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第五話 ランツ家とジーク君

『暇潰したい神さま。』にアクセス頂きまして、ありがとうございます。


その上、この作品をブ、ブックマークしてくださる方々まで……う、嬉しすぎます!ありがとうございます!あの、今日をいったい何の記念日にすればいいのかわからないですけど、思わず朝からテンション上がっちゃいました。


あまりに嬉しすぎたので、今回はいつもより増量してお送り致します。

(本来は次回分も含まれているので、これでストックが尽きたのは内緒ですw)

……次回から更新日が何日置きかになってしまいますが、頑張ってコツコツのんびりやっていきますので――


良かったら今後も、『暇潰したい神さま。』をどうぞよろしくお願いします。


今回から、本編らしきものへと突入いたします。

★★★



 その部屋は静寂に包まれていた。それは夜の静寂。雪の静寂。時間がゆっくりと流れているかのような錯覚さえ感じる。

 外は降り積もる雪が時々真横にさえ飛んで流れていくほど吹雪いているものの、その室内には一切の影響は無かった。

 室内は暖炉の温もりに十全に包まれていて、例え薄着でいたとしても風邪をひく事すらないかもしれない。


 そんな部屋の一角、小さなベットに寝かされている小さな存在――未だまともに目も開く事が出来ないはずの赤ん坊が深く息を吸い込んだ。


 ここはどこだろう?と思いつつも全身に纏う倦怠感が否応なしに身体を眠気へと誘う。

 今は休もう。本格的に動き出すのは身体が出来上がってからだ。そう本能の促すまま赤子は再び眠りについた。


 彼はウィーサー。武勇で少しだけ名が知れた貴族であるランツ家の長男である。

 父の名はアース、母の名はフェール。父は騎士団の大隊長の一人であり厳格な人物である。母はそんな父に対して歯向かうことは一切なく、我を出さない寡黙な人であった。

 この家は、会話と言う会話がほとんどなく、外に降る雪よりも寒々としているように周りからは見られていた。


 つまらない家。そして寂しい家だとウィーサーも少し思った。アースはひたすらに剣を振り、フェールはお茶を嗜むことのみに生きている。自分はこの二人みたいにはなりたくないなとウィーサーは思った。


 ウィーサーは魔法に興味をもった。小さい頃から文字を覚え、三歳には魔導書を読み始め魔法の練習に取り掛かった。


「やはり、最初は"火"からかな」


 自分の両手で囲いを作り、その間に小さな炎を出しては揺らぎが出ないようにと炎を固定させる。

 その確固たるイメージと集中力は筆舌に尽くしがたいほどだ。

 火の次は水、水の次は風、風の次は土、と四属性を満遍なく練習していく。

 幼い頃から繰り返し行ってきた練習のおかげか、やがて十歳になる頃には宮廷魔術師が顔を青ざめる程の魔力量を備えるほどになる。


 ウィーサーはひたすらに自分の魔法の事にのみ時間を費やしたかったが、時々に弟からのちょっかいを煩わしく感じた。


「兄上ー。私にも魔法を教えて下さい」


「キールか。私は今忙しいのだ。本日の予定範囲まで、まだ魔導書の理解が及んでいない。それに、私は最初から自分一人で魔導書を紐といていったのだ。魔法を使いたいならお前も独力で学ぶべきだぞ」


「……なるほど。では、私も兄上に負けないように頑張ります」


「ああ、では、私はこのまま今日も書斎に籠るからな。どうしてもわからない部分だけ相談に来い」


「はい。ありがとうございます兄上ー!ではまた!」


 ウィーサーの弟、キールとは二歳差。何かと優秀な兄に挑みたい彼は、何かとあればウィーサーに話しかけ、兄の真似事から魔法を学び始め、兄との差異を埋める為に、求めて剣技なども自主的に鍛えていた。


 彼我の戦力差を分析し、的確な判断力を合わせ持つ。彼は魔法こそ兄に及ばないが、総合的な戦闘力は決して兄に劣るものではなかった。そして、同じく10歳になる頃には周りがその才能を讃え兄同様に有名を馳せることになる。


 兄ウィーサーは光輝き流れるような金髪で深く蒼の瞳、目も大きくまるで女性と見間違われるほどの美をもっている。

 そして、弟キールも少し母親の赤色が残る綺麗な金髪で、瞳は同様の深い蒼を宿し、目鼻立ちはスッキリ。将来はそれは見事な美丈夫になるであろうと予想されるイケメンであった。

 

 互いが互いに影響を与えてグングンと成長していく、そんな才も美も兼ね備えた二人には、もう一人影響を与えた存在がいる。――それは、末の弟だ。ウィーサーが四歳、キールが二歳の時に産まれた男の子だが、名をジークと言う。


 そんなジークは少し普通とは違っていた。不思議で、どこか変わったおかしい存在であると二人は認識している。いや、家にいる全てがその認識をもっていた。



 そういうのも、彼が産まれた日、生誕日の事から始まる。


 先ず彼は、母体から頭が出たときに「どーもこんにちは」と挨拶をし、生後一日で歩きだした。軽いB級ホラーである。

 さらに、詳しく言うと、母体と産婆はその時気を失い、寝かしつけていたベビーベットでは、顔を覗き込んできたメイドに頭突きをして失神させ、一言「違うか…」と言い残して部屋を出て行ったらしい。

 部屋を出た後も、ジークは屋敷内を闊歩すると目につく人物全てにビンタ攻撃を加え、その度に「違うか。すまん」と言い残していた……様な気がする。


 実は、父、母、ウィーサー、キール、執事、メイド、全てがジークのその攻撃で失神しており、その日の記憶があやふやである。まるで夢だったとしか思えないため確信がもてないのだ。


 全員が同じ夢を見るのはありえないと全員が思っているのだが、生後一日の赤ん坊が歩いて攻撃をしてくるなんて、それこそ信じられなかった。赤ん坊がそんなことするのは普通無理だし、意味も目的も良くわからないので、結局その件は一旦保留になった。


 当然――次の日から、メイドと執事達で交代しながらジークを監視することになる。が、思惑を裏切るように、ジークはひたすらベットで寝ているだけだった。とても健やかな寝顔である。


メイドや執事達はジークを悪魔の生まれ変わりじゃないかと内心は疑い、父アースと母フェールは自然と距離を置いた。可哀想な弟だとウィーサーは思った。


だか、そんなウィーサーの興味関心は魔法に大部分が集約していたので、弟の事はそこそこに自身は書斎に籠って魔道書に熱中した。この世の神秘と知識の奥深さと尊さ、自分の力を高める事のみに没頭した。


一方、次男キールは色々な事に興味が尽きなかった。兄は優秀で、弟は奇怪だ。外を駆けて自身を鍛える楽しさも知り、季節と時間の移ろいで様々に表情を変える風景はなんと美しいのだろうとも思った。感情も豊かで表情も多彩。とても活発で明るい性格だった。



 家の者達は皆、上二人の兄弟がとても優秀であることを大層喜んだ。


……問題は三男ジークだ。なんと、彼はあれから一切目覚めなくなったのだ。いくら揺すっても声をかけても目を覚まさない。食事も当然一切摂取してないので、長くは生きられないだろうと医者にも言われた。


 ……だが、一月、二月経ってもジークの肌はツヤツヤモチモチ、血色もよい。本当にジークと言う存在は不思議そのものだった。


いや、既に気味が悪いと言った方が正解だろう。父アースは教会のつてを頼り密かに悪魔払いを行ったが効果はなく、医者にみせても問題ないと言われ、しょうがないから観察を継続するのみに止めた。


母フェールは社交の場で、ジークと同じ様な状態の子が他にもいないかそれとなく探ってみたり、一日に何度もジークに話し掛けてみた。今まで殆んど手のかからなかったウィーサーやキールと違い、ジークの事は心配でしょうがなかった。


そんな母フェールの様子に、メイドや執事達も心労を察するばかりだったが、当の本人フェールは何故か心身共に絶好調であった。特に、ジークの側でお昼寝すると社交で疲れた心の靄は晴れ、あまり丈夫で無かった内臓の調子も良好で食欲も増えた。ただ、夢の中で誰かに『彼に近付きすぎ!』と注意されている様な気だけがした為に、何故か寄り添い過ぎるのは憚られた。




――そんなジークが目を覚ましたのは五才の時だった。その時、長男ウィーサーは九才、次男キール七才である。もうその頃には、ウィーサーとキールが共に非凡な才を発揮し始めて将来を期待され、来年になればウィーサーは学園に通う事が決まっていた。


ジークが目を覚ましたのは、とある冬の良く晴れた朝。外は一面の銀世界。雪に日の光が反射し、世界は輝きに満ちていた。


スゥーーーーーっと長く息を吸い込んだ後、ゆっくりと開かれた瞼の奥、透明度の高い碧の瞳が天井を見詰めた。


その時、部屋の掃除で偶々ジークを見ていたメイドのシャールは、突然ジークが目を開けた事に気付くと、とても大きく目を見開き、足を絡ませ転んだ後、ドタドタと起き上がって屋敷内を駆けて行った。


シャールによって『ジーク起床』の知らせが屋敷内に響くと、ほぼ全ての者がジークの寝室へと集まった。父アースが先頭、次に母フェール、その後ろに長男ウィーサー次男キールが並び、最後にはメイドや執事達。――すると、ジークはほぼ全員が集まったのを察知したのか急にムクッと起き上がって、その両目の通常装備であるタレ目で父アースを数秒ボーっと見詰め、その後「……後五年」とだけ呟いた。


 「えっ……」っと、部屋の中の者が呆気にとられていると、当の本人は気にした素振りも見せず、その立った姿勢まま、またもや寝始めてしまった。


これには普段厳格かつ寡黙なアースも大層驚き「なに!?おい!起きろ!おい!ジーク!!」と声を荒らげた。しかし、結局ジークに再び起きる気配が全くないのを感じると、深いため息と共に早々に諦めて執事に観察を命じ、自身は騎士団へと向かっていった。


母フェールは末の子ジークが目を覚ました事に涙目で微笑み、息子の無事が確認出来ただけで満足して自分の部屋へと戻って行く。


意外と柔軟な頭の両親に代わり、兄弟二人は呆気に取られて暫くは呆然としていた。


こんな事があるのだろうか。兄ウィーサーは、きっとジークは病気で、一生目覚めない病なのではと実は思っていたが、それがその実ただ眠っていだけと言う事実に未知なる魔法の可能性を感じた。


 そうでなければ五年もの間寝続ける事も飲まず食わずで生きられる訳がない。この時からウィーサーは魔法並にジークへと興味をもちはじめた。


一方、次男キールはメイドと執事達を促し、立ったまま寝続けるのは良くないと、ジークを横に寝かせるように指示をだした。そもそも立ったまま寝続けるって難しくないだろうか。ジークは寝坊助だが凄いバランス感覚をもっていると震えた。正直、奇怪で面白かっただけだが。


――しかし、もっと面白いことが起きた。メイドが横たわらせようと手を伸ばすも、ジークは立って寝たままサッと回避しだしたのだ。


 ジークに触れようと、何度も試すメイド。だが、一向に触れられない。これは目覚めてるのだろうか?と思って、手を振ったり声をかけても返ってくる反応はなく、気味悪がったメイドに代わり執事がやってみても一切触れられない。


 最終的に、その執事はしょうがなくタックル気味に体毎ジークを抱き抱えに行ったが、ジークのビンタ一発で迎撃され、気絶して倒れた。


それを見て、これは凄いぞ!とキールはワクワクと嬉々とした表情を浮かべ、ウィーサーはフムフムと目つきを鋭くしてジークに流れる魔力に気を配った。


 最近は父アースと剣術の稽古にも特に励んでいたからか、キールにはジークの動きのキレが素晴らしいことがわかる。さらに横を見れば兄ウィーサーは魔導書を読むとき位の興味を示しているし、メイドや執事達は口が開いたままだ。キールはその光景が可笑しくてしょうがなかった。


執事隊は諦めず二人目を投入したが、伸ばした手は回避され掴めず、体毎近付けば、やわ肌ジークのぷにぷにビンタ一発で地に沈んだ。困った執事隊はメイド達と作戦会議を始め、数の利を活かす事に決め、全員で手を伸ばす。――だが回避される。全員で飛び掛かる!—―だがビンタ一発づつで屍の山(気絶)を築く。という、なんとも呆気ない幕切れを起こした。簡単に言って彼らの部隊は全滅である。



当然、部屋に残ったのはウィーサーとキールのみ。



「キール」


「はい兄上、ジークは凄いですね。奇怪です。私はこんな不思議な光景を初めて目にしました」


「私もだよ。我らが弟は魔導書並に興味深い。因みに我らが夢を見ているワケではあるまいな?」


「確認してみますか?」


「う、うむ」



ウィーサーとキールは互いの頬っぺたをプニっとつねってみると、ジワッとした痛みを感じ現実を確認した。



「痛いな……さて、キール。どう見る?」


「そうですね。ジークは幸せそうに寝てますし、このまま寝かせてあげれば問題ないとは思います」


「ふむ。立ったままで良いのか不安になるな。横に寝かせてやりたいとは思うが」


「そうですね。ですが兄上、うちの執事隊はそれなりに戦える者ばかりです」


「そうだったな。あいつらが束になってかかっても失敗したのだ。態々同じ愚をおかすこともあるまい。……攻め方を変えよう。私は魔法で動きを拘束してみようと思う。……キール、その隙をつけるか?」


「なるほど、さすが兄上。……ですが宜しいのですか?」


「うむ。ジークが幸せそうに寝てるのを邪魔するのは心苦しくは思うのだが……まあ……そのな……」


「ふはは!……兄上、気持ちはわかります」


「そうかキール。わかってくれるか」


「はい!私たちの弟は面白く、大変に興味深いです」


「うむ。そうなのだ。」


兄弟二人は弟ジークにただ単にワクワクしていた。互いがアイコンタクトを交わし、各々が配置についたのを確認すると、ウィーサーは迷いなく両手を前に構えて詠唱を始めた。



「ジークの謎の平手にだけは気を付けろよ」


「はい。お任せください」


「では……いくぞ!」



光属性の一つ、痛みのない光の輪っかで、ジークの上半身を輪っかの内側に固定拘束し、その瞬間に合わせてキールはサッと距離を詰めた。狙いはしゃがみこんでの下段回し蹴りで足払いである。


((タイミングバッチリ!))


二人は作戦の成功を確信する。


 —―がしかし、その瞬間。二人の目の前はブラックアウトした。


・・・・・・・・・


・・・・・・


・・・



ハッ!っとして気が付いたのは数時間後、お昼も過ぎた頃だった。


メイド達も執事達もウィーサーやキールも一斉に目を覚ました。


全員が辺りを見回し、全員が片頬に小さなもみじマークを確認した。ただ、体に痛みは一切なく、逆に調子は良い。心は澄みきった深緑の中で、温かな陽射しを十二分に浴びた後のような心地良さだ。


全員が顔を少しあげてみると、ベットの上には変わらず立ったまま寝続けるジークの姿。執事隊とメイド達は一瞬だけその姿に惚ける。音楽や芸術に触れた時に、思わず心が揺れ動く様な感覚。それと同様の完成された"何か"をジークの立寝姿に観た。


数瞬の後、すぐさま動き出した各々は、主であるアースへ報告する者やそれ以外の仕事に向かい散っていった。


残されたのは、またまたウィーサーとキールである。


不思議な感覚であった。二人は弟であるジークから目を離したくないと感じ、ジークから少し間を空けてベットの縁へと腰を落とす。


ジークを左右から見上げる二人はまだ熱を帯びていた。いっそ押し倒してやろうかとか、性別の事など関係なしに唇を奪いたくなるとか、そんな良くわからない熱。恋ではないがそれに近いような気持ち。普通であれば弟に対してなど向けない感情ではあるが、二人は眠り続ける弟に対し、その小さな胸を痛めた。未だまともに言葉さえ交わしたことのない不思議な存在は、悪魔的な魅力を放ち続けていた。




翌日、翌々日と二人は弟の部屋へと通うが、そこには既に決まってメイドや執事の2~3人が転がっていた。触れてはいけないものに触れたくなる欲求。男も女も関係なしに惹き付ける言い様のない雰囲気。目覚めたあとに感じる多幸感。


それは止まることを知らなかった。連日に渡る報告を受け、父アースは遂に、ジークに担当のメイド、シャールを付け、シャールのみに世話を任せ、他の者にはジークの部屋へと近付かないようにと命じた。


ウィーサーやキールは渋々納得し、メイド達や執事隊も普段の仕事に没頭した。皆が言わないが、離れがたく感じてしまうジークの部屋に後ろ髪を引かれる思いだった。


それに引き換え、ジークの正式な担当になってしまったシャールの心境は複雑だ。

 シャールは十歳のメイド見習いで、栗毛の可愛らしい娘であった。父が執事隊に所属する一人で、その伝手でメイドの職を得ることができた。その仕事の大半は先輩メイドのお手伝いばかりで、ちょうど少し物足りなさは感じ始めてはいた。もっと仕事を任せてもらってもいいのに、と内心で愚痴をこぼすくらいには仕事に情熱を向けていたと言える。


 ――そんな願いが叶ってしまったのだろうか。ジーク部屋の担当を任された事は嬉しいが、これは思い描いていた理想とちょっと違う気がする。 


成人の十五歳まではここランツ家で修業し、修業後はウィーサー様に見初められたいなーとかほのかに夢を見ていた。どうせ他の執事隊の子息と結婚し、メイドとして一生を終える平凡な人生になるんだろうとも心のどこかでは達観していたけれども、夢位は見たいものだ。



それに、先輩メイド達が密かに、あそこを悪魔部屋と言っているのをシャールは知っていたから、あの部屋に行くのが怖かった。


そもそもランツ家三男のジーク様は産まれてからこれまで一切の食事をしないまま生き続ける不思議な存在だと言う。ご当主のアース様もそれに大層不信感を抱かれて、悪魔払いの神官や司教、占い師、更に鑑定士に依頼までしてジーク様を調べられたそうだ。――結局、結果は完全な"白"。人間で間違いないと言う結果ではあったのだが、皆の心に不信が残るのはしょうがないことだろう。


 納得いかない思いはあるものの、アース様はその結果を受け、安易な判断を下さず、経過観察することで今日まで真を見極められようとしているらしい。


悪魔ではないとは言うが、気味が悪い事には変わらない。噂では、立ったまま寝続けて下手に近付けば殴られると聞く。私はジーク様が一度おきた後、別の仕事を言い遣ってしまったので、その現場には居なかったのだが、その日はメイドと執事隊の大半が気を失ってしまい、全体的に仕事が滞って大変だったのを良く覚えていた。


だから、担当一日目の日は本当にビクビクしながらの入室だった。


―――コンコンコンコン。


 返事が返って来ないとはわかりつつも、ノックをして数秒待ってから意を決して入室する。



「し、失礼します………」



 扉を閉めて。息を止めて室内を見渡すと――その人物がいた。


 ランツ家三男ジーク様。奥様のフェール様に似た真っ赤な髪に、産まれてから一度も外に出たことのない真っ白い肌。一切の食事、一滴の水すら摂取していないにも関わらず、とても健康そうなお顔。改めて見てみると、みんなが悪魔の生まれ変わりだと噂するほどの気味の悪さは全く感じない。まあ結局は、寝続けていることが問題なだけだと思った。



「ほんとに立ったまま寝ていらっしゃるのね……器用だなぁ」



 ふら付くことなく真っすぐとした綺麗な姿勢。呼吸の度に胸が静かに動く以外の変化がない。



「さて。じゃあまずはシーツの交換からかな……うぁ、ジーク様が踏んでる」


 ベットの上に立ったままのジークをみて、どうやってシーツを変えればいいのだろうかと思案するシャール。



「まずは引っ張ってみようかな……そい!!」



 シーツの端を掴んだまま勢いよく引っ張る。

 だがしかし、ジークが踏んでいる箇所が、まるで杭でも刺さっているかのように微動だにしない。

 困った。下手に強く引っ張れば折角のシーツが破れてしまうかもしれない。それはダメだ。



「ぬうううー。片足をちょっとづつ動かしてみようかな……ジーク様……ちょっと右足を失礼します」



 ジークの片足に触れ、足を浮かせている間にシーツを抜き取ろうと手を伸ばす。

 だがしかし、ジークは摺り足でそれを避ける。

 困った。触れもしない。下手にこれを続ければ、シーツが破れてしまいそうなほど速いジーク様の摺り足によって、火でも点いてしまいそう。これもダメだ。



「摺り足だからシーツを抜き取る隙がない。ぬぬぬ、どうしよう。何かいい方法ないかな……あ!シーツごとジーク様を包んでしまえば、いくらジーク様でも身動き取れなくなって容易に交換できそうじゃないかな……よし!」



 ジークの立っている中心部以外のシーツを中心に寄せて、一気にジークをシーツで包んで捕獲してしまおう作戦。捕獲した後どうするのかとかは一切考えずにジークへと飛び掛かるシャール。




―――ペチン。



 その音が静かに響き。部屋の中で動くものは誰も居なくなった。

 ジークの足元では、シャールがスヤスヤと深い眠りにつく。



 ……暫くして、いつまでも戻って来ないシャールを心配し、メイドと執事隊の数人がジークの部屋の様子を覗きこむと、シーツを掴んだままジークの傍で寝息をかくシャールを見つけ、状況を把握し静に帰って行った。



 柔らかな時が流れ、ゆったりとした呼吸のリズムに合せるかのように、キラキラと小さな埃が部屋の中で舞う。


 シャールはベットに寄りかかるようにして寝ている。その夢の中では、今まさに自分がお姫様になっている姿を楽しんでいた。しかし、当然の様に夢の時間は短く、いつも良い所で終わってしまう。それを残念に感じながら、ゆっくりと目を覚ますのがテンプレだ。



 ――だけど、今日は違った。目を覚ました先には誰かさんの足が見えた。色が白く細い足。少し触ってみたくなって手を伸ばすけれど、なんでか触れない。回避される。



 しょうがないからとシャールは目線を上へと向けた。まだ寝起き直後のぼやけた眼で、少しだけ夢の続きの様な心持ちだ。


 だが、見上げた先の顔を見た瞬間。

 夢の中にいた王子様に、再び出会えた気がした。たったそれだけの事で心の全てが満たされていくのを感じる。ぼーーーーっとただただ見つめ続ける。それが何よりも幸せだった。


 今まで誰かを本当に好きになったことがなかったけど、こんな気持ちなのかなって思った。

 ただ見ているだけで満たされる。傍にいるだけで幸せを感じる。自然と自分の顔が微笑んでいることにも気づいた。


 何時まで見続けていただろうか、ある時になってシャールはここにいる理由を思い出す。


 あ、仕事……まだなにもしてない……。


 その瞬間に冷汗をしっとりと背中に感じ、シュタっと勢いよく立ち上がるとシーツはとりあえず諦めてそれ以外をすることにした。部屋から一旦出る時にどうしようもない寂しさが残り、後ろ髪を引かれたけどなんとか振り切った。

 

 仕事が遅れた上に、シーツ等の交換もままならずお叱りを受けるかと思っていたけど、先輩たちの理解もあり、怒られることなくその日は仕事を終えた。ジーク様部屋のシーツはとりあえず保留しよう、が全員の決定だった。


 最初は入るのが恐ろしかったけど、シャールはやっていけそうだと思った。


 一週間ぐらいしてジーク様部屋担当として慣れてくると、シャールは自然とジークに語り掛けていた。


「ジーク様ぁ~、今日も天気が良いですよぉ~。お洗濯ものも気分よく干せそうですね~♪」とか。


「ジーク様ぁ~、いつお目覚めになりますかぁ~、早く起きないと抱き付いちゃいますよぉ~無理だけどぉ~♪」とか。


「ジーク様ぁ~、ご飯を食べなくてお腹空きませんかぁ~、私はお腹が空きましたぁ~、お昼御飯が楽しみですねぇ~♪」等々。


 まるで歌を口ずさむ様にシャールは楽しく働いていた。この部屋の中にいる間は他より体が軽やかに感じる。ゲッダンする感じで仕事をこなす。


 ただ、一点、ベットシーツの交換が出来ずにいることにのみ納得がいっていなかったが――とある日に歌にしながら「ジーク様ぁ~シーツを換えます~あんよ上げて~♪」と歌ったら、右足がぴょこっと上がり、その二秒後に今度は左足がぴょこっと上がる現象を発見し、その隙に念願のシーツ交換に成功した。喜びと感動は勿論の事、なにより五歳も年下、ショタっ子ジーク様がぴょこぴょこっと足をあげる姿がとても可愛くて何度か遊んでしまったりするのは、シャールだけの秘密だ。また、同様の方法で、ジークの着ている服も変えることにも成功し、仕事は満足のいくものとなった。

 

 そんな感じで、シャールの幸せな日々は大体何事もなく過ぎて行く。


 時々、どこかの伯爵様だとか公爵さまだとかが、ジーク様の噂を聞きつけて、ランツ家に兵士と共に無礼にも押しかけ「不老不死の秘訣を調べるのだ!!」とか宣った後、兵士様方共々ジーク様印の柔肌ビンタ一発づつで睡眠退場されて行く――という事件もあったり無かったりしましたが、まぁそれくらいは些細なもので気にするほどではないでしょう。



そして、穏やかな日々の末、ジークは十歳の誕生日を迎える。因みにシャール十五歳、長男ウィーサー十四歳、次男キール十二歳であった。



 その日もまた、冬の良く晴れた朝だった。外は一面の銀世界。薄く積もった雪に、日の光が反射し世界は輝きに満ちている。

 

 部屋の中は妙に明るく、神聖な空気が満ちている感じがした。マイナスイオンやパワースポット的な感覚がビシビシ入ってくる。そして、それはジークの部屋だけじゃなく、ランツ家の屋敷全体に及んでいた。


 だが、その異変に気付けたのは、ウィーサーとキール、そしてシャールの三人だけだった。他の者は深い眠りにつき、起きる気配が全くない。

 三人は目覚め、ある程度の身支度を整えると迷わずジークの部屋へと赴いた。部屋の前でバッタリと出会った三人は頷きを交わす。


 『ジークが目覚める』確信はないが三人の心は同じ思いだった。


 五年前から全く姿勢は変わってないものの、十歳に成長したジークがベットの中央で立ったまま眠っている。


 ――そして、三人がジークの目の前に立つと、それは突然始まった。



――パキン。


――パキン。


――パキン。

 


 と、まるでガラスを割るかのような音。何かが殻を割って、今から産まれる事を知らせるカウントダウンのように思わせる。一枚割れる様な音が響く度に、辺りには光の粒が舞い始め、その光景はとても幻想的であり、この世のものとは思えないくらい綺麗だった。


 その光を、ジークの目の前で一身に浴びる三人は、その心地良さに、心から震えた。

 細胞レベルで自分の身体が歓喜に満ちているのが分かるのだ。


 


――パキン。


――パキン。


――パキン。



 多分、百回程でその音は鳴りやんだと思う。三人はある程度の光に触れ、ある程度満たされるとそれ以上は触れることが出来なかったが、既に充分過ぎるものだった。膝立ちになりつつ、歓喜に震える身体を必死に自分で抱きしめて、目線だけはジークを見続けた。



 そして、最後の音の時。ジークは目をゆっくりと開き、目に溢れる程の涙をためて、擦れる声で一言呟いた。



「かみ……さま……」



 その慈しみに溢れる声と共に、部屋には何も見えなくなるほど光が溢れ、それと同時に三人は意識を手放した――。





 翌日――



 三人は目を覚ました。

 起きた後、色々事情を聞かれ、あの日になにが起こったのかをアースへと報告する。



 笑顔と歓喜をもって、その時のことを嬉々として話す三人だったが、父を含め周りの反応はおかしく、全然芳しくない。どうしたのだろうと首を傾げていると、父がその理由を問う。



「ジークとは、いったい誰の事だ?」


「「「……えっ……」」」



 その言葉の意味が一瞬わからず、キールとシャールは必死にジークの事を説明し、ウィーサーはこの状況に目を見開き、黙考する。



 結局、弁明も虚しく、屋敷の誰もがジークを覚えていないことを、三人は知ることになった……。



★★★




――パキン。


――パキン。

 

――パキン。



 どこまでも真っ白なその空間に、ポツンと存在する天蓋付きの大きなベット。

 そのベットの真ん中で、膝を抱えたような状態で神は座っていた。


 始まってしまった。そう思わずにはいられない。そしてもう止まらないだろうことは分かっていた。

 どうせただ、今までと同じように……また一人の英雄が死ぬ、だけだ。大したことじゃない……。


 消えたらまたどっかから英雄を探してきて、また新しい物語を紡いで貰って、世界を成長させる。これまでと変わらない事、いつもの事、いつもの……。




 —―そんなの、嘘だ。



 膝を抱えながら、神は真っ直ぐとその光景を観る。

 その神の目には、今までに見たことないほどの涙が蓄えられていた。


「ごめんね。ごめんなさい。ごめん――でも嫌だ!嫌だよ!!タロウ君――」



 両の手にグーッと力を込めて、神は必死に抗っていた。

 万能とは言えない中級神の全力をもって、とある一人の英雄の消滅を防ごうとしていた。




――パキン。


――パキン。


――パキン。



 と、その音が鳴るたびに、頭も心も全てが焦りを覚える。消えてしまう。繋ぎとめないと、彼だったものが消えてしまう。急がなければ、急がなければとそう思うほどに焦りが焦りを生む。


 でもダメなんだ。どんなに必死にかき集めても溢れ出てしまう。そもそも存在の固定化でさえ危うくなる。こんなはずじゃない!!こんなはずじゃなかった!!!ほぼ失敗なんてするはずなかったのに!!!!


 だがしかし、幾ら否定しても現実の状況は変わることはない。ほぼ間違いなく訪れるであろうその終わりが、もうすぐそこまで迫っていた。




 ――少し話を戻そう。


 彼が前回の救済の後、私に願ったのは。


 "今回のご褒美――"


 "次は『転生』をさせてください。"


 力を持つ者達の終焉の世界を見て、彼が抱いた思いは、一度最後までしっかりと終わりまで生き抜いてみたい。という願いだったのだ。


 数々の世界を救い、長い永い年月を生きてきたが、彼はいずれも中途半端で、生の終わりと言うものをまだ経験したことがないと気づいた。いつもエンドロールでしたねって。終わらない物語は好きだけど、その物語の一つに、終わりが得られるお話があってもいいなって言っていた。


 神は少し考える。出来なくはない。いや、逆に面白い物語が見られるかもしれない。彼は今後も英雄を辞めるつもりはないみたいだし、安心して送り出せるだろう。


「ただ一つ注意点。顔が変わっちゃうよ?それでもいいの?」


【—―あ。折角無駄な髭の脱毛も終わったけど……いや、いいです!またやればいいんですよね。】


「髪の毛とかも……本当にいいの?」


【――あー、逆にフサフサの家系に生まれ変われるなら本望です!俺は、爺ちゃんからの強引にねじ込まれた隔世遺伝で強制若ハゲだったので(希望的観測)。あ、でも、出来ればそれ以外の能力的なものはそのままがいいです(俺Tueeeeして存分に楽しい人生を送りたいです。我儘でごめんなさい)】


「ふふ、分かった。後の事は私に任せて。存分に楽しんで来てよ」


【おおおお!さすが神様!俺なんかのこんな無茶なお願いも、まるっとお見通しで受け止めてくれる心の広さ!そこに痺れる!憧れる!!】


「ふふふふふ。存分に感謝してくれたまえ。……では、気を付けてね。いってらっしゃい」


【はーい!行ってきまー……ぁぁぁ……】  


 

 そうして、私は彼を送った。

 適度な家庭環境と母体を選び、そこに礎を残し、時を待って彼の器を作った。

 十月十日、約280日を待って彼は産まれ変わった。

 全ては順調にいくと思った。


 でも、出産後一日目で予定外のことが起こった。

 彼が起き上がって、歩き出したのだ。そしてその上、その身にはまだ早すぎる程の能力を使って、索敵に励んでしまった。――これが予定外の始まり。


 でも、彼が行ってしまったことはしょうがないことだ。今まで大体の世界で、彼は何故かファーストコンタクトで魔王とエンカウントする率が異様に高かった。七割を超す勢いで、第一村人が敵だったのだ。

 

 まともに動けない赤ん坊と言う点をみても、自身の周りの安全確認を行ってしまうのは当然とも言えた。

 その代償として、五年間の休息を余儀なくされるのも許容範囲であり、仕方のないことだ。

 全くもって、彼らしい読めない不思議な事が起こることに、私は楽しいとすら思っていた。


 ――だがしかし、その時は気づけなかったが、私の予定はその時に崩れ始めていた。いや、気づいたとしても、最早手遅れだったのだろうか。

 

 彼は五歳の時、目を覚ましたが、彼と言う存在はまだ不安定なものだった。これから五年ほどを使って、器の成長と能力&存在を固定しなければいけない。ま、成長などは生き物がほぼ自動で為す事なので、私は細かい調整だけだ。


 邪魔が入らないようにと自動防衛を行う彼の技のキレと、周りの反応を見ているだけでも面白かった。

 平和な日々だと思った。


 だが、彼が六歳の時、私は彼の異変に気付いた。

 ――彼のいる部屋が、いつの間にか神域化している。


 今までは彼の力が少し放出され、それを受けた者達が精神と肉体の回復を得られるほどだったのが、段々とその規模を深くしていった。

 

 その時になって、私は焦り始めた。

 彼は生まれ変って尚、その力を成長させていたのだ。それによって、既に器に対して力の量が大きすぎて、見合わなくなってしまっている。


 私の力をもってして、当初の予定通りなら200mlの硝子のコップに、対比として"ダムの水量程"にもなる彼の力を全てを押し込める事ぐらいなら"余裕で出来た"。

 

 だが、生後一日からの過剰な力の行使によってその成長を始めたタロウ君の今の力は、"海の水全て"と表現してもまだ足りないくらいの巨大さだった。


 ほぼ準神と言っても過言ではない力の量。

 それを200mlの、高々人間の器に押し込めるのは、万能非ざる私の力、中級神の力を超えていた。


 でも、私はどうにかしようとした。日々大きくなる彼の力に、器を合わせる調整を必死で行った。


 ……だがしかし、想いとは裏腹に、彼の器には段々と罅が入っていった。

 

 十歳を待たずに早いタイミングで彼を覚醒させることも考えたが、その場合、存在が不確定な状態のままの彼に、器に力を詰め込めるだけ圧縮して詰めこむということが出来なくなる。その上、圧縮して詰め込まず、海の水からたった一杯の水を救い上げて残したところでは、彼と言う存在は二度と目覚めることが出来ないほど存在が希薄になることが予想できた。――それじゃあダメだ。


 私が見たいと思った。いつまでも見続けたいと思ったタロウ君の姿はそれではダメなんだ。


 なんとかしなければ。なんとかしなければ。なんとかしなければ。


 そんな言葉だけが空白の空間に木霊し続けた。




 ――そして現在、なにも解決らしい解決が出来ないまま――彼は十歳を迎えた。迎えてしまった。



 最初はまだ小さいと思っていた罅は、今ではもう全体に及び、その欠片がどんどんと剥離しだした。

 

 その度に、甲高い硝子の音、まるで慟哭の様な叫びが――パキン。――パキン。と鳴り響く。


 ――嫌だ。待って。どうにかするから。彼に任せてって言ったんだ。これからも長く続くかれの物語の一項の筈だ。こんな終わりじゃない。こんな終わりにしていい筈がない。嫌だ。嫌なんだ。


 そんな思いも虚しく、罅割れたガラスの隙間から溢れ出る力の全てが、器を吹き飛ばす勢いで放出されだした。


 ――止まらない。止められない。消えてしまう。居なくなってしまう。


 彼との繋がりを十全に感じていた感覚が、段々と消滅していき、希薄になっていく。




 そして――。



――パキン。


――パキン。


――パキン。



・・・・・・・――パキン。



 きっとそれが最後だったのであろう。その響きはまるで震えるかのように弱々しくて。


 同時に聞こえてきた小さな声は、儚くも確かに神へと届く。



【かみ……さま……】



 今わの際のどうにか必死に絞り出した声、何かを伝えようとしたそれが、神の胸の奥に悲しく響き、貫いた。



「うああああああああああああああああああああああああああああああ」



 他に誰もいない真っ白な空間。永遠の孤独。その天蓋付きのベットの中央で、神は一人滂沱の涙を流した。


 自分を彩ってくれたもの。これまでで一番大事だと思ったものの消失を認められない。認めたくない。


 身体は感情のふり幅と同じく震え、その気持ちの表れか手のひらは食い込むほど強く握り締められていた。


 頭に映る彼の姿。彼の前に立っていた三人は倒れ、段々と光は消え去り、神聖化していた部屋もただのそれへと戻った。


 そして、器を失い、存在と力を無くした彼も、そのまま消え去る。




 ――その筈だった。



 だが、ベットの上の彼は、まるで透明と言っていいほどの透き通った碧の瞳を開き、白髪がメッシュの様に混じる真っ赤な髪に変わったまま、一歩そしてまた一歩と歩き出した。



「……なんで、何が起こったの」



 信じられない状況に、神はまだ涙の跡をそのままにして食い入るように彼を観る。

 そして、今の彼の状態を理解した。


 200mlの罅割れたコップは……辛うじてその存在を受け止める揺り籠足り得たようだ。


 しかし、ほぼ半壊したそれが残す水は、もう半分にも満たない。そして、消滅しきってしまったと思っていた彼との繋がりは、血が滲み食い込んで痛いほど握りしめられた両の掌分だけ、微かに残っているだけだった。


 良く言えば"奇跡"、悪く言えばただの"残り滓"。タロウと言う存在はほぼ消えたが、彼の風味を残した存在がなんとか命を繋ぎとめた。


 当然、その能力値は以前とは比べようもなく、とても酷いものだった。



 全てにおいて常人の半分以下。

 視力も聴力も嗅覚も知力もあまり良くはない。

 両の手は繊細な作業は勿論の事、重いものを持てはしないだろう。剣などは以ての外だ。

 走る事叶わず、膝が悪いのか足を上げる高さが一定にできないから時々引きずる様を見せた。

 内臓や免疫面でも弱く、すぐに病気にかかってしまいそうな虚弱体。


 そして、今の状態がほぼ成長の限界に達しているという事実だった。


 彼の求めていたものは、ほぼなにも残っていないように神には見えた。

 それを思った瞬間、また瞳は涙で滲む。


 それでも、彼は歩きだした。

 未だ意識がはっきりしないままだろうに、彼は屋敷を出て行き、町の中へと歩みを進めた。


 薄く雪の残る道に、引き摺るように2本の線が伸びて行く――。




★★★


またのお越しをお待ちしております。

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