学年くらいの女の子だ。
傘もささずに、私の家のベランダに突っ立っている。
「誰っ、」
「あなたはとてもくるしそうな顔をしているわ」閉じたままの窓ガラスを、ずるりとすり抜けて少女は入ってきた。「あなたも、あたしとおんなじ魔法少女なのね。おとなだけど、あたしとおんなじ、でもとてもくるしそう。いったいなにがあったの?」
私は後じさって、ソファにつまずいてバランスを崩した。鏡の中から出てきたように、ガラスにはヒビひとつ入っていない。目深にかぶったフードの下は、青と灰色のチェック模様が入ったブレザーのようだった。この近くでたまに見かける、私立の中学校の制服だった。
「ごめんなさい、おどろかして」
私は咄嗟にライターを手に取った。スイッチを押そうとすると、がちっという固い手触りがする。
「スイッチが……」押せない。何かに引っかかっているように途中でスイッチが止まり、奥まで押し込めない。「どうして?」
「あの、ごめんなさい。あたし、あなたにひどいことをするためにここにきたんじゃなくて……ただ、声がきこえたから」
「声……」
「『たすけて』って、声がきこえたの。あなたの声、とってもきれいなの……おとななのに、とってもきれいな声。だから、あたしはここにきた――こまっている人をたすけるのも、魔法少女の義務でしょう?」
彼女は懐からさっと、何かを取り出した。
「これをあなたにあげます」
それは、私たちが持っているライターによく似ていた。
でも、透き通るように透明で、色がついていないオイルが中に詰まっている。
「それをつかってください。きっとあなたのなやみを、消してくれるとおもいます」
「あなた、誰……」
ごうっと身体の中に熱いものが渦巻くような気がした。少女は怯えたような目で私を見たけれど、身体をすくませたり、後じさったりはしなかった。じっと私を見ながら、フードの隙間からぬっと分厚い本を取り出した。緑色のハードカバーが綺麗なそれを、指で裂くようにしてページを開いた。
「『あなたはかわいそうな魔女』……『あなたはとてもきれいで、やさしい心のもちぬしなのに、みんなからおそれられ、きらわれ、いじめられていました』……『はじめはじっとたえていたけれど、そのうちあなたの心も、まわりのいじわるな人たちのようにすさんでいきました』……『わるい魔女、わるい魔女といわれるうちに、やさしくてきれいな魔女だったあなたは、ほんとうにわるい魔女になろうとしていたのです』」
脚が震えて、身体が起き上がらない。
歯ががたがたと音を立てる。私っていつもそうだ、怯えて、怖くて、動けない……私はじっと耐えているだけだ。
「それがいやなんでしょう?」ふっと、少女は微笑んだ。「だから、このライターをうけとってください。きっとあなたをたすけてくれる」
「ねえ、あなたは……」
「あたしの名前は、八坂八宵、です」
ばんばん、と窓ガラスを叩く音がした。そこにはまた、彼女と同じくらいの背丈の女の子がいて、夜闇に光る眼をがっと見開いて、歯を見せてにっと笑っていた。
暗くてどんな格好かは、よく見えない。
「やよいちゃん! 早く、早く! はじまっちゃうよ」
「うん、いまいくよ、空ちゃん」
彼女はとっと駆け出すと、窓ガラスをぬっとすり抜けてベランダへ出た。そして手すりに足を掛けると、私のほうをくるっと振り返って、
「がんばってくださいね」
そう言って飛び降りた。
遠くで青い雷が鳴る。
私は右手に緑のライターを持って、左手に透明なライターを握った。
このライターは、いったい何だろう?
あの魔法少女は誰なんだろう? 八坂八宵――それに、もうひとり。さっきのギロチンの魔法少女や、イリス=クォーターと関係がないとは言い切れない。
どうして私は動けなかったんだろう。
でも、すごく……
「きれい」
透明で、まじりっけのないようではあるのに、蛍光灯に透かすときらきら、金や銀の微細な粒子が混じっているようで、色とりどりに輝いているように見えた。それに、なんだかとてもいい匂いがする……鼻の近くに持ってきて、嗅いでみる。新しい化粧品の香りを確かめるように。私の持っている『緑』のライターは、オイルのようなかすかな臭いがするけれど、こっちは植物を煮詰めたような、花の香りが混じっているような、そんな香りがする。
気分が軽くなってゆく。頭のなかにかかった嫌な思い出がもやになり、だんだん晴れていくような、そんな気持ちだ。
また、雷が鳴った。居ても立っても居られない気持ちだ。
私はベランダの窓を開き、裸足で雨に濡れた。あの閉じ切ったシャワーよりずっと冷たくて、気持ちがよかった。私のいろいろなしがらみを洗い流してくれる気がした。
「でも、ちょっと寒いかな」
私は緑色のライターと、透明な、新しいライターのスイッチを、それぞれの手の指に引っ掛けた。
すると、透明なオイルに電流が流れたように、それは、ネオンに光るような――蛍光色のグリーンに色を変えた。
「変身」
明日架、リサちゃん、それに千夏ちゃん。
みんな私が助けてあげる。
私が戦ってあげる。
だって私はあなたたちと違って、大人――あなた達を守るべき立場の人間なんだから。
「けど、いまだけは――」
魔法少女でも、いいわよね?
溜息が緑色に光り、ぼっと宙に消えた。




