中井明日架と井荻リサは真夜中を駆ける-2
【White】
家に戻ったとき、いつの間にかびしょぬれだった。そう言えば雨が降っていたことに気が付かないくらい、靴の中までずぶぬれで、適当に選んだ服が肌に貼りついて気持ち悪かった。
寒い。
家が暗いせいだ。きっと、お父さんはまだ帰っていないようだ。私は洗面所で念入りに手を洗った後、どうしても我慢できなくて思いきり吐いた。胃袋がひっくり返りそうなほど痛くて、三半規管が壊れたように視界がグルグルする。
目の前の鏡で私を見た。さぞひどい顔をしているだろうと思ったら違った。私は笑っていた――にっと、口を横に引き伸ばして笑っていた。
バン!
勝手に私の手が鏡を叩いた音だった。しまったと思って飛びのく。鏡に傷がひとつもついていないのを確かめて、ほっと溜息をついた。さっき吐いた胃の中身がまだ、喉の奥のほうに燻っていた。
そうだ、きっと電気がついていないからこんな風になるんだ。スイッチを押しても電気がつかない――何度押しても一緒だった。怖くなって自分の部屋に駆け込むと、開けっ放しのカーテンから、弱々しい街の夜灯が差し込んで、うっすらと私の影を部屋に移し込んだ。ベッドの上から薄い毛布をはぎとるように身体に巻き付けて、部屋の隅で膝を抱えた。
「そんなに、怖がらなくてもいいじゃない」はっきりと声が聴こえる。「わたしは何もしないわよ、ただ、あなたと一緒にいるだけ。あなたがいなくなったらわたしもそうなる、それはとっても困ることなんだもの」
見たくなくてぎゅっと目を瞑る。まだ、胃袋がかすかに痙攣しているようだった。それでもお構いなしに、わたしが私にささやく。
「ようやく思い出したんじゃないの、本当のあなたを、ちょっとずつ」
「私は忘れたことなんてない!」
「嘘。忘れようとしていたじゃない」
「ずっと覚えている」
「でも、それを誰かに打ち明けようとはしないのね。かわいそう、卑怯な鷺宮千夏さん」
「うるさい!」
誰かが毛布をばっとはぎ取った。遠くでぴかっと雷が光った。
私がいた。
同じ顔、同じ背格好、同じ体格の女の子がそこに立っている。雷の音が地響きと共に私の身体に響いた――彼女は夏に似合わない黒いコートに身を包んで、涼やかな顔で私を見下ろしていた。
「ね、怖がらないで。わたしのことを受け入れてよ。わたしの話を聞いて」
「いや――あなたなんか私じゃない!」
「もう、強情なんだから」
わたしが白い手を差し伸べてくる。
右手でそれを振り払った。痛い。手の甲が燃えるように熱かった。
「そりゃそうよ、あなた、わたしを叩いているんだから」
「うるさい……」
「ひどいじゃない、ほら、こんなに」と、おもむろにコートをはだけると、露になった身体のあちこちに傷が浮かんでいた。「ここは十歳のとき、カッターナイフではじめてリストカットをしたときの傷。このお腹のところは六歳のころ、クラスメイトだった男の子に叩かれてできた痣――今もたまに痛む――この足の傷は、さっきあなたが刀で差したところ。ここはあなたが包丁で引っ掻いた傷。ここは爪を切る前に自分でつねったところ。ここだけ髪の毛がちょっぴり薄いのは、あなたが自分で引っ張る癖があったから、ずっと直らなくて、お父さん? にもだいぶ注意されてたわよね、やめなさい、やめなさい、やめなさいって言っても、でもお父さん? はぜんぜん怒ったりしなかった、よほどあなたのことが大切だったのね、鷺宮千夏さんのことが」
「もうやめて!」
「あなたの身体の傷は魔法少女の力で治るかもしれない。でも、わたしは違う――いままであなたが負った傷はすべて私が受け止めてあげているの。そうしないとあなたは、きっと痛みに耐えられなくて死んでしまうわ」
ひどく疲れた。頭がぐるぐるして、ぼーっとする。
わたしは急にかがみこんで長い腕を伸ばすと、私の頭を抱えて白い身体に抱き寄せた。どうして――こんなに温かくて、優しいんだろう。
「わたしだけがあなたを受け入れてあげられる――ありのままの本当のあなたを。もっと自分をさらけ出してもいいのよ。それが生まれ持ったあなたの性なんだもの」
「私のサガ?」
「そう――だってそうじゃない? あなたは他人を傷つけて、苦しむのを見るのが大好きな殺人狂。でも、他人を傷つけるのは良くないことだと教わって、それが正しいことだと思い込んで、無理やり我慢してきたのよね。苦しかったのよね、つらかったのよね」
抱きしめたまま、薄い胸の向こうから、かすかに心臓の鼓動が伝わってくる。
「だから自分を傷つけて、誰かを傷つけないようにしてきた。かわいそう、優しいあなた、でも、もう我慢しなくてもいいの。これからはわたしがあなたを許してあげるからね」
「でも……」
「思い出して――ほんとうは楽しかったんでしょう、あのときもそうだったくせに」
がた。
下の階で物音がした。
「千夏――? 帰っているのかい」
お父さんの声だ。私は扉に必死にしがみつきながら、
「うん、おかえりなさい、お父さん」
「電気がついていないから心配したよ。誰かと話しているのか?」
「うん、ちょっと――大和と、お友だちと電話していたの。うるさくしてごめんなさい」
「そうか、よかったよ。今日も出かけていたんだろう?」ごそごそと物音がする――お父さんが私の部屋に近付いてくる気配は、ない。「夏休みだからどこか遠くへ旅行にでも連れて行ってあげたいけど、ちょっと難しいかもしれないな。お父さんのほうも、仕事が忙しくてね」
「ううん、いいの、ありがとうお父さん。もう寝るから――おやすみなさい」
そう呼びかけて私は部屋の中を振り返った。もう、わたしはそこにはいなかった。
忌々しいこと――代わりに、心の底から声が聴こえる。忌々しい――あの男がいるから、あなたはこんなにつらいおもいをしているというのに。
「やめて――お父さんは何もしていないでしょ」
ぎゅ、と握りしめた左手に、何か硬いものが握られていた。
「殺しなさい」
あの白い刀だった。私はまだ、魔法少女に変身してなんかいないのに――
「今すぐあの男を殺せば、あなたは自由になれるのよ」
○
【?????】
ずっとお母さんのことがすきだった。
心の底からすきだった。
この人のために何でもしようと思った。この人にすくわれた命なら、この人のために使おうってそう決めた。私が頑張ると、お母さんはいつも褒めてくれた。私がうまくやれなくても、お母さんは私を怒ったり、ぶったりしなかった。
「あなたが生きていてくれるだけでうれしい、母さんはしあわせよ」
そう言ってくれた。私を優しく抱きしめてくれた。それが嬉しくて、もっと母さんの喜ぶ顔が見たいと思ったんだ。
だから――――
○
【Yellow】
間一髪だった。私がそれを見たとき、あの魔法少女が振り下ろしたギロチンの刃がもう、明日架さんに届きそうになっていたのだ。
「わああああ――――!」
という、言葉にならない叫びと共に必死に伸ばした手から伸びたリボンが、あの魔法少女の腕と身体を雁字搦めに縛り上げた。ギロチンの刃は、間一髪、明日架さんの首元で止まる。
閉じたパラソルからリボンを伸ばし、明日架さんの身体を包み込むと、そのまま魔法少女から引き離した。私もその場所に着地する。狭い路地裏で向かい合う、魔法少女の身体を縛り付けていたリボンがぎしぎしと、台風に揺れる家のように軋んだ。距離はだいたい五、六メートルと言ったところだろうか……
「明日架さん……!」彼女はボロボロだった。手に握られていた青いライターには、一滴の魔力も残っていなかった。細く開いた眼は焦点が合っておらず、だらりとしている。私は懐から黒いライターを取り出し、「まずは、魔力を補給しなくちゃ」
「りっちゃん!」
クウの悲鳴と共に視線を上げると、あの魔法少女がギロチンを振り上げていた。とっさに明日架さんを抱えたまま飛びのく――その向こうに見えたのは、リボンで拘束されたままの魔法少女の姿だった。
さっき、一瞬だけ見た、分身する能力。ビルの屋上で千夏ちゃんや香苗さんと戦っていたのは、グローパーではなくて、これだったのだ。
「クウ、明日架さんをお願い」私は黒いライターをクウに手渡し、「こっちで時間を稼ぐ!」
「気を付けてね、りっちゃん……!」
「任せて――」
魔法少女の分身が次々に現れ、リボンの拘束をギロチンの刃で引き裂く。『本物』がゆっくりと地面に降りたつと、手にした刃が音を立てて変形し、先の平べったい奇妙な剣へと姿を変えた。
同じ顔が六人。
「お願い――」一瞬だけ目を閉じ、パラソルに巻き付けたリボンを地面に突き立てた。「力を貸して、私たちを守って……!」
透明な骨格にリボンが巻き付いていくように、するするとかすかな衣擦れの音を立てながら、瞬きもしないうちに巨大なリボンの騎士が現れる。黄色と白のフリルの騎士は、右腕に握りしめた剣で魔法少女たちに斬りかかった。一振りでふたりがまとめて薙ぎ払われ、その姿を消す。
「……、目障りです」前髪をかき上げながら、『本物』が地を這うような声でつぶやく。「ですが、貴女の『ライター』をもここで奪えるのなら、それは好都合です。きっとお母さんも喜んでくれる」
「誰が、あんたなんかに渡すもんか……!」
私もパラソルにリボンを巻きつけた、螺旋状の槍を構える。
「ひばりさんのライター――ここで返してもらう!」




