石上香苗は昼下がりの優雅なひと時を過ごす-3
「だめじゃない、みなと」
「ふー、ふー、ふー……」
それは突然目の前に現れた。
落ちてきたのでも、歩いてきたのでも、飛んできたのでもなく――現れた。
全身をくまなく覆う、ドレスのような、真っ白な服に身を包んだ、灰色の瞳の女。
彼女は翼を広げ、口元から牙をのぞかせる異形の魔法少女をそっと抱きしめると、
「よしよし。ありがとう、私の大切な娘――こんなになるまで、頑張ってくれて。でも、もう満足よ」
唐突だった。
そして私は気が付いた。白い女はそこに立っている。
私の広げた炎の海が、いつの間にか消えている。
「ぅ、母さん……」
「よし、よし。もう休みましょ、ね」すると彼女は、魔法少女を抱きかかえたまま私を見て、「あなたね? うちの娘にこんなひどいことをしたのは。ごめんなさいね、この娘、まだ生意気盛りだから」
その口元から、喉の奥から、緑色の光が見えたのは気のせいだろうか――
「だれ」
「私の魔法名は、イリス=クォーター」
思わず口をついて出た問いに、彼女はあっさりと答えた。けれど、その答えは、答えになっていない気がした。腕の中でぐったりする黒い少女を、彼女はもう一度優しくいたわるように抱きしめると、その額にキスをひとつ。
「お帰り、善い子」
すると、一瞬で彼女の身体はその場から消えてなくなった。
まるでマジックショーでも見ているみたいだった。3、2、1でそうなるように、消えた。イリスと名乗ったその女は、名残惜しそうに空の彼方を見つめたあと、私にくるりと向き直り――金色に光を帯びた瞳で私を睨みつけた。
「忌々しい魔法少女――けど、あなたの相手をするのには、余計な栄養を使うわ。それに、今回はあなたのおかげで命を繋いでいただけたんだもの。『魔女』は誓約と義理を果たすものよ」
「『魔女』ですって……」
東さんと同じように、この女もまた、『魔女』だというのだろうか。
東さんが私たちをそうしているように――彼女もライターを作り、魔法少女へ変身させているのだろう。けれど、それと同じように、街の人間を次々にグローパーへと変じさせているのも、また彼女たちではなかったか。
「あなたは、何が目的なのかしら。どうして次々にグローパーを生み出し、街へ放つの?」
「その話はまた今度にしましょう、『緑』のカナエさん」彼女は懐から何かを取り出した。それは複雑な色味で太陽の光を跳ね返す、鳩の羽根だ。「あなたのその緑色の炎、とても濃密な味わいだったけれど、少し臭みがあるわね。悪食もそこそこにしておきなさい、まだ若いのだから、無理矢理に魔力を得ても命が燃え尽きるのを早めるだけよ。所詮、只人間なのだから」
「何が言いたいのかしら……」
「魔女らしく言葉を変換してあげましょうか? 生肉を喰らい、生き血をすするなんて言うのは、獣畜生のすることだと言っているのよ。年長者からの忠告――食事くらいはきちんと、調理をしてから摂りなさい。火加減を見るのはお得意でしょ?」
ぞわっ。
全身総毛立つ、という感覚を、はじめて味わった。恐怖からではない、それだけではない。ただ、怒りにも似た何かから――緑色の炎の竜が私の背中から飛び立って、イリスへと向かっていく。その巨大な口を開き、見上げ、眩しい夏の日差しを見るように彼女は微笑んで、
「また会う日まで、未熟な魔女さん」
手に持った鳩の羽根を、ぱっと振り撒いた。
炎の竜が内側から弾けるように消え、辺り一面に緑色の火の粉を振りまいた。それらは太陽の光で蒸発して消えていく水滴のように、あっという間に消えてしまう。
イリス=クォーターの姿はもう無かった。
無性にいらいらしていた。ランプの柄にまたがって空を飛びながら、きれいな景色を見ても、小鳥とすれ違っても、ちっとも心が晴れない。頬を撫ぜる夏の風すら、今はただただひたすら不快だ。
吐き気がする。お腹が痛い。
照り付ける太陽が腹立たしい。私の魔法が空まで届くのだとしたら、今すぐ消し去ってやりたいくらいだった。
空は真っ青に塗り固められている。まるで作り物のように。
人目につかない場所で降り立つと変身を解き、自販機でペットボトルの紅茶を購入する。そして、まるで今たまたま通りがかって、冷たい飲み物を買いました、という風に装いながら、駅のロッカーで預けた荷物を手に取った。
きゃはは、と甲高い声で笑う女の子。
スーツ姿で、我が物顔をして歩く中年の男。
周囲を顧みず、はしゃいで回る小さな子ども。
あらゆるものが、私をいらいらさせるために存在しているんじゃないかと、そう思ってしまうほどだ。こんなに腹立たしく、悲しい気持ちになったのは、ずいぶん久し振りだった。中学生のころ以来だ。
もうとっくに、予定していた一時間を過ぎている。いい加減オフィスに戻って、仕事を片付けなければ。そう思って通りを歩きながら、できるだけ周囲のことを気にしないように、努めて気分を冷静に保つ。歩道の赤信号で止まった隙を見て、ペットボトルの紅茶を口に含んだ。
どすん。
「あっ」
という衝撃と共に、結露したペットボトルが手を滑り落ちた。地面に倒れ、まだ半分以上も残っていた中身が、鉄板のように熱されたアスファルトになみなみと流れていく。周囲の人々が、露骨に嫌そうな顔をしながら、赤い水たまりを避ける。
ちっ、という舌打ちが、すぐ目の前から聞こえた。四十歳くらいの男だ。ピンクのストライプのワイシャツを汗でぐっしょりと濡らしながら、ちら、と私のことを睨みつけて、何食わぬ顔で前を向く。信号が青になった。その男はわざとらしい急ぎ足で、てらてら虫みたいに光る革靴を鳴らしながら歩いていく。
その無駄に横幅の広い肩で、通りかかる女性に何度もぶつかりながら。
私は空になったペットボトルを拾い上げ、ハンカチで水滴を拭いてから鞄にしまい込んだ。
歩く。
人混みはまだ少し苦手だけど、会社勤めが始まってからすっかり、慣れたものだと思う。
「すみません」
男が角を折れて、人通りのない路地へ入った。私は背筋を伸ばして、少しだけ膝を折り、彼に声を掛ける。
男は最初、私のことを無視した。けど、もう一度、「あの、すみません」と声を掛けると、迷惑そうに振り返って、
「なんですか、僕のことをつけ回して」
「さっき、私にぶつかりましたよね、そこの信号のところで。わざとああいうことされるの、迷惑なんですよね」
「言いがかりをつけないでくださいよ。僕はぶつかってません」
「いいえ、ぶつかりましたよ。私だけじゃない、他の人にもたくさんぶつかっていたでしょう? それも、自分より身体が小さくて、若い女性にばかり。卑怯じゃありません?」
「しつこいな――警察を呼んだっていいんですよ」
「その必要はありません」
周囲に人はいない。
ぽかん、としながらも、いらいらと貧乏ゆすりをして脂肪まみれの身体を震わせる男に向けて、私は懐からそれを取り出した。
男は慣れた様子で直ぐに息を吸い込み、
「だれ――!」か来てください、この女は凶器を持っています。私に危害を加えようとしています。大方、そう叫ぼうとでもしたのだろう。
けれど、男はもう叫ばない。
口の中に飛び込んだ炎は、男の声帯を焼き潰して、口から力強いかすれた息だけが漏れ続けている。目玉からどろどろした、緑色の何かが漏れ出した。口や鼻からも、耳の穴からも――頭蓋骨の隙間からも――手や足の先が破け、安物のスーツにぜんぜん似合っていない黒い革靴も食い破って――
その間、男はじたばた暴れ回っていたけれど、声だけは一切発することはなかった。やがて、身動きが取れなくなった彼を、一瞬だけ出した強い炎で焼き払う。すると、そこには影も形も残らない。なにも残らない。
最後まで、男は私のことを、恐怖と怒りが入り混じった目で見上げていた。
でも、もういない。私は鞄から財布を取りだし、中の所持金を確かめた。さっきのペットボトルを買ったとき、細かいお金はすべて使い切ってしまったようだった。
「どこかでお金、崩さなきゃ。それともオフィスに行くまで我慢しようかしら」
○
【Yellow】
白熱した試合を、私は最後まで見届けることができた。
一進一退の攻防が続いたその試合は結局、最後の最後で逆転を許し、駿介のチームは試合には負けてしまった。観客席から見たチームメイトたちは、みんな悔しそうに肩を震わせながら、がっくりうなだれて控室へ消えていった。それは駿介も例外じゃなかった。
でも、あいつはがんばってた。
何本も――ほかのチームメイトや、相手のチームの誰よりもシュートを決めてたし、誰よりも汗を流して、誰よりもパスをカットして、誰よりもパスをつないでいた。
それでも負けた。
スポーツというのは、ままならないものみたいだった。
「りっちゃん、いいの? 声をかけていかなくて」
「今日はそっとしておいてあげよう。落ち着いたころになったらまた連絡するよ」
私はこっそり、他のギャラリーの父兄がたに紛れて体育館を出た。そして、トイレを探すふりをして校舎裏の日陰へ行くと、がっくりと、壁に背をもたれかけた。
身体に力が入らない。
魔力は既に回復している。傷も塞がっているのに、気を抜くと息が止まってしまいそうなほど、疲れ切っていた。
「ほら――言わんこっちゃない。りっちゃん、あんな無茶をするから……!」
「でも、駿介が無事で試合を終えられたから」スリーポイント・シュートを決めたときの、駿介の顔を思い出しながら、「これで良かったんだ。香苗さんにまた、助けてもらっちゃったけど……それでも、私はちゃんと、魔法少女としてしなきゃいけないことを出来てる。それって、いいことでしょ?」
「でも……!」
「クウは心配性すぎ。ね、私は平気だから。少し休めば、また……」
でも、頭が痛い。
血の気が引いていくような感覚だ。きっと熱中症になったんだと思う。体育館のなかは暑かったし、今日はそもそも気温だって高いし、こうして日陰で休んでいるのが一番いい。
「そうだ、それならついでに、水分補給もしなきゃ」
私は踵を返して、出来るだけ日光に当たらないようにしながら、体育館の入口へ戻り、自動販売機で飲み物を買おうと小銭を用意した。
「あ、」
「あ……」
タイミングの悪いことは、重なる。
ユニフォームの上からジャージを羽織った駿介が、そこに立っていた。不思議とすっきりした顔つきで、彼はスポーツドリンクを一気に飲み下していたところだった。
「よう、リサ」
「あ……その、」クウはまた、意味もなく私の服の後ろに隠れている。「お、お疲れ」
「お疲れ。来てくれてありがとな」
駿介は屈託なく笑っている。額には汗が光り、腕や脚や、首周りからは白い湯気のようなものが立ちのぼっているようにも見えた。
「その、残念だったね。試合」
「ああ……でも、相手が悪かったよ。こっちは全力のプレーだったから、それでも負ける時は負ける。スポーツって、そういうもんだからさ」
「そうなんだ」
「なんだよ」
「いや、もっと悔しがってると思ってたから。駿介、小さいころからそうだったでしょ。体育のドッジボールでも、中学の時の球技大会でも……試合に負けたあとは、もう心ここにあらずっていうか、そういう風だったからさ。今日は声を掛けないで帰ろうと思ってたんだけど」
「今日は違うさ。全力でプレーできたから、悔しくないよ。全力を出し切っても、それでもまだ、勝てなかった。チームの新しい問題点も見つかった。それを克服するためにも、また練習、練習、練習だよ」
駿介は笑っているけれど、それはへらへらしているわけじゃなくて――
心の底から楽しそうで、嬉しそうな、そんな表情だった。
「それに――」と、そこで少しだけ緊張を緩めると、「り、リサがわざわざ試合を見に来てくれるなんて、滅多にないからさ。柄にもなく、頑張っちまったよ」
「え――」
「でも、やっぱり見てくれる人がいると、違うよな。リサの前で情けないプレーしてたまるか! って思ったら、不思議と力が湧いてくる気がしてさ」
「な、何言ってんだよ! ばか」
「でも、ありがとな。来てくれて」
「ん……うん」
すると、体育館の奥から戻ってきた先輩と思しき男子が、
「おい、桜井! ミーティング続きはじめるぞ!」
「ハイ! すぐ戻ります!」
飲み干したペットボトルの容器をゴミ箱に捨てると、
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
「うん。お疲れ」
どちらからともなく、私たちは互いに手を翳し合って、ハイタッチを躱した。駿介は駆け足に控室へ戻っていく。私もすぐに踵を返した。また、ペットボトルで冷たいお茶を買うと、それを口に含みながら今度こそ体育館を後にした。
「りっちゃん、なんだかうれしそうね」
「ね、クウ。私の苦労したのにも、『甲斐』があったでしょ?」
「でも、それであなたが傷ついていたら、身もふたもないわ。そんなことを続けて、万が一のことがあったら……駿介くんが悲しむわ」
「大丈夫、気を付けるから」
「いつも、そればっかりじゃない」クウの語気が強いので、私は思わず立ち止まってしまった。「大丈夫、気を付ける、何とかするって――それで今日も、あなたはあの魔法少女に負けて、もう少しで命を失うところだったのよ!」
クウは泣いていた。
苦しそうに胸の辺りを手で押さえながら、私のことをしっかり見つめていた。
「……、うん。ありがとう」
「無茶なことはしないで。りっちゃんのしていることは、確かに立派なことよ。でも、それであなた自身が倒れちゃったら、それは本末転倒なのよ?」
「気を付けるよ。これからは、無理なことはしない。約束」
その時だった。クウの頭に巻いたリボンが淡く光ったかと思うと、クウは電話をするみたいにじっと黙って、うん、うんと相槌を打った。
「なに?」
「えと……」言いにくそうにもじもじしている。
「言って。使い魔が何かを見つけたんでしょう?」
クウは観念したように溜息をつく。
「明日架ちゃんとグローパーが戦っているみたい。でも、そこにもうひとつ、何かが向かっているって……」
「それって、まさか――」
「ええ、恐らく――あの魔法少女かもしれないわ」
私の胸を鎌で貫いた、あの魔法少女。
いつの間にか姿を消していたけれど、今度は明日架さんを狙おうというのだろうか――
「行こう」私はライターを取り出した。「明日架さんを助けなきゃ。使い魔がわざわざ報告を上げるくらいだから、きっと――」
「りっちゃん、さっき言ったじゃない……!」
「無理をしないのと、何もしないのは違う。私だって魔法少女なんだから――大丈夫、ほんとうに、今日はこれが最後。でも、今日はもう一度だけ戦わせて」
「……、分かったわ。でも、少しでも無理をしたら、私が東さんに言いつけて、そのライターを取り上げてもらうからね」
「だったら、なおさら頑張らなきゃ」
長い下り坂を行く足が、次第に速くなっていく。車も、歩行者もいない。私を見ているのは、空を飛ぶ烏や鳩くらいのものだ。
いつの間にか全速力で走っていた。
ガードレールに足をかけ、切り立った崖に飛びだす。同時にライターを握りしめ、スイッチを――息を大きく吸い込んで――注意深く押し込んだ。
「変身――!」
それは、文字通り、魔法の言葉だった。
待っててね、明日架さん。私が助けてあげるから。




