鷺宮千夏 / 石上香苗は夜道をふたりで歩く-1
「お姉ちゃん、じゃあね! また遊ぼうね」
「ばいばい」
翼はそそくさと駆けて行った。もう陽が沈みそうだ、あまり帰りが遅くなると、小学生はいろいろ言われるのかもしれない。私と香苗さんは、たまたま帰り道の方向が一緒だったので、ゆっくりと歩いた。香苗さんは背筋がぴっと伸びて、ちょっとかかとの高い靴を履いていた。香苗さんが歩くたび、かつかつと、心地よい音がする。
「もう遅いし、近くの駅まで一緒に歩きましょうか」夜風が香苗さんの髪の毛を撫でる。ほんのり、いい香りがした。「女の子がひとりで歩くと危ないわ。最近は何かと、物騒ですものね。『通り魔』のこともあるし」
「通り魔?」
「聞いたことないかしら? この辺りで最近『通り魔』が出ているって話」
そんな話は聞いたことがない。ニュースでも報道されているのを聞いた覚えがない。
香苗さんは続ける。
「私たちは『魔法少女』だけど、変身していない間はただの女性よ。もちろん、力では男の人には敵わない、それは分かるわね」
「そう、ですね」
「それに、千夏ちゃん。あなたはまだ小さい、子どもなんだから。まだ中学生くらいでしょう? でも、あなたのことを『子ども』じゃなくて、『女』として見るような男も、この社会にはたくさんいるわ。嫌なことかもしれないけど、それは仕方のないこと――私たちはどうしても、そういう風に見られてしまうものなの。それはどうやっても変えられない」
私は彼女の話し方に、ふと、違和感を覚えた。
香苗さんの表情は穏やかだ。徐々に、周囲には通行人の姿が目立つようになっていく。静かで、人が住んでいるかも分からないほどひっそりした住宅街の中に、隠れるようにある東さんの工房から、少しずつ、いつも通りの景色へ。空には、一番星が光りはじめる濃紺が広がっている。
「あなたは魔法少女である前に、ひとりの女の子。それを忘れては駄目よ」
「そういうものなんでしょうか」
「ええ」香苗さんの返事は間髪なく入れられた。「そのうち、嫌でも分かるわ。でもそれは恥ずかしいことでも、隠すようなことでもなくて、――千夏ちゃんが大人になるってこと。ちゃんと胸を張って、誇れるようになるといいわね」
信号で立ち止まる。周りには、仕事帰りのサラリーマンや、夏休みの学生たちがごった返している。やけに、周囲の男の人の存在が気になった。スーツ姿で、汗まみれになりながら――いろんな人がいる。髪の毛、顔の形、服の色、身長、体型、脚の長さ、視線の先……
「うっ」
思わずえづいてしまいそうになる。気持ち悪い――そっと肩に手を触れられた。細くてひんやりした指は、香苗さんの物だった。
「だいじょうぶ? 酔った?」
「は、はい……ちょっと」
「ここは人が多くて駄目ね。ちょっと、裏の方を歩きましょう。この辺り、遠回りすると人が少ないのよ」
香苗さんに手を引かれて大通りを逸れて、背の高いビルに囲まれた一方通行の通りに入った。のれんのかかった居酒屋から、いろいろな食べ物の匂いがする。その代わりに人の声はくぐもって、むっとする熱気がそこにはなかった。
「だいぶ楽になったでしょ。この辺り、私もよく通るのよ。少し休んでいきましょうか? どこかお店に入る?」
「いえ、そんな。悪いですから」
「遠慮なんて、しなくていいのよ」
それでも私は断った。気分がよくなり始めていたのは本当だったからだ。夜空に冷えたアスファルトのおかげで、吹いてくる風は涼しい。ここには私のことを見る人がいない。早く家に帰りたかった、今日はお父さん、帰ってくるんだっけ――そういえば冷蔵庫の中身、チェックしてなかったな。
「千夏ちゃん、分かる?」
ふと、香苗さんは立ち止まって言った。
「はい……なんとなく」
「私みたいに、経験の長い魔法少女はね――たとえ変身したりしていなくても、肌で魔力を感じることができるの。明日架や、たぶんリサちゃんもそうね。あなたもそうなのかしら」
「なんとなく、ですけどね」
空を見上げた。紺色に染めあげられた星空の一角が、真っ黒に塗りつぶされていた。そいつは赤く光る眼をぎらつかせながら、しゅ、と切り裂くような雄叫びを上げると、ビルの屋上を蹴って私たちの方へ飛びかかってくる。
「変身」
私と香苗さんが、懐からライターを取り出してスイッチを押すのは、ほとんど同時だった。
ふたり、それぞれ別のほうへ跳躍する。さっきまで私たちが立っていた場所に、巨大な狼のようなグローパーが立ち尽くしていた。体長は二メートル五十センチくらい。身体のあちこちから、宝石のように黒く輝く棘のようなものが飛び出している。鋭い牙の覗く口元からは白い蒸気がもうもうと漏れ、よく見るとそこに赤い瞳が四つも並んでいた。
鋭い前肢を振り上げる。咄嗟に、刀を収めたままの鞘で受け止めた。骨の軋む音――かかとの辺りに鈍い感触があった。ぐるるぉ、と乱暴な声と共に振り払われた爪に、私の身体が吹きとばされた。ビルの壁面に背中からぶつかって一瞬、動きが止まるのと同時に、そいつは素早く飛びかかって来て――
「ガロロロロロロロォ――!」
目の前が緑一色に染まった。
全身総毛立ち、身震いする。まるで冷凍庫の中にいるみたい――すると、さっきまで目の前にいたグローパーは、影も形もなかった。代わりにそこにいたのは、黒ずくめのローブに身を包んだ香苗さんだった。手には、緑色に光るランプのようなものを持っている――その中には、緑色の炎の塊が揺らめいていた。
「大した事なかったわね。千夏ちゃん、怪我はない?」
「はい、大丈夫です――今のは?」
「ちょっと、力を込めただけよ」香苗さんは笑いながら、地面に落ちていた黒いライターを拾い上げた。「最近はグローパーの数が減ってきたと思っていたけれど、まだこんな街中にも潜んでいるのね」
「……、」
私は周囲を見回した。高いビルの上のほう、電線の上、細い路地裏、ビルとビルの間の狭い隙間まで――
それは唐突だった。
ぬっと、立ち上がる煙のようにそこにいた。息をのむ私の横で、香苗さんが半歩だけ足を下げた音が聞こえる。
そこには黒いスーツ姿の男が三人立っていた。
一人は髪を整髪料でオールバックにし、もう一人はスキンヘッドで、最後の一人は金色の髪を七三分けにしていた。全員、黒いサングラスをかけている。そして微動だにせず、私たちを見ている。
「どちら様かしら」
香苗さんは敵意もあらわに、彼らを睨みつけた。私たちは変身を解いていない。私の右手には、鞘に収められたままとはいえ刀が握られたままだ。こんな姿の私たちを見て、彼らはなにも感じないのだろうか。
「何かご用でしたら――」
「お前たちは魔法少女だな」
スキンヘッドの男が言った。映画俳優みたいな声だ。私はそれを聞いた瞬間、脚が勝手に動き始めるのを感じた。
「魔法少女は排除する」
「お前たちは我々の計画の邪魔になる」
あと三歩。
刀を抜いた。今は夜だ――光源がない今、私の影が地面に映らないから、魔法で攻撃することは出来ない。男たちはまだ動かない。一番手前に立っているスキンヘッドの男へ切先を向けた瞬間、目と目の間を何か強い力で叩きつけられて私は地面に倒れた。その勢いのまま転がって、天と地が分からなくなる。
それは一瞬だった。横に立っていた金髪の男が、血で赤く染まった拳をスーツのポケットの内側に入れる。後の二人もそれにならって、同じように、同じ仕草で、同じものを取り出した。
それは拳銃だ。いや、
「あれは――!」
「千夏ちゃん、下がりなさい」
香苗さんの声はぞっとするほど冷たかった。背後から緑色の光が照り、地面に私の影を落とす。振り返った。そこにいたのは、香苗さんの背後に立ち、光る腕を伸ばす炎の巨人だった。まずい、と思ったとき、ようやく私は香苗さんの言うとおりにそこから下がった。
男たちは三人とも、銃口を自分のこめかみのあたりに持っていく。
「変身」
男たちの身体が光るのと、緑色の炎の柱がそこに突き刺さるのは同時だった。香苗さんの炎の巨人の腕が、アスファルトから深く立ち上がっていた。それは驚くほど静かだったけれど、私の肌と髪の毛がびりびり震えるのが分かった。
香苗さんの表情は落ち着いている。むしろ嬉しそうに見えた。
けれどその表情はすぐに強張った。
「I’m ready.」
「I’m ready.」
「I’m ready.」
そこに立っていたのは――漆黒の鎧を纏った、三人の人型。
右手の肘から先に生えている、三角柱のようなオブジェ。
そして、サングラスのような金属に覆われた瞳の奥からは、無機質な赤い単眼が光っていた。
「I’m ready.」「I’m ready.」「I’m ready.」
三角柱の銃口がこちらに向けられ、赤い光が目の前を包んだ。
「千夏ちゃん――!」
香苗さんの叫ぶような声が、耳に突き刺さった。私は咄嗟に、後ろを振り返って、刀を抜いた。




