猫と謎の男子生徒
校内には静寂が訪れていた。
生徒たちは授業の途中であったが、当然帰宅させられていた。
寧子はといえば、参考人ということで、警察から事情聴取をうけている。
「わ、私が窓の外を見てると、突然、あの」
「落ち着いて、ゆっくりでいいよ」
そう言って婦警が優しく微笑む。
寧子は顔が赤らめるが、恥ずかしくなったからではない。極度の人見知りからくる赤面症だ。つっかえ気味の口調も言わずもがな。
「それで、どうしたの?」
「突然、鮫島さんが降ってきて、下を見たら、その、死んでて」
「窓っていうのは、あそこかな?」
婦警が指差すので、寧子は頷く。確かに、あそこから全てを見たのだ、人の死の瞬間を。
ふっ、と頭に柔らかい感触。
「頑張ったね、もう大丈夫だよ」
優しく笑顔で頭を撫でられていた。ショッキングな出来事を目の当たりにして、トラウマになる者も多いのだろう。婦警はしきりに大丈夫、大丈夫と繰り返した。
寧子は苦虫を噛んだような気分だった。
その程度のことで心配されることが、寧子にとっては屈辱的だったのだ。
それから、現場を指差した写真を取られ、ようやく解放となった。
帰り際、後日改めて書類を作るので警察署に来て欲しいと言われ、辟易とする。
靴を履きかえ外に出て、例の場所を見てみる。
そこにはやはり血の海が広がっていて、当時の生々しい記憶を呼び起こす。
ひしゃげて動かなくなった彼女は実に陰惨で、凄惨で、そして美しかった。
寧子の表情は恍惚としていた。
死体を見た、死体を見た、死体を見た!
その興奮のまま、喫茶猫の舌への帰路へとつく。
店に戻ると、やはりショウヘイが暇そうに文庫本を読んでいたので、それをむんずと取り上げる。
「あぁ、今いいとこなのに!」
そんな不満も今の寧子は取り合わない。
「死体を見た! 死体を見た! 事件だ、事件! 探偵の出番!」
しかし翔平は、はぁと一息ついて、文庫本を取り返そうとする。
「その性癖、どうにかした方がいいよ。結構引くから」
寧子はラインとバックを抱きしめて、死体、死体、と小躍りしているので、翔平の話しなど聞いていない。翔平は文庫本を取り返す。
「学校で何かあったんだって? さっきニュースでやってたよ。暴漢だったら怖いね」
「そう、自殺があってね。しかも君! 死体が消えたのだよ! 事件の匂いがするじゃあないか!」
「え、ニュースじゃそんなこと言ってなかったけどなぁ」
「ニュースなど所詮後追いさ。僕は実際にみたからね」
寧子は自慢げに胸を張る。
「ま、はしゃぐのも程々にね。お客様が来たら驚くから」
それは最高のジョークのように思われた。
夜になり、鮫島京子の事件が報道された。
致死量の血痕が遺されていたことから、死亡したものと思われるが、遺体が発見されないことから、警察では他殺も視野にいれ捜査中である、とニュースは伝えた。
テレビのコメンテーターは、
「背景にいじめがなかったのか、学校にきちんと調査してもらいたいですね」
と厳しそうな顔で言っていた。
たまには真を突いたことも言うものだ、と寧子は思った。
翌日、学校から電話がかかってきた。警察の捜査があるため、今日は休校だという。
寧子は例によってあのしどろもどろな口調で、教諭に探りをいれたが、曖昧にな返答しか得られない。
何かしらの事件があったと思われるため気をつけるよう、との通達に留まった。学校側も混乱しているようだ。
電話を切り、寧子はニヤリと笑う。
「ライン、バック。今日は忙しくなるぞ!」
消えた死体の謎。
これぞ探し求めていた事件!
寧子の中の探偵の血が騒いだ。と言っても趣味でやっているだけなのだが。
かくして、探偵猫又寧子の第一の事件が幕を開けたのである。
学校は当然ながら封鎖されている。
警察の現場検証が終わらなければ、入ることはできない。遠目から見ると、屋上と血痕のあった校庭を主に検証しているようだ。
それから、校内を巡回している警察官も居るようだ。
なるほど、死体が何処かに隠されていないか見て回っているのだろう。
寧子はどうにかして校内に入れないかと思案した。
キープアウトの黄色いテープの前で仁王立ちしている制服警察官に聞いてみる。
「あ、あのう。机にわ、忘れ物してしまったんですけど......」
しかし、警官はすまなそうな顔をして、まだ入れないんだ、と答えた。
少し食い下がるが、相変わらず返事は芳しくない。
当然だ。
現場を荒らすのはよろしくない。何が証拠になるか分からないからだ。
探偵として、そのくらいの心得を持って入らせてくれと頼んでいるのだが、警官に伝わるはずもない。
寧子はしゅんとした顔を見せ警察官に罪悪感を植え付けた後、別の入り口を探すことにした。
校舎の反対側、体育館のある場所まで移動する。侵入経路はことごとく警察官が張り付いている。
「ライン、出番だ」
寧子がそう告げると、暗い物陰の向こうからにゅっ、と黒い頭が生えてきた。
ラインはにゃあ、と一鳴きすると、するりとバッグから抜け出してどこかへ走り去って行った。
つられてバックも頭を出す。
「お前はまだ」
そう言うとシュンとした表情をして、どこかに隠れてしまう。
数分後、ラインがとてとてと向こうから歩いてくる。そしてにゃあにゃあと鳴いた。
「さすがライン! 素晴らしい」
寧子は鷹揚に頷いて、ラインの頭をぐりぐり撫で回した。
それから、ラインの来た道を辿る。ラインはどうやってか抜け道を見つけだし、建物に侵入する癖がある。
寧子はその力を借りて、校内に入ろうとしているのだ。
やがて校舎の裏側、音楽室が正面に見えるところにやってきた。ざっと周りを見渡す。
すると、一箇所だけ窓の鍵が掛かっていないのを発見した。
周囲に誰もいないことを確認し、するりと身を通す。ラインにご褒美を与えることを忘れない。
忍び込んだ学校は、昼間だというのに薄暗くて淋しい。非常口の緑色がやけに目につく。
普段あれだけの人間がひしめきあっていたのが、まるで誰かの空想だったかのようだ。
リノリウム張りの床を音もなく進む。
時折、警察官たちだろうか、話し声が聞こえてくる。
寧子は聞き耳を立てる。身を乗り出してみるが、遠すぎて聞こえない。これ以上近づいてバレてしまっては元も子もない。寧子は先を急ぐ。
どこを調査するかといえば、二年二組だ。事件に直接関係した場所で無い分、誰もいない可能性が高いと踏んだのだ。
しかし、寧子の予想は外れた。
教室にはすでに先客が居た。
ただし、警察官ではない。
詰襟の学生服を着た男子生徒だった。
その男子生徒は、元鮫島京子の席を一撫でする。背を向けていて表情は見えない。
鮫島に好意を抱いていたのだろうか。悲しみのまま、ここに来たのか。
それとも。
死体遺棄の犯人か。
寧子は慎重に、彼の動向を見守った。
もしかすれば、事件解決の糸口が見つかるかもしれない。
身長は百七十センチほど、体格は痩せ型、短髪黒髪。先ほどから廊下側に背を向けているため、顔は分からない。分かったとしても、おそらく寧子には誰だろうと同じだろうが。
ひょろりと長い腕は、非力さを感じさせる。
鮫島京子は身長百六十センチくらいで、推定体重五十キロ程度だろう。
寧子は婦警から聞いた話を思い出す。
寧子が死体を発見し、飛び出した直後に下を見た男子生徒がいた。
しかしその男子生徒は、死体など見ていないと証言したのである。
トラウマによる一時的な記憶障害も考えられたが、それから複数の生徒も死体を見ていないと証言し、間違いないとのことだった。
その間、約二秒。
その短期間であれを運べるのか。
目の前に居る男子生徒がそんな芸当ができるのか。
無理だ、と寧子は判断した。
「やはり何かしらのトリックを......」
その時だった。
男子生徒が動き出した。教室を出るかと思いきや、何故か寧子の席の方へと向かっていく。
何故だ?
寧子は疑問に思う。
鮫島が目的ならば、そちらには何もないはずなのに。
男子生徒がまさに寧子の席にたどり着いたとき、バックがガタンと物音を立てた。扉に足をぶつけたらしい。
ふっと男子生徒が振り返り、寧子の姿を見るや、一目散に走り出す。
「まて!」
寧子は懸命に追いかけるが、如何せん運動音痴だ。追いつくはずもなく、彼は見えなくなった。
逃げる瞬間彼の顔が一瞬見えたが、やはり知らない生徒だった。
激しく主張する鼓動を抑え込みながら、寧子はバックを叱りつける。
「バック、なんてことを......」
バックは、バツの悪そうな顔をしている。
仕方なく、寧子は元来た道を戻る。
二組の教室に入り、いつものように席に着いた。
やはり、あの男は事件に関係しているのか。逃げるということは、つまりそういう事だろう。
だが、何をするためにここに居たのだろう。
消えた死体に、謎の男。
ますます謎が深まるばかりだ。
寧子は窓の外を見つめる。
警察の現場検証はまだ続いている。これではおそらく明日もまた休校だろう。男子生徒を探すのはそれからだ。
じっと景色を眺めていると、いつだかに覚えた違和感が彼女を襲った。
いつもと同じはずなのに、何かが違う。しかし、いくら目を凝らしても、やはりいつもの景色なのだ。
気味が悪い。
通い慣れたはずのこの学校ごと、変わってしまったようだ。
呪い、というものがあったならば、これは鮫島京子の呪いに他ならないのではないか。
そんな馬鹿な、と彼女は頭を振る。
あるはずがない、魂というものは。
だからこそ死体はあれ程までに美しいのだ。
寧子は鮫島京子の死体を思い出す。混乱は幾ばくか解け、冷静さが戻ってくる。
何故違和感があるのか。
呪いがないのであれば、この感覚は。
まるでフィルターがかかったようなこの感覚は。
それは、まるで、
「なるほど、そういうことか。お手柄だよ、バック」