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猫と鮫の血だまり

「ライン、バックただいま」


 喫茶猫の舌には、相変わらず客はいなかった。


 翔平はあいかわらずのほほんとして、テーブル席の一つを陣取り文庫本を読みふけっている。


 こんなことでよく経営が成り立つな、と寧子はいつも思う。事実、喫茶店の利益など雀の涙である。翔平に言わせれば、趣味でやっている店だから儲からなくてもいいそうだ。


 実を言えば、この建物の所有権は寧子にある。

 元々は寧子の母が建てたものであった。母が亡くなりこの建物を相続したが、当時七歳の寧子に扱えるはずもなく、その頃から店子として喫茶店を出していた叔父の翔平がその他の不動産諸々管理することになったのだ。


 佐倉家は裕福な家庭である。


 赤字の喫茶店を十年以上やっていっても差し障りない程度には資産があった。全ては祖父母と、寧子の母のお陰でであった。


 では、翔平はどうか。


「あ、寧子ちゃんおかえり」


 寧子がラインとバックにご飯をやっていると、ようやく気が付いたのか、翔平が本から顔をあげる。


「ただいま、ショウヘイ君」


 そう言うと翔平は不満そうな顔をしたが、諦めたのか、何も言わず再び本の虫になる。


 佐倉翔平は落ちこぼれである。


 佐倉の本家は東京にあり、古くから各地に不動産を所有していた。現在はマンション経営を生業としている。一族経営としては、国内でも有数の会社である。


 翔平はどうにも経営に向いていないらしく、姉を頼りこの地に転がり込んで来たのだった。


「冷蔵庫におやつがあるからね。プリンだよ。美味しいよ」


 翔平が屈託なく笑う。


 兄弟だからだろう。その顔に亡き母の面影があって、寧子は嬉しくて切なくなった。


「看板を出してくる」


 それを振り払うようにして、外に出た。木製の看板を表に立てかける。


『猫又探偵事務所』


 猫又、というのは屋号のようなものだ。

 喫茶猫の舌に猫又探偵事務所。

 佐倉寧子は探偵である。


 とは言うものの、免許を取得した正式なものではなく、あくまで趣味として行っている。だから、報酬はなく、そういう意味では、寧子と翔平は似ている。

 ちなみに、依頼を受けたことは未だにない。


「何か事件はないものか」


 寧子が物騒なことを呟く。だが、そんな都合のいいことなどそうそう起こるものではない。

 昨日の事について考えてみる。

 鮫島京子がいじめの標的になった。


 それは少なからず、生徒達の間に衝撃を与えた。学校内のそこここで噂が飛び交っている。


 中嶋みどりに蹴落とされた女王、鮫島京子。


 中嶋みどりはアパレル関係の会社の跡取り娘で、鮫島の取り巻き達は根こそぎ鞍替えしたのだと言う。


 地元の名士より、アパレル会社のほうが確かにキャッチャーで分かりやすい。そんな事情もあり、転校して間も無く、中嶋みどりはスクールカーストの頂点を取ったのだった。


「縄張り争いか、人間も猫も変わらんな」


 オレンジ色に染まる町並みを眺めながら、寧子はまだ見ぬ依頼者を待ちわびていた。





 鮫島京子への嫌がらせは続いていた。


 丁寧にも毎朝菊の花が生けかえられていて、不快にさせた。


 相変わらずチェーンメールも続いているようだった。


 こんな時くらいしか寧子の携帯電話が鳴らないのが悲しい。最新版では、鮫島は売女の中絶女ということになっていた。


 中嶋は日に日に存在感を増していて、けたたましい声で仲間たちと談笑している。


 その内容が内容だけに、彼女ら以外の生徒たちは肩身が狭い。


 彼らも積極的に参加したいわけでもないが、さりとてやめさせる訳でもない。結局何もしない事を選んだのだから、彼女を空気のように扱うしかなかった。


 しかし、鮫島京子は動じていないように見えた。


 正確にはマスクで表情が見えず、どう感じているのか分からなかった。


 寧子は中嶋を見て思った。ここまでやる必要があるのだろうか、と。

 何が彼女をここまで恐怖させているのだろう、と。


 鮫島京子を女帝としていた頃には、ここまで大きな嫌がらせはなかった。


 それはまるで見せしめのようで、見ている方が痛々しかった。


 しかし、寧子はこの問題に関わる気などさらさらなかった。鮫島も、中嶋も、勝手にやっていろ。


 そんなある日、鮫島京子が欠席した。


 その鉄仮面にもついにひびが入ったか。なんにせよ、何もしてこなかった生徒たちは、居心地が悪かった。


 鮫島京子の休校は、数日続いた。

 教師は生徒たちに理由を尋ねるが、誰も答えない。教師は不思議がったが、いじめなどという答えには辿り着かない。地元の名士の娘がいじめられるなどと考える方が難しいかもしれない。


 誰かが居なくても授業はつつがなく進行していく。

 連日の出来事などなかったように、クラス内の雰囲気は穏やかだった。午後の授業特有の、気だるい空気が流れている。


 寧子はといえば、漫画やアニメでよくある、『であるからして』というセリフは実在するのか、という研究をしていた。

 今まで授業を受けてきた中では、まだ一度も聞いたことがない。

 どうしてこんなセリフがテンプレのうに出回っているのか。寧子は一生解けそうにない難問に頭を悩ませていた。


 ふと、寧子は窓の外を見る。


 窓際の席になってから、暇になれば窓の外を眺めるのが癖になっていた。

 山間部にある市だから、高校の周りも当然山がある。

 小高い山々の緑と中腹にある白い建物。それらを窓枠で切り取ったこの風景は、寧子の密かなお気に入りだった。


 おや、と思った。


 見慣れた風景のはずなのに、何故か違和感があった。同じはずなのに、何かが気になった。

 寧子は授業そっちのけで、景色をじっと眺める。


 何かが、おかしい。

 何か、もやがかかっているような。


 寧子が目を凝らしていると突然、彼女と目が合った。


 それを目と呼称してよいのかいささか疑問ではあったが、確かに一瞬、目が合ったのだ。


 グロテスクな鮫のマスクの目に。

 無機質な光の瞳に。

 逆さまに。

 鮫島京子が。


 あいかわらず口蓋の中は暗闇で、彼女が悲しんでいるのかすら、窺い知ることはできなかった。


 瞬間、破裂音が響く。


 ざわつく教室内。


 クラスメイト達は何事か、と一斉に振り向く。衝撃的なシーンを見たものは他にいないのか、騒ぎ立てるものは皆無だ。


 寧子は咄嗟に窓から階下を見た。

 死んでいる、と一目で分かった。

 おびただしい赤の海の中に、ひしゃげた鮫が泳いでいるのだ。


 これで生きていれば、人ではない。

 寧子は慌てて立ち上がり、教室を飛び出た。古文の教師が彼女を制止したが、止まるべくもない。


 遅ればせながら気が付いたのだろう、外に出る間際誰かの声で、


「うわ、血だ」


 と喚いている声が聞こえた。


 パニックになる頭の中で寧子は考える。


 二年二組の真下、には何がある。


 確か科学室だ。


 科学室で授業を行っているところはないか、誰か他に気づいた者はいないか。


 警察か、救急か。


 急いで階段を下り、科学室前へとまろび出た。

 薄暗く、がらんどうの教室。

 寧子は室内を突っ切り、思い切り遮光カーテンを開けた。


 そこには、致死量であろう血だまりと、無惨な彼女が、


「いない......?」


 忽然と姿を消していたのだった。

 ただ一輪、白い菊の花だけを遺して。

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