おっさん企画「世渡三級」
近所に、タツロウというおっさんが住んでいる。
年の頃は四十に差し掛かる手前という辺りだろうが、定職もないのか、日中から路地裏や公園をよく散歩している。
身なりはチョイ悪オヤジと、いかにも中年オヤジの合間を縫ったような、中途半端な出で立ちであり、麻の開襟シャツにヨレヨレのジャケットを羽織り、黒のストレートジーンズは膝の辺りが擦り切れている。そこまでは百歩譲ってチョイ悪と言えなくもないが、本来ならば革靴あたりで締めるところを、高下駄なんぞを履いているモノだから、もうタダの無国籍なおっさんでしかなかった。
彫りの深い縄文顔に、男気のようなものを感じなくもないが、俺の顔を見ると決まって相好を崩し「よお、駄目人間」と声を掛けるところを見ると、最早、苦笑するしか道はない。
「人間ってえのは、いっぺんダメになると、中々這いずり上がれねえもんだ」
おっさんは哲学的なのか現実的なのかわからない言い回しを好む。
本来ならば聞き流しても良いのだが、おっさんが職業不明の謎の人物であることに対して、俺はロクに大学に行かない駄目学生であるから、お互いに暇なのだろう。暇人にとって、どうでもいい話というのは至上の暇潰しである。
「おっさんは、社会の底辺あたりにいそうだな」
「ケッ、口の減らねえ野郎だ。だが、間違っちゃいねえ」
歳の離れた友人と言えば聞こえは良い。だが、どう考えても俺とおっさんは駄目人間特有の怠惰な馴れ合いしかしていない。
ガラガラとおっさんの高下駄の音が聞こえると、俺は下宿の窓から外の様子を窺う。
「おっさん、何処行くんだ?」
「おう、てめえも来いや」
全く質問に答えないおっさんに、俺は大概黙ってついていく。別に美味いものを食わせてくれるわけでもなく、小遣いを切ってくれるわけでもない。これもやはり、暇潰しの一巻である。
道々、煙草を吸いながら女子高生をじっと眺めるおっさんを、俺は割と気に入っている。ここまで見事な駄目人間を見る機会はそうそうないからだ。
「おい、お前ちょっとナンパしてこいよ」
「自分で行け」
俺達が二人で女子高生に声を掛けると、悲鳴を上げて逃げられた。
おっさんの職業を聞いてみたことがある。
「小説家だ」
「嘘だろ」
「嘘をつくのが、小説家の仕事だ」
はぐらかされているのか、本当なのかはわからない。小説家に奇人が多いとはよく聞くが、このおっさんは、奇人である前に変人で、もっと言えば駄目人間だ。
「有名なのか?」
「でっけぇ本屋にゃあ、俺の本もあるかもなあ」
タツロウという名前しか知らない俺には、おっさんの本を探すことができないが、仮に探すことができても読まないだろうと思う。
「嘘つきと誠実な人間。どっちと親友になる?」
「適度に嘘をつく、誠実な人間だろ」
「ケッ、ノリの悪い野郎だ。だが、俺もそう思う」
おっさんと俺が将棋を指しながらくだらない話をしていると、いやになるほど意見が一致してしまう。
「てめぇ、攻めてこいよ」
「おっさんこそ」
二人揃って守る将棋ばかりするので、決着は一向に着かない。他に指す人間もいないので、決着のつかない将棋盤をそのまま保存しておき、おっさんが家に来ると、続きに取りかかる。
「おめぇ、女はいるのか」
「いたら、将棋なんてしてないで腰振ってるよ」
「ケッ、下品な野郎だ。だが、俺もそうだ」
こういう話題の時だけ、おっさんは子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべる。堂々と飛車を斜め移動させながら、何やらと想像しているのだろう。口元を緩ませて、俺の手順を飛ばしながら桂馬を直進させる。
「おう、てめぇ。女子高生と付き合えよ」
「……王手飛車取り」
俺の王将はワープを使える。こんな将棋だから終わるはずがないのだが。
おっさんにはライバルがいるらしい。例によって俺とおっさんが街角で女子高生をナンパしようと目論んでいるところに、そのライバルがやって来た。
「キミは変わらないな。もう少し、真っ当に生きられないのかね?」
ダークグレーのスーツに、鶴のような細長い身体。皺はしっかりと刻まれているが、おっさんとは比べものにならないほど、上品な紳士であった。立場的には俺と同じなのだろうか、紳士の横には二十歳前後と思しき女性がにこにこと微笑みながら付き従っている。
「おめぇこそ、真っ当すぎるつまらねぇ人生歩きやがって。男なら、もうちょい浪漫を求めやがれ」
おっさんの人生のどこにロマンがあるのかは皆目見当がつかない。真っ当でない人生を送っているというのは確かであるが。
紳士はやれやれと肩を竦めて。おっさんはフンと鼻息を荒くしてそっぽを向く。ちなみに女の子は相変わらずニコニコしており、俺はぼうっとしていた。
「キミ、こんな男と一緒にいては駄目になってしまう。見たところ、大学生のようだが、今からでも遅くはないから、真っ当な人生を歩みなさい」
紳士は俺にも話を振ってきた。御説もっともであるが、俺はとっくの昔に駄目になってしまっているので、どうしようもない。
「コイツはもう、すっかり俺色なんだよ。それより、お嬢ちゃんこそ、こんな堅物と一緒じゃ折角の別嬪が勿体ねえよ」
「私が堅物なのではなく、キミが適当すぎるのだ。ちゃんと食事は取っているのか。以前より痩せたようだが、どうせロクに食べていないのだろう」
「てめえこそ、白髪増やしやがって苦労ばっかりしてる証拠だ。息抜きの方法もしらねえからそうなるんだ」
どうやら、この二人は仲が良いらしい。けんか腰で互いの心配をする人間を俗に親友と呼ぶことぐらい、俺は知っている。
「長くなりそうだ。喫茶店にでも入って、時間潰さないか?」
俺は紳士の横にいた、似た境遇であろう女性に声をかけてみた。
「喜んで」
ナンパは阻害されたが、それ以上の収穫になった。
紳士は大学の教授であるらしく、彼女はその教え子だという。名前をユウコといった。
「同じ歳なのね。先生とタツロウさんも同じ歳なのよ」
どうやらユウコは前々からおっさんと紳士の関係をよく知っているらしく、色々と教えてくれた。なんでも、おっさんと紳士は学生時代からの付き合いで、紳士は国文学の教授。おっさんはどうやら本当に小説家のようだった。
「同じ学科にいたのに、職業一つでこうも変わるのって不思議ね。先生は規則正しく、何事も真面目で」
「おっさんは全部適当で不真面目でだらしない。まあ、俺にしてみりゃ、おっさんの方が付き合いやすくていいけどな」
付き合いの長さもあるが、どうやら性格的にも紳士よりおっさんのほうが波長が合う。類は友を呼ぶということなのだろう。
「全然タイプが違うけど、お二人はとても仲良し。私たちも仲良くなれそうだと思わない?」
おっさんと紳士の最大の不幸は、同性だったことだろうと思わずにはいられない。
俺とユウコが恋人として交際を開始するのに、さほど時間はかからなかった。
おっさんはてっきり反対するかと思ったのだが、割と冷静で「将棋する暇が無くなっちまったか」と笑うばかりである。
「そういや、ナンパもできねえな。おい、お前別れてこい」
「一人でやってこい」
まだ手も繋いでいないのだ。おっさんのナンパに付き合うために別れてたまるか。
「馬鹿野郎。あんな真似、一人でできるか」
「あの大学教授誘えよ」
二人のおっさんが女子高生に声をかけている場面を想像してみる。
おっさんは駄目人間なので不思議と似合っているが、紳士は真面目な雰囲気が逆に危険な匂いを醸し出す。女子高生が逃げたら執拗に追いかけていきそうだ。
「昔にな、あいつと二人でナンパしたら通報された」
「……おっさんがナンパするのを隣で見てるだけなら、いいか」
勿論、女子高生には逃げられたので何の問題もなかった。
ユウコが家に遊びに来ることになり、大掃除に精を出しているとおっさんが何の断りもなく部屋にやってきた。
「なんでえ、真っ最中かと思って邪魔しにきたのによ」
「帰れ」
俺とユウコの仲に不満があるわけではないようだが、俺に恋人ができたことが気にくわないのだろう。もしくは、単にからかっているだけなのか。
「美人で性格の良い女と、ブスで我が儘な女のどっちがいい?」
おっさんは何の遠慮もなく部屋に上がり込み、俺が勉強机の二重底に隠したエロ本をあっさり見つけて、ぱらぱらとページをめくりながら尋ねてきた。
「普通、美人で我が儘なのか、ブスで性格が良いかっていう二択じゃないのか?」
おっさんの手からエロ本を奪い取り、丁寧に二重底に隠し直して、分厚い辞書を置いてカモフラージュする。
「それじゃあ、不細工で駄目人間を選んだユウコはどうなるんだ」
なんて失礼な男だろうかと思いつつも、言われてみれば確かにその通りなので、頷くほか無い。
「で、どっちだ?」
「美人で性格良い女だろ。常識的に考えて」
「理由は?」
「ユウコがそうだからだよ」
おっさんはニッと笑って、後ろ手で玄関の扉を開ける。ユウコが立っていた。
「迷ってたから連れてきた。じゃあな」
おっさんはそれだけ言うと、来たときと同じように素早く帰っていく。たまに、こういう男気を見せるからあなどれない。
「別に、不細工でも駄目人間でもないよ?」
ユウコがやはりにこにこと笑いながら「お邪魔します」の声と一緒に部屋に上がる。
「でも、ユウコは美人だし性格も良い」
我ながらこの台詞は素晴らしい。脳内で俺は自画自賛のスタンディングオベーションを送る。ユウコが少し頬を赤らめる様子がまた愛らしい。
「……けど、堂々とこういう本を置いておくのはどうかな」
気付は、二重底に隠して直したはずのエロ本が、何故か机の上に開かれたまま置かれていた。見開きいっぱいの、フルヌード。頬を赤らめたのは俺の台詞ではなく、その破廉恥なヌードの所為だったのか。
「……おっさん」
株を上げても、次の瞬間に突き落とすのがおっさんの特徴の一つだ。
言い訳を考えつつも、とりあえず次に会うとき、おっさんに拳骨をお見舞いすることを心に決めた。
「今日で世界が終わるとするとどうする?」
おっさんが唐突な質問をする理由がわかった。ユウコ経由で紳士から、おっさんが書いた本を借りたのだが、俺の返答が作品の中にそのまま登場していたのだ。
「どうするんだろうな。想像もできねえよ」
「ケッ。そんなつまんねえ答えが聞きたいわけじゃねえよ」
わざわざ俺に答えさせる必要などないはずだ。基本的に俺とおっさんは同じベクトルの人間で、考えることなどほとんど変わらない。それでも訊いてくるのは、言葉や態度とは裏腹に、おっさんは自分の考えていることに自信がないのだ。他人にとって自分の意見が共感を得られるものであるか。それを確認するために訊いているのだろう。
「ま、いきなり滅びるとなりゃあ、取り乱すだろうな」
「相変わらずつまんねぇ。けどまあ、俺もそう思う」
敢えて俺に訊くのは、俺に訊けば自分の意見と一致するとわかっているから。とことん小心者である。
ユウコと夕飯を一緒することになったのだが、うっかりとおっさんとも同じ約束をしていたのを忘れていた。おっさんは待ち合わせのラーメン屋で一人、チャーシュー麺を食べて帰ってきたらしい。
「やい小僧、酷いじゃねえか」
おっさんは「麺が伸びきるまで待った」とか「せめてスープだけでも一緒に飲もうと、冷めるまで店に残ってた」とか、割と真顔で説明した。
「なんで携帯で連絡しねえんだよ」
「お前の番号なんか、知らねえよ」
そう言われてみれば、俺もおっさんの連絡先を知らない。
なんだかんだで三年近い付き合いになるおっさんと、携帯の番号を交換する作業は、端から見るとかなりシュールだったと思う。
おっさんとの約束をすっぽかした詫びとして、俺のオゴリで飯を食いに行くことになった。エロ本暴露事件でおあいこだろうと主張したのだが、再びおっさんが「麺が伸びきるまで待った」とか言い出したので、罪悪感からつい了承してしまった。
この際だからとユウコを誘うと、それならばとユウコが紳士まで連れ出してきた。
「今日は俺の奢りなんで」
俺が言うと、紳士が苦笑して首を横に振る。
「ここは私が出すよ。楽しい食事の礼ぐらい、させてくれたっていいだろう?」
流石は出来た大人は違う。俺が尊敬の眼差しを紳士に向けていると、おっさんは突然、
「まあ、そういうことだ。俺達に恥かかせるんじゃねえよ」
と、まるで最初から自分が払うつもりでいたように言った。事情を知る俺は勿論、俺が全部説明していたユウコも、長年の付き合いで全部理解している紳士も、全員が苦笑した。
ある日、ユウコが俺とおっさんの出会いを訊いてきた。ユウコと紳士は大学の教授とゼミ生という関係らしく、研究熱心なユウコが紳士の研究室を何度も訪ねているうちに、すっかり助手のようになってしまったという。
一方、俺とおっさんの出会いは酷い。三年ほど前のある夜。突然、ジャケットに高下駄という無国籍な格好をしたおっさんがしたたかに酔って、俺の部屋に上がり込んできたのである。
「よう駄目人間」
酩酊というより、泥酔という様子のおっさんだったが、その一言はあまりにも俺を体現していた。酔っ払いの雑言に違いはないが、ついうっかりと俺も言葉を返してしまったのだ。
「おう駄目人間」
それを聞いてニカっと笑い、次の瞬間にぶっ倒れて鼾をかきだしたおっさんに、俺は毛布を被せ、部屋の隅っこで寝た。無礼千万な振る舞いではあったが、どこか似た匂いを感じていたのも確かである。妙な縁といえば妙な縁だが、それ以来、俺とおっさんは偶然出会うと言葉を交わすようになり、やがて将棋を指すようになり、駄弁るようになった。
「つまり、歳の離れた友達ってことかな」
友達。その言葉も確かに当てはまるのかもしれない。
「……駄目人間同士の、腐れ縁だな」
だが、こっちのほうがしっくりと来る。
俺とおっさんの関係は、三年前から変わらない。お互いを助けもしないし、刺激し合うわけでもない。単なる馴れ合いである。
だがまあ、馴れ合いが全く必要ないとも思わない。それなりに楽しくもある。
「なあ、おっさん。俺とおっさんはどういう関係なんだ?」
高下駄の音が聞こえたので、窓を開けて訊ねてみる。
「何をアホなこと言ってんだ。駄目人間同士の腐れ縁に決まってらあ」
退屈しないわけではない。ただ、退屈を共有できる人間。
それが割と貴重なことを、俺はおっさんと出会って初めて知った。