鮫と菊の花
寧子がどうやって五人に呪いのメールを送りつけてやろうかと思案していると、いつのまにか学校についた。
寧子の通う学校は、喫茶猫の舌から徒歩五分である。寧子がこの学校を選んだのも、その近さゆえだ。
県立蔵良高校は、四階建ての築二十数年鉄筋コンクリート建て校舎で、四階から順に一年生のクラスが入っていて、一階は理科室や音楽室などの特別教室がある。
学力は中の上といったところか。県内では三番手四番手のポジションの、取り立てて特徴がないのが校風だ。
上履きに履き替え、階段を登る。
寧子の所属する二年二組。つまりは三階分、階段を登らねばならない。
一年前よりはマシになった階段を一歩一歩ようやく上がっていく。小柄な体躯に、青白い肌。寧子は運動がすこぶる苦手であった。
教室の前までたどり着き、呪いの一人目はショウヘイにしてやろうかと考えたところで、なにやら温いものにぶつかった。
何かと思えば、顔は知っているが名前が思い出せないクラスメイトの男子生徒がドアの前で立ち止まっている。
いや、彼だけではない。
十数人のクラスメイトがドア付近に固まっている。
ツバメでも入り込んだのかと覗いてみると、室内はしんとしていて外の方が騒がしいくらいだった。
教室には、数人の女生徒が居た。
ひとところに集まる女子と、ポツンと立ち尽くす女生徒。
群衆の中心にいるのは、中嶋みどり。先頃東京の、いわゆるお嬢様学校から転校してきた生徒だ。
イマドキ、とでも言うのだろうか。ばっちり決まったメイクに、時間をかけたであろう編み込みの入ったロングヘア。
同性の寧子から見ても、素直に可愛いと思える外見だ。
寧子は感覚的に、彼女があのグループのリーダーであることが理解できた。
そのグループは、なにがおかしいのか、しきりにクスクスと笑いを漏らしている。互いに目配せをして、嫌らしい笑顔を覗かせている。
それらには、人を馬鹿にする響きがある。傍から聞いていてもあまり気分のよくないものだ。
相対するは異様な姿の女。
服の上からでも分かるほどに豊満な双丘、反比例するように滑らかなくびれ。
スラリと伸びる四肢。
凛とした立ち姿。
そしてそれを打ち破る、トレードマークと言うべき、グロテスクな鮫のマスク。
鮫島京子。
今にも意思を持って動きだしそうなほど精巧に造られたそれの口蓋の奥は黒に染まって、彼女の素顔はうかがい知れない。
彼女の肉体の美しさとグロテスクさは、見るものを圧倒していた。
何故彼女が覆面をしているのか、誰も知らない。学園の七不思議の一つに数えられるくらいには謎に満ちていた。教師ですらそれを注意することはない。権力者の娘である彼女に対しては、誰もが畏怖の念を抱いているからだろう。
いた、と言うべきか。
教室内の光景は、捕食者と被捕食者を想像させる。個の暴力に怯え、追い詰められた集団。
しかし、どうやら実情は違うらしい。
鮫島の机の上には、一輪の白い花が生けられている。
「菊の花」
寧子が呟く。
薄暗い室内の雰囲気に、菊の白さがやけに印象的だった。
「おーい、どうした。ホームルーム始まるぞ」
その間延びした声のお陰で、クラスに漂っていた不穏な空気が霧散した。
彼女らは何事もなかったかのように席についている。その様子を見て、誰もがほっとした様子で教室内に入っていく。
担任教諭の山下は、不思議そうな顔で生徒らを見渡した。
「なんかあった?」
「なにもありません」
山下の問いに答えたのは、意外にも鮫島だった。先程まで机に鎮座していた花瓶は、既に無い。
山下はなにか言いたげだったが、それ以上追及することはなかった。
やっとのことで自分の席についた寧子は、いつものように窓の外を見やる。
そこにはいつもと変わらぬ景色がある。当たり前だったが、寧子にはそれが嬉しかった。
それから、今朝の状況を整理してみる。
チェーンメール、菊の花、孤立した鮫島京子。
なるほど。
「朝から気持ちのいい状況ではないな」
いじめ、というものは今までも少なからずあった。無視や陰口、仲間はずれ。些細なことで、誰しもがターゲットになりうる、一種の儀式。
それが鮫島京子に回ってきたのだろう。女王の凋落。一体どんな経緯がそこにあったのか。
少しばかり気になって、鮫島の様子をちらと窺う。
ぴんと背すじを伸ばして座する姿には、少しの動揺も見られない。しかして、強面のマスクの内側にはどんな感情が広がっているのか。
寧子には、分かるはずもなかった。