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猫と鮫の倒錯

 喫茶猫の舌に戻ると、翔平が珍しく慌てた風にしている。店内を見渡すと、一人客が来ている。

 黒い革ジャンでタイトジーンズ、底の厚いラバーブーツ。

 パンクロッカー風の女。


 妙に現実感のない女だった。


 美しい顔立ちに似合わない、目元のひどい火傷跡が殊更そう思わせた。


 ここに客が来るなんて槍でもふってこないか、と寧子は空模様を伺う。幸いにも雲がかかるくらいで、雨も降らなそうだ。


 寧子のやることは、例え喫茶店に客がいようが変わらない。看板を出して、のんべんだらりと過ごすだけだ。


 どれくらい時間がたっただろう。

 気がつけばさっきの客はもういなかった。


「珍しく忙しそうだったね」


 すると翔平は一息吐いて肩を回す。


「忙しくて猫の手も借りたかったよ」


 そう言って翔平はラインとバックを撫でる。二匹はゴロゴロと気持ちよさそうに鳴いた。寧子は少しだけむっとする。


 しかし、この程度で根を上げて喫茶店のマスターを名乗るショウヘイもショウヘイだ。


 寧子は改めてこの叔父を心配するのだった。


 景色はオレンジから黒に変わりつつある。もうすぐ日が暮れる。夏が近づいているとはいえ、夜はまだ肌寒い。


 寧子は何気なくテレビを見る。

 すると、ちょうど地方ニュースをやっていた。


「次のニュースです。今朝未明、天神川の下流付近で遺体が発見されました。上流で見つかった遺書から、蔵良市居住の川本広樹さん十五歳とみられますが、遺体は損壊が激しく、詳しいことはまだ判明していません。遺書によれば、先日蔵良高校で起こった自殺との関連を書かれていることから、警察では詳しい状況を調査するとのことです」






 夜の学校というのは不気味な雰囲気だ。日中の賑やかな空気との落差がそう思わせるのか、それとも。


 殺人鬼が潜んでいるからか。


 寧子は二年二組にいた。いつもの席に座る。この所いつもそうだった。彼女が来ることを今や遅しと待っているのだ。


 窓からの眺望は未だ歪なままだ。


 来るならば今日だろう。


 寧子はそう踏んでいた。


 ラインとバックは退屈そうにしている。時折二匹でじゃれあって、そこら中を走り回る。

 どれほどの時そうしていただろうか。

 唐突に扉が開かれた。彼女が現れたのだ。


「久しぶりだね、元気にしていたかね」


「......」


 こちらを見てギョッとした顔をするけれど、彼女は答えない。逃げるかとも思われたが、素直に教室内に入ってくる。


「元気、という問いはおかしな話か。何せ君は死んだことになっているのだから」


 服の上からでも分かるほどに豊満な双丘、反比例するように滑らかなくびれ。

 スラリと伸びる四肢。

 凛とした立ち姿。

 そしてそれを打ち破る、トレードマークと言うべき、グロテスクな鮫のマスク。


 鮫島京子。


 今にも意思を持って動きだしそうなほど精巧に造られたそれの口蓋の奥は夜の闇に溶け込んで、彼女の表情はうかがい知れない。


「どうして私がここに来ると?」


 鮫島の声は落ち着いていた。

 彼女はかつての自分の席に座る。寧子と鮫島の間には少し距離がある。


「ここまでした君が、こんな大きな証拠を残していくとは思えないからね」


 こん、と窓を叩く。


「なるほど、彼が会ったのは貴女ということ」


 寧子が以前教室で出会った男。彼が鮫島の共犯者。彼はあの時、これを処分しに来たのだろう。


 有機ELパネル。


 通常は透明だが、通電すると映像を映し出す物体だ。これを窓ガラスの一つとすり替え、寧子にあの映像を見せたのだ。


 飛び降り自殺の瞬間と死体を。


「まったく。偽装自殺に一体いくらつぎ込んだんだね」


 あの時、他の生徒が死体を目撃しなかったのも当然。あれは寧子にしか見えないのだから。


「答え合わせをしよう」


 寧子は尊大に言い放つ。鮫島は微動だにしない。ラインとバックは未だじゃれあっている。


「まずこのトリックは二人居ないと完成しない。一人は君。もう一人は彼、川本広樹君だ。君たちは何かしらの利害が一致し、君の偽装自殺を企てた。一人が屋上から君の血液、輸血パックか何かかな、を投げ落とした。そしてもう一人が下で破裂した袋回収し、ご丁寧に菊の花を添えた。そうして僕がすっかり騙されたというわけだ」


 以前鮫島母から聞いた、鮫島が実家でふらふらしていた、というのは貧血からだ。

 何せ致死量の血液を集めなければならない。何日かに分けて採血するにしても、血が足りなくなるのは当然だ。


 寧子は肩を竦めた。

 折角死体が見られたと思ったのにぬか喜びだったとは。


「さらにいえば、いじめの発端を作ったのも君だね? 菊の花を自分の机に置き、それを誘発した。中嶋翠が転校してきたのが良いきっかけになったろう。案の定、君の元取り巻き達は中嶋に鞍替えし、忠誠を示すため君を攻撃した。そうして君はいじめを苦に自殺した、悲劇のヒロインとなった」


 寧子は鮫島を見遣る。ヒロインとは到底思えない、暴力的でグロテスクなマスク。しかし、そのマスクの下で鮫島が薄く笑っているように見えた。


「正解よ、探偵さん」


 ようやく鮫島が言葉を発する。得てして謎解きは、探偵側の言葉数が多くなるものだ。


「どうして僕を証人に選んでくれたのかね?」


 寧子の疑問はもっともだ。窓側の席の者であれば、誰でも良かったはずだ。


「別に。強いて言えば、貴女がよく窓の外を見ていたからかしら」


「なるほど、確かに僕はよく窓の外を見ていた。嬉しいね。そのお陰で僕はこの事件の当事者になれた」


 今度は鮫島が肩を竦める。


「貴女が当事者になるのは計算外だったんだけど。精々傍観者くらいになってもらおうと思っていたのに」


「無理な相談だ。僕は探偵だからね」


 ふふん、と胸を張る寧子。その姿は探偵然とはしていない。


「閑話休題。もう一つの事件が残っている。川本広樹の事件だ。端的に言おう、君が殺したね?」


 寧子の問いに、鮫島は沈黙する。肯定の意か。沈黙は金だが、それでは話が進まない。仕方なく、寧子は言葉を続ける。


「君の死後、というのも変だが、とにかく君たちは落ち合った。今度は川本広樹の死を偽装するためだ。しかし、川本君は先の事件の証拠隠滅に失敗した。それを知った君は、川本君と口論となった。その末に、君は彼を殺した。幸い、自殺を偽装するための遺書は既に用意されていたから、その死は疑われないと踏んだんだろう。そして今度こそ証拠を消すために、今日こうして君がここに居る、というわけだ」


 少し喉が渇いた、と寧子は思った。こんなに沢山話したのはいつ振りだろうか。

 こんなことなら何か飲み物を持ってくるべきだった。


 二人の間にまた沈黙が訪れる。寧子には、もう話すべきことはない。後は鮫島京子が真相を詳らかにするだけだというのに。


 時計の秒針が精確に時を刻む音がする。もう午後十時を回ろうか、というその時だった。


 鮫島がすっと立ち上がり、おもむろに、その精巧な、暴力的な、グロテスクな、そのトレードマークとも言うべき鮫のマスクを、脱いだ。


 寧子は目を見張った。


 そこには、目元を大きく火傷した後のある、一人の少女が居た。


 あの時の!


 寧子は素顔の彼女に会っていたのだ、あの時既に。喫茶猫の舌で。

 鮫島京子の表情は晴れやかだ。清々しさすらある。とびきりの笑顔に、寧子はどきりとした。


「はずれよ、探偵さん」


 はずれ、とは。


「川本君を殺していないと?」


「ええ、死んでなんかいないわ、彼は!」


「では、見つかった死体はどう説明する?」


「あれは彼の残り滓。彼自身ではないわ」


 残り滓。寧子は首をひねる。どういう意味だ。


「あの日、私は彼と駆け落ちするつもりだったの」


 鮫島京子は語り出す。あの日起こった出来事を。その顛末を。恍惚とした表情で。


「私は抜け出したかったの。名家の娘という立場から」


 彼女は苦悩していた。

 その容姿から、鮫島本家から疎まれていたことを。


 その地位から、周りのもの達から羨望の眼差しを向けられていたことを。


「彼だけは私の内面を見てくれた。こんな格好の私を受け入れてくれた。そして、結婚しようと、言ってくれたの......」


 しかしそれは、許されなかった。彼女には家柄という壁があった。


「だから、駆け落ちしようとしたの」


「だが、それは達成していないではないか! 彼は死んだのだから!」


「駆け落ちは、もういいの。だって、私たちは永遠に結ばれたもの」


 川本広樹の偽装自殺を企てた日、彼女は自分の全てを初めてさらけ出した。その顔に刻まれた、消えない傷跡を。


 だって、彼は私の内面を見てくれた。受け入れてくれた。愛してくれた。悩みも、喜びも、悲しみも、怒りも、全部!


 マスクを取って、初めて素顔で対面。ようやく鮫島の呪縛から解き放たれた。彼女は喜びに満ちていた。


 しかし、彼の顔は、引きつっていた。何か、汚い物でもみるように。


 彼女にはそれがどうしてか理解できない。


 どうして、どうして、どうして!


 彼は私を愛してくれた。どうしようもない私を、受け入れてくれた!


 なのに、どうして!


 川本広樹は何も言わない。何も言わず、俯いている。


 そうか。


 彼女は唐突に理解した。


 大切なのは外見じゃない。

 中身なのだ。

 彼がそうしてくれたように、私もそうすれば良い。

 中身を愛して、愛して、愛すればいいんだ。


 外は、要らない。


 魂はどこにあるのか。鮫島京子には考えていた時期がある。

 人は死後、体重が数グラムだけ軽くなるらしい。それは魂が肉体から離れるからだという。

 魂はどこにあるのか。


 頭の中?


 違う。


 魂とは、心だ。


 そして、心とは、心臓だ。


 鮫島京子は石を手に取る。幸いにもここは河川敷だ。手頃な石など掃いて捨てるほどある。

 呆気にとられる川本を尻目に、彼女はそれを振り下ろす。鈍い音の後、彼がひれ伏す。


 外側など、取るに足らない物だ。要らない物だ。彼の内面を、愛していれば。

 彼女は再びマスクを被る。それは、死んだはずの鮫島京子。


 要らない物は、要らない物で。

 消してしまえばいい。


 マスクは精巧な作りだ。馬鹿げた叔父の醜悪な趣味で造られたこのマスクには、セラミックの鋭い牙が剥き出しになっている。


 がりゅっ、と不快な音がした。血生臭い臭い。彼の断面が見える。


 皮膚。

 黄色い脂肪。

 筋繊維。

 骨。


 たったこれだけ。外見など、これだけなのだ。

 なんだ、やっぱり取るに足らない物だ。


 鮫は彼を食べ進めていく。


 がりゅっ。

 がりゅっ。

 がりゅっ。


 そうしてようやく見えてくる。

 彼の心が。彼の魂が。ようやく。

 彼女はマスクを脱いだ。


「魂の邂逅、とでも言うべきかしら。本当に素敵な一時だったわ! ようやく分かり合えた! 私の初恋の味。甘酸っぱいなんて嘘ね。本物は、濃厚で大人の味」


 彼女はくつくつと笑う。恋を知った乙女のように。


「だから彼は死んでいないの。ずっと、私と共にあるから」


 全ての答え合わせが終わった。それは寧子が考えていた結果とは違っていたが、事件は無事、解決した。


 ラインとバックはいつの間にか寧子の足下で丸まっていた。随分退屈していたのだろう。人間のやりとりなど、彼らにとっては何の意味もない。

 堪えきれず、寧子は噴き出した。


 異様な光景だ。

 探偵と食人者。

 くつくつと二人して笑っている。暗い教室の中で。


 明るい笑い声が教室に響く。この部屋に笑顔が戻ったのはいつ振りだろう。こんな形ではあったけれど。


 ひとしきり笑ったところで、寧子が切り出す。


「なんて素敵な恋の話なのだろう! 素晴らしい愛の形、究極の純愛!」


 京子は照れ臭そうにしている。初デートで手を繋いだ初々しいカップルのような。ライスシャワーの中、新郎と腕を組み歩いている新婦のような。幸福に満たされたような表情だった。


 狂ってる!

 なんて素晴らしい!

 彼女は間違いなく異常者だ!


 寧子の中に幸せがこみ上げてくる。ああ、なんと美しい異常者だことか。自分が殺した相手と結ばれたなどと勘違いをして、あまつさえ彼を食べるなどとは!


 彼女は控えめに言っても最高だった。


「そんな君に提案がある。君たちの恋仲を引き裂こうとしている者がいる。それは警察だ。なんと警察は、君たちのその分かちがたい崇高な結びを悪だと断じるのだ」


「そんな、そんなこと……! だって私は、私は!」


 京子は狼狽えていた。聡明に見えた彼女だったが、そんな考えにも至らなかったのか。犯行は本当に衝動的で、その罪の意識を消すために愛だの恋だのと理由をつけていただけに過ぎない。


 その妄想が消えてしまっては困る。彼女にはあくまで彼と幸せに暮らしていて欲しいのだ。誰にも邪魔されない幸せな妄想の中で。


「ウチに来ないか? きっと悪いようにはしない。警察にも少々コネが効く。何不自由ない暮らしを約束しよう」


 寧子はとびきりの笑顔を浮かべた。


「君を、一生匿ってあげよう」






 休日の気だるい昼下がり。


 喫茶猫の舌は今日も通常運転だ。寧子は相変わらず看板を出して客を待ち、翔平はカウンターを陣取って文庫本を読んでいる。


 寧子は翔平に事件解決を自慢してやろうかとも思ったが、全てを話切るのに相当な労力を費やしそうなのでやめた。当分は口を開かず生活していたい気分だった。


「ホットミルク入ったわよ」


 そう言って寧子にマグカップを差し出す、フライフェイスの女。


 鮫島京子改め川本京子。


 曰く、結婚したんだから苗字は変わるわよ、らしい。


「ホットミルク入ったにゃあ、って言ってくれないか?」


「にゃ、にゃあ? いや、恥ずかしいよ、そんなの」


 残念ながら寧子の提案は断られてしまった。まあいい、時間はいくらでもある。


 京子は寧子の席の前に座り、自分で淹れたらしいコーヒーを飲んでいる。

 そこは客の座る所だ、とも思ったが、説明するのも億劫なのでやめる。


「お、絵になるねぇ」


 のんきにそんなことを言うのは翔平だ。川本京子をここに住まわせると寧子が連れてきたとき、翔平は驚いていた。当然かと思いきや、


「まさか寧子ちゃんに友達がいたなんて!」


 失礼な奴だ、と寧子は怒ったが、いつものことだ。


 川本広樹の死体の状態から、自殺ではなく殺されたことが判明した、とニュースで報道された。

 寧子が警察のコネに探りを入れてみたが、今のところ疑いの目は向けられていないという。その後のことは任せてあるので、心配はいらないだろう。


 もしも彼女を疑っても、鮫島京子の素顔は、鮫島家と、川本広樹と寧子と翔平しか知らない。警察も探しようがない。


 それに、死んだ人間が人間を殺したなんて、雲を掴むような話だ。これ以上の進展はないだろう。


 寧子は京子に視線を移す。


 鮫島京子は死んだ。


 月日が経ち、学校の空気も段々と元に戻っていた。


 記憶は風化していく。


 そうでないとやっていられない。


 しかし、事件は確かにあった。寧子はそれを忘れない。誰にも知られない事件だとしても、寧子と彼女だけが憶えていれば良いのだ。


 寧子と京子の目が合う。お互いに笑い合う。まるでずっと前からの親友だったように。


 探偵とカニバリストとのんきな二匹、それから一人。


 歪だけれど、寧子の日常。


「んふっ」


 舌舐めずりをして京子を見遣る。京子は気付かない。


 寧子には趣味がある。一つは死体鑑賞。


 もう一つは飼育と調教。


 ラインとバックも彼女の趣味の賜物だ。自分をまるで猫だと思い込んでいる。そういう風に調教した。


 調教には思い込みが激しい者が適している。強烈な妄想に浸っているもの程、他人の妄想もすんなりと受け入れる。


 さあ、名前は何にしよう。


 ラインとバック、それから、そうだシークにしよう。きっと似合う。可愛い首輪はもう買ってきてある。


 可愛い私の猫。

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