【Prologue】天沼揺 / 鳴海みなと / 鳴海みらいは家族のために労働する
【Purple】
はい、これをどうぞ。
ご存知ないですか?
さいきん、この辺りで噂くらい、聞いたことがあるでしょう。
…………
あなたはどうしてこんなところにいるんですか?
答える必要はないって?
では、これもどうぞ――いえ、あなたのその服の胸ポケットの辺り。きっとこの銘柄の煙草がお好きなのでしょう。この辺りにいる方は、だいたいそうです。
ライターがない?
では、こちらをどうぞ。舶来品なんです。日本のものより、ずっと質が良くて長持ちしますよ。
あなたはどうしてここに?
…………
仕事をしているけれど、家に住めないほど貧しいから?
そのお金で日々、暮らしている。ここに住んでいれば、家賃を取られることもない、と。
でも、ここは――
電車のガード下なんて、ずっとこんな場所にいたら、耳がおかしくなりそうです。
でも、雨風に晒されるよりずっとまし……ですか。
もっともです。
それは差し上げます。
そのライターは、中に特別な植物のオイルが混じっているんです。
…………
良い香りがするでしょう?
……どうして泣いているんです?
煙草なんて久し振りで、こんなにうまいものだったか……って?
ふふ……
今は、思う存分堪能してください。
え?
私は誰かって……そんなこと、どうだっていいでしょ?
…………
名前、ですか。
天沼揺。
気に入っているんです、この名前は。『お母さん』につけてもらったものだから……
では、私はこれで。
また、会えるといいですね……
○
【Black/O】
はい、これ、あげるよ。
知ってるでしょ? 使うと一気にトんじゃえるっていうライター。
知らない?
遅れてるね。SNSとか見てる?
……
別に怪しい薬じゃないよ。非合法とか、脱法ドラッグとかでもない。
まあ、アロマキャンドルみたいなもんだと思って。
中に黒い、どろどろしたモンが詰まってるでしょ。これ。
これが、あの……なんだ。
植物の種やら、根っこをくったくたに煮詰めて、炭化させたもので……
とにかく買えよ。
どうせ、職にもつかずふらふらしてるんでしょ?
そんな目で見ないでよ。
私も似たようなもんだよ。中学生に見えるでしょ? 歳はそんなもんだけど、学校にも通ってないし、親もいない。家族もいない。
これ売って稼いでんの。
あ……家族はいるか。双子の妹がひとり。
あんたもネットカフェとかふらふらしてるクチでしょ。目と格好と匂いで分かるよ。あんたクサイもん。
たまには湯船につかったら?
そんなあんたにこれあげるよ。
本当は、あんたには買えないような金額のものなんだよ。でも、あんたは一見さんってやつなんでしょ?
千円でいいよ。
騙されたと思って買ってみなって。
千円以上の価値があるから。
…………
もう、何もあげないよ、私は。
そんな目で見たってだめ。
うぜーな。とっとと消えろ。
ま、また会えたら言ってよ。次は安くするからさ。
○
【Black/L】
ふふ……あなた、とっても良かったです。
こういうの慣れてらっしゃるの?
わたし?
わたしのことはいいじゃないですか。あなたのお話が聴きたいの。
…………
そう。
どうりで良い身なりの方だと思いました。
それで、こういうことをしていらっしゃるの?
…………
ふふ。隠しても分かりますよ、あなたの左の薬指のアザ。
奥さんがいらっしゃるのでしょう?
まあ、娘さんも?
ちょうど私と同じくらいって?
わたし十四ですよ。
……
そうは見えない? もっと大人びて見える?
ふふ。ふふふ。
いえ、お気になさらないで……わたしは好きでやってるんです。
わたしには親がいないんです。
ええ。そう。双子の姉がひとりだけ……
学校に通ったこともないんです。
これでお金を稼いでいるんです。あなたのように、わたしを買ってくれる人から……
だって、殿方というものは、こうすると喜ぶんでしょう?
…………
そんな悲しそうな顔をなさらないで。
いいんですよ。あなたは、わたしに溺れて下されば……
そんな気分じゃない?
ふふ。では、今日はお開きにしましょうか。充分、楽しみましたわ。
では、お別れのしるしにこちらをどうぞ。
ライターです。
あなたの髪の毛、ちゃんと洗ってらっしゃるけど、煙草の香りがしますわ。
贈り物にライターなんて、気取ってますか? こんな小さな娘が。
不思議な香りがするでしょう。
特別なライターなんですよ。
アロマオイルが中に詰まっていて……とっても香りのよい炎が出るんです。
また、寂しい気分になったら、その炎で煙草をお吸いになってください。
それでもわたしを忘れられなかったら……
ふふ、そんなことがあれば嬉しいですけれど。
あなたもお着替えになってはいかがですか?
いつまでも裸のままだと。風邪をひいてしまいますよ。
○
【Purple】
「揺」
街をふらついていると、不意に声を掛けられて振りかえる。
「どうしたの、クウ」
「イリス様が呼んでいる。今日はもういいから帰ってきて、工房に顔を出しなさいと」
「わかった」
お母さんがそういう時は、きまって私に大事な話があるときだ。私は鞄の蓋をしっかり締めて、駆け出した。このスニーカーは、お母さんからもらったお小遣いで買った大切な宝物だ。私は白より黒が好きだったので黒いものを買った。まるで、自分が浮いているように軽やかに走れるのだ。
大通りを抜けて、商店街のアーケードを真っ直ぐ抜けると、背の低い雑居ビルの立ち並ぶ迷路のような場所が見える。そのビルとビルの間の湿った道を縫うように進み、一番奥の、錆びついた扉を開く。しっかり扉を閉めると階段を降り、地下の広い部屋に辿りつく。
元は、人が集まってビリヤードやダーツをして遊ぶ場所だったらしい。でも、コンクリートの壁には明らかに人間の血液のようなシミがついていたり、拳銃の弾痕が残っていたりして、すごく、雰囲気がある。
地下のその部屋から、更に地下へ続く扉を開く。ほとんど垂直に切り立った梯子のような階段を降りて、見えてくる扉。
こんこん、とノックをすると、
「入りなさい」
という声が聴こえた。
「失礼します」
真っ暗な部屋。
一面に雑多に積み上げられた本。事務机の上の燭台に照らされたお母さんの顔が、そこに浮かんでいた。お母さんはフラスコに白濁した液体を注ぎながら、私に微笑んだ。
「おかえりなさい、揺。今日もよくやってくれたわ」
「ありがとうございます」
フラスコの中には、なみなみと注がれた透明の液体に、一本のハトの羽根が浮かんでいる。傍らに置かれた、黒ずんでひび割れだらけのビーカーに入れられた白濁した液体を数滴注ぎ込むと、今度は本と本に挟まれて自律していた試験管を指先でつまみ、中に入っていた赤黒い液体を数滴落とした。最後にポケットから取り出した葉っぱを指で千切り、ぱらぱらとふりかけて、コルクの栓をする。
「燃えろ」
どこからともなく現れた小さな火が、フラスコの下で燃え続ける。
お母さんは立ち上がると、指を鳴らした。本の隙間から、すっとクウが現れる。
「あとは任せるわ、クウ。火加減を見ていてちょうだい」
「はい。わかりました」
うやうやしい言葉。クウは言われたとおりに、フラスコの周りに浮遊している。
母さんは立ち上がって私を抱擁すると、すぐに腕をほどいて、じっと私の目を覗き込んだ。
「揺――あなた達は本当によくやってくれているわ。ありがとう。私のために、ここまでしてくれて」
「当然のことをしただけです」
「私のような『魔女』の娘でも――」その言葉を出すとき、決まって母さんは悲しそうな顔をする。「人間のように育ててあげたかった。学校に通わせて、同じ年の友だちを作らせてあげたかったのよ。でも、それはできなくなってしまった。それもこれも全て、あの忌々しい女のせい……!」
「お母さん。今の私たちの生き方は、私たちが自分で選んだことです」
「でも……私はあなた達を苦しめている……現に、こうしてあの女と同じことをしてる」
お母さんは私の手を取って、子どものようにわんわん泣いた。
私はそんな時、お母さんの頭を抱いて、そっと胸に抱いてやるのだ。
私よりずっと長生きしているはずなのに、お母さんはいつまでも子どもだ。
「どうしたの、揺」お母さんは私のことをじっと、その灰色の瞳で睨みつけた。「どうして笑っているの? そんなに私がおかしいの? おかしい? おかしい? 嫌いにならないで、私のことを嫌いにならないで。お願いだから置いていかないで」
「そんなことしません。お母さん」
「よかったぁ」
すっかり上機嫌になって立ち上がると、素肌にまとったルームワンピースを翻して、本の隙間に挟まっていたスマートフォンを取りだした。細い指先で画面をスイスイ操作し、空いた左手の指を前歯で甘噛みしながら、
「『世界塗り替え』は、相変わらずうまく機能してくれているみたいね。ほんとうに便利だわ、このインターネットというものは――私が生まれた時代からは考えられない。こんな小さな機械で、この街中の人間の思考を丸ごと操作できるなんてね」
二週間ほど前になる。
私たちが街中にグローパーを巻き散らした、あの事件のあと――お母さんの作った魔法を元に、みなとが作ったあるデータが、世界中のネットに流れた。
それはたった六秒ほどの映像。
何てことない、架空の企業の宣伝映像に見えるが、実は特有の色彩と音楽によって、人間の記憶を改竄する効果がある。SNSや動画投稿サイト、パブリック・ビューイングなど、あらゆる場所で流されたこの映像を、この街のほとんどの人間が目にしている。
たったそれだけで、誰も、何もかもを忘れてしまっている。あの日起こった事件を。
あの時消えた建物も、あの時傷ついた街も、あの時死んだ人間も――
誰も、何も覚えていない。私たち以外は。
「たかが電子情報だから、耐性のある人間には通用しないんだけどね。充分でしょう――ほんとうにあなた達はよくやってくれたわ」
「ありがとうございます」
「街の魔力もじゅうぶん。しばらくこのままでも満足よ。だけど」と、お母さんはそこで目を細めて、小さな犬歯をのぞかせた。「だんだん、飽きてきちゃった。そろそろ新しい味がほしいところね」
「新しい味……」
「揺。あなたにこれを預けておくわ」
引き出しから取りだしたそれを、お母さんは私にそっと手渡した。
見慣れた形のライター。でもケースは透明で、中の液体には色がついていない。向こう側の景色が、ほんの少し、レンズを通したように歪んで見える。
「きれいな人間から錬成した魔力を充填しているわ。以前に作った試作品とは比べ物にならない性能を発揮できるはず。あの女の作ったものより、ずっと強力な魔力を放出できるようになるわ。あなたがふさわしいと思った、そのように使いなさい。あなた自身が使ってもいい。あるいは、みなとかみらいに渡してもいいわ」
「でも、これは貴重なものでは?」
「だからよ、揺。あなたが使うのが、一番いいと思うもの」
お母さんは最後に私の頬にそっと指を這わせて、軽くおでこにキスを残していった。
「少し外に出るわ。ずっとこもっていたから、お腹が空いちゃった」
それだけ言い残してお母さんは出て行った。
フラスコのそばで火の番をしているクウは、何も言わずにそれを見送る。私はひとり取り残された。片手には、透明な液体の詰まった、透明なライターが握られている。
「ああ、やっぱり戻ってたのね」
上の階に戻ると、みらいが私ににっこり微笑んだ。
その横で、みなとがダーツの矢を持って、円盤とにらめっこしている。すでにその中心には、矢が一本突き刺さっていた。
「今日の買い出しを賭けて勝負しているところなの。揺も混ざる?」
私は首を振った。みらいがつまらなそうに鼻を鳴らし、みなとの様子を見ている。
みなとはにべもなく、左手の矢を放つ。ゆるやかな放物線を描いて――円盤の中心に突き刺さる。みらいは軽く拍手をして、それからソファに頬杖をついた。
「つまんない。みなとちゃんがいっつも勝っちゃうんだもん」
彼女は手近にあった雑誌を広げて読み始める。
みらいとみなとは双子の姉妹だ。顔立ちはそっくりでも、ほかが何もかも違う。みらいは髪が長くて、少し背が低く、胸やお尻が大きい。みなとは髪を短く切っていて、背が高く、引き締まった身体をしている。性格などもっと似ても似つかない。彼女たちは互いに反目しあっていて、依存しあっている。それぞれ傷付けあい、憎みあっているのに、互いに存在していないとそれぞれの存在を保てない。
まるで魔法少女とグローパーのよう。
「じろじろ見ないで。集中できないから」
みなとは誰に言うでもなくそう言うと、三本目の矢を軽くほうった。今度もまた、円盤の中心に突き刺さる。私は無視して、部屋の奥にある給湯室に向かう。大量に、乱雑に積み上げられたミネラルウォーターのペットボトルを手に取って、少しだけ口に含む。最近水が美味しい。食べ物の味がだんだん、薄くなっていきているような気がする。
「ちょっと出てくる」
とか、そういうことをふたりに言い残して私は部屋を出た。背後からみらいが、「だったら買い出しもお願いしていいかしら?」と、軽やかに言う。階段をのぼり、夜の闇が辺りを包む街へ踏み出した。
ぬらっとした、鈍い熱気。
ぎらぎら光る電飾の明かり。
私は夜の街がすきだ。お母さんの匂いが、まだかすかに残っている。東京の夜は美しい。遠くから、電車の音が聞こえる。いつか私も乗ってみたい。大通りに歩み出て、いろいろな人とすれ違う。みんながほんの一瞬だけ私のことを見る。
ひゅっと口笛を鳴らすと、どこからともなく小さなクウが、光の尾を引いてやってくる。こいつはついこの間生まれた、幼いクウだ。私の言うことをよく聞いてくれる。
「どうしたの、揺ちゃん」
「頼みがあるの。クウならできる?」
「できるよ、なんでも言って」
「新しい魔法少女を探してほしいの。それだけの素質を持った、人間の女の子を――ひとりだけ」
「え? いいけど、どうして?」
「お母さんのために――」
たまには、美味しいものを食べさせてあげたいと思う。
そう思うのは、きっと親孝行だ。




