石上香苗は昼下がりの優雅なひと時を過ごす-1
【Green】
「あら、」
それは唐突に私の元に現れた。クーラーのききすぎたオフィスから抜け出して、駅の目の前にある喫茶店で書類の整理をしていたときだった。
煙草は嫌い。喫煙所から一番離れた、出入り口に一番近い丸テーブルにラップ・トップを広げてアイスティーを飲んでいると、足元にかさっと何かやわらかいものが触れた。それは、白いフリルのついたリボンを結わえて作られた、小さなお人形さん。
「これは――」
見覚えがある。黄色く、可愛らしいリボン。小さな背をヒールで上げて、大人っぽく、でも装いは子どもっぽく、そんな――もう、私から見たら微笑ましくも、痛々しくもあるようなあの魔法少女。
井荻リサ。
彼女の着ている服に、ちょうどこんな感じのフリルが巻き付いていたような。するとその人形は勝手にほどけて、ただの布の束に変わってしまった。
「何があったの?」
拾い上げてみる。絹のようにさらさらした手触りのリボンの隅のほうが、不自然にほつれている。指で触れても分からないくらい細い、小さな糸のような光が、出入り口から私の足元まで伸びていた。
これを、辿っていけということだろうか。
「リサちゃんに、何かあったのね」
最近、時どきこのリボンのお人形さんを街でよく見かける。どこかで見覚えがあると思ったら、そういうことだったのだ。私は荷物をまとめると、アイスティーを飲み干してトレイを下げ、お店の自動ドアをくぐった。控えめとはいえ冷房のきいていた店内から外に出ると、骨身にしみるような熱気が私をじりじり照り付ける。鞄にしまったリボンからほつれた糸は、アスファルトの上を這うように、きらきら光っている。数年前、初任給で自分へのプレゼントとして買ったぼろぼろの腕時計で時間を確かめる――オフィスに戻るのは、もう一時間後くらいでいい。
平日だというのに、やけに街が込み合っていると思ったら、もう学生たちはきっと夏休みに入っているのだろう。駅のロッカーに手荷物を放り込み、少しだけ駆け足で街を行く。幸いにして、人通りのない路地裏に潜り込むことができた。
「あらら?」そして、そこには頼もしい先客がいた。「クウじゃない。こんなところで何しているの、珍しいわね」
「あ、ああ。どうも。香苗さん」
このクウは髪を短くまとめて、少しボーイッシュな印象だった。私を見るなり、おどおどして、観念したように私に耳打ちした。
「きょ、今日は暑いので。ここで休憩を……」
「さぼってたのね?」
「お、お願いですから、ご主人様には言わないでください。僕は新入りだから、こんなことで見捨てられたくないんです」
「それじゃあ、ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
私はスーツの内ポケットから取り出した、緑色のライターを握りしめながら、
「別の魔法少女の身に、何かあったみたいなの。心配なので、私も仕事をさぼって助けに行くわ。さぼり同士、ついてきて欲しいの」
「僕は何をすれば?」
「ついて来てくれるだけでいいわ」
ライターのスイッチを指で押し込む。
「変身」
この言葉をつぶやくのは、ちょっとした儀式のようなもの。
これまでの私とは違う――石上香苗とは違う、「魔法少女」になるための儀式。これまでの人生も、私が歩んできた足跡も、ぜんぶかなぐり捨てて、新しい私になるための。
でも、他の子の前では恥ずかしくて言えない。とんだ少女趣味だもの。
真っ黒なローブと、つば広の円錐帽子。手に持ったランプの中では、緑色をした禍々しい炎が燃えている。けれどちっとも熱くない。むしろ、ローブの内側にはひんやりとした空気が漂っていて、快適ですらある。
「どうするんですか?」
「これよ」私は黄色いリボンの端を指さして、「どこかに繋がっているみたいなの。たぶん、この糸の先で何かがあったに違いないわ――追いかけるのよ」
「追いかけるって……僕には、この糸がどこに繋がっているか分かりません」
「だから、ここは古典的な手法でいきましょう」
指先でリボンに触れると、たちまち端のほうで緑色の火花が散った。そして、ねずみ花火の導火線のように、炎は地面を這い、宙へ浮かび上がる。
「あれを追いかけるのよ。つかまって」
「は、はい」
クウはなぜか私の帽子のつばにしがみついた。もっと、肩やローブの裾でもいいのに、と思いながら、私は手に握ったランプの柄を伸ばす。お尻を置くと、ふわりと身体が浮かび上がった――これをする度、私は小さいころに見せてもらった『魔女の宅急便』を思い出す。
私はすっかり、大人になってしまった。
小さい頃は好きな男の子もいた。でも、結局なにもできずにそのまま離れ離れになってしまって、今どこにいるか分からない。名前も思い出せない。
近所の野良猫ともよく遊んでいた。手を引っ掻かれたこともあったし、指を噛まれたこともあったけど、可愛くて、いつも幸せだった。けどいつの間にかどこかに行ってしまった。
魔法少女だなんて恥ずかしい。
今でもそう思っている。けれど――私にとっては、それは今しかないのだ。
燃える火花は空を飛び、まるで流れ星のように炎天下の空を切り裂いていく。
「どこまで行くのかしら」
だいぶ都心からは離れていく。眼下に見える景色には、コンクリートの灰と青から、夏の木立の緑が徐々に増えてくる。ビル街から閑静な住宅街へ。大きな川が流れる、さらさらという音、風に乗って聴こえてくるひぐらしの鳴き声。ふと空を飛ぶ赤蜻蛉とすれ違った。もうこの時期になると飛んでいるのだろうか。
「のどかねえ」東京とは思えない。「こんな時間も大切よね、やっぱりね、夏のボーナスで旅行にでも行こうかしら。あなたもついてくる、クウ?」
「い、いえ。僕はご主人様の言いつけを守らなくちゃ」
「気にしなくていいのよ。魔法少女のサポートだって言えば、東さんも許してくれるでしょ」
「そうでしょうか……」
「あなたは新入りだから分からないかもしれないけどね、管理職なんて下のこと気にしてないのよ。どんな働き方をしていてもいいから、成果さえあげればいいの。私が東さんに話しておくから、あなたはよく働いてくれてとても助かったって」
火花がいきなり針路を下へ変えた。真っ直ぐ、森の中へ落ちていく。私もそれを追って高度を下げていくと、ふと、薄暗い森の中に真っ黒に蠢くものが見えた。
「あれは――」
「グローパーね。近くに人はいないでしょうけど、始末しておきましょう」
幸いにして、火花もそっちのほうへ向かっている。少しだけ降下するのを速めて、姿をはっきりと見る。太い四肢を地面にどっとつけた、熊のような巨体が、赤い瞳で私を睨みつけている。
グローパーのこの赤い目が、私は大嫌いだ。嫌なことばかりを思い出す。
指先でくるくると円を描くと、緑色の炎がぼっ、といきなり宙に現れて、たちまち剣のように形を変える。ひゅっと、それをグローパーへ向けて飛ばすと、鳥のように火の粉を散らしながら一直線に突き刺さろうとする。
グローパーが立ち上がった。
前肢を振りかざし、炎の剣をかき消す。たちまち霧散し、木陰で暗い森の中を照らした。
「クウ、あなたは火を追いかけなさい。後から私も行くわ」
「えっ、どうして?」
「ちょっと手ごわいみたい」どうして、と聞かれたら答えてあげなくちゃ。私は大人なんだから、「見失っては駄目よ。でも、周りに気を付けて」
「は、はい!」
クウは森の中を縫うように走っていく火花を追いかけていった。私もやわらかい土に降り立ち、ランプを構える。熊のようなグローパーはぬっと立ち上がって、私に覆いかぶさるように見下ろしている。大きさは三メートルくらい。
つくづく、気に食わない。
「でも、どうしてグローパーがこんなところにいるのかしら」
グローパーとは、人間を食らう怪物のはず。こんな人気のない場所に、のそのそ獣のように這いまわっている理由が分からない。近くに人間がいるのだろうか? それにしたって、ここは森の中だ。
「あら、」私は気付いた。これだけの巨体なのに、周囲の木や地面に荒らされた形跡がない。「なるほど、つまり、あなたはここでグローパーになったのね。突然、ここに現れたように――生まれたての子熊のようなものなのね」
からから、と、喉からミシンのような声がする。
前足を振りかざした。鋭い爪が覗く。口元から、黒いコールタールのような、ねばねばしたよだれが土を汚した。
柄を短くしたランプを掲げる。
周囲が緑色に輝き、炎が噴き出した。木々にねばりつき、土の上を霜のように滑って、グローパーの四肢に、首に、胴に絡みついて、たちまちのうちに炎上させる。口や眼球からでろん、と炎を垂れ流しながら、どすん、と重い音を立てて倒れ込んだ。
ざらざら音を立てて身体が霧散し、後には黒いライターだけが残される。ひょいっと拾い上げると、やけにねばねばしていて、まるで今生まれてきたばかりの動物みたいで気持ち悪い。
「さて、クウを追いかけなくちゃ」
と、振り返ったとき、背中を凄く嫌な感じが走り抜けた。
子どものころ、散々味わった――あの感覚にそっくりだ。周囲に、さっきの熊のようなグローパーが六、七頭はいて、私にあの真っ赤な眼差しを向けている。
重たいため息が漏れた。
身体の奥の方が、もやもやと熱くなるのを感じた。ランプを握る手の力が強くなる。
ナンダ、オマエハ。
その声は、地面を唸るようにして、私のくるぶしの辺りで響いていた。
のそ、のそ。グローパーたちの足音は見かけによらずに軽くて、落ち葉を踏みつける音しか聞こえない。
オマエハダレダ。
オレタチヲ、コロスノカ。
コロシテヤル。
ヨクモオレタチヲコロシタナ。
アイツモヤラレタ。オレタチモ、ヤキコロサレルンダ。
イヤダ。
イヤダイヤダイコロサレヤダルコロシテヤルヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ――
「うるさいな」
お前たちには、生きている価値がない。




