こんこんくるり、夏祭り。
初めて出会ったのは四つの時だった。
「おあ?お前迷子か?」
「……ふぇ?」
神社のお祭り、薄暗い境内の中、迷子になった私は一人、お神楽の音と人の雑踏の中で途方に暮れて泣いていた。あれほど親の手をしっかりと掴んでいたはずなのに、このとんでもない人混みの中知らぬ間にはぐれてしまったらしい。赤い提灯の光と、色とりどりの屋台からの光、すべてが混ざり合ってキラキラしているはずなのに、その道を行き交う人の顔は一人もわからなくて、そうなってくると急に神社の片隅にある暗がりが怖くなって、でも屋台と屋台の間の人ごみに揺られているのはもっと怖くて。何とか人混みを割って本殿の横にある御神木の根元まで辿りついて、そこに隠れるようにして蹲ってべそをかいていたら。
「お前、迷子か?」
くりくりした目の同い年か一つ二つ年上かくらいの少年が、こちらを覗き込んできていた。鼈甲飴のような空気を纏った少年だった。そんな彼が突然声をかけてくるものだから、私の涙は驚いて引っ込んでしまったようだ。
「……うん。パパとママと、はぐれちゃったの……。」
「そうか!あのな、おいらも迷子だ!」
「えぇ……?」
「だからな!お前の父さんと母さんが見つかるまで一緒にいるぞ!」
「う、うん……。」
祭りのせいだろうか、後ろ前にお面をしているのだろうか、その少年の頭には三角の耳があるように見えた。栗色の髪に粟色の瞳、黄金色の布地の浴衣。なんだか不思議な感じがした。
「お前、なんて言うんだ?」
「さや……。」
「さや!良い名だな!おいらはチトセだ!」
きゃるん、と可愛い瞳で笑う。なんだか、こちらも楽しくなってきた。
「ち、チトセのパパとママは?」
「ん?おいらの父さんと母さんは、神楽にいるぞ!たぶん!」
「たぶんって……。」
「よくわかんないからおいらも迷子だ!」
また、チトセはきゃるんと笑った。小さな口の中から覗く八重歯がちょっと尖がって見えるのは気のせいか。
「さやは人間なんだな!耳がないんだな!」
「え、ええ?耳は、あるよ……?」
「ほんとか!?うわあ、おいらのと違う形だな!凄いなぁ!さやは人間なんだなあ!」
こちらの両頬を手が通り越し、さらりと下ろしたままの髪をパッとめくった。髪に隠されていた耳があらわになって、少しだけ周りの音が鮮明になった気がした。一方小さな両手のひらをぱちぱちと打ちながら、チトセはその瞳を興味と歓喜に煌めかせた。そんなにこちらの耳が珍しいのだろうか。
「父さんと母さんは、人間は怖いものだ、近づいたら殺されて皮を剥がされてしまうよって言うんだけど、さやはそんなふうには見えないな!」
「に、人間はそんな人ばっかりじゃないよ……殺しちゃうなんて、怖いこと言わないでよ。」
「そうだな!今度、父さんと母さんに言ってみるぞ!」
チトセはそう言って両手で私の両手を握ってぶんぶんと上下に振った。その時、遠くで私の名前を呼ぶ声がした。
「お?お前の父さんと母さんか?」
「え……?あ、ほんとだ!じゃあまたね、チトセ!」
「おう!またな!」
小さな紅葉のような手の平がブンブンと振られる。私も手を振り返し、父と母の元へ駆けて行った。
二度目に会ったのは八つの時だ。
四つ離れた幼い弟にかかりきりの両親と知らぬ間にはぐれてしまい、人混みの中では小学生がまともに動けるわけもなく、はぐれたらここに来るのよ、と言い聞かせられたお神楽の舞台の前にも辿りつけず、仕方なく人の流れが比較的緩やかで人の多くない場所を抜けて歩いていたら、いつの間にやら御神木の前に出ていた。誕生日にと新しく買ってもらった下駄の鼻緒が痛くて、歩きなれていない脚が疲れを訴えていて、木の根を軽くポンポン叩いて土を落とすとその上に腰かけた。なんだか懐かしいような気がして、くるりと振り向いたその先に、どこか懐かしい黄金色の布地が踊った。
「さやだ!」
「う、うええ?!」
「さやだろ!お前。先月の祭りで会ったぞ!」
「せ、先月……?先月はお祭りなんてないよ?……あれ?もしかして、チトセ?」
四年前の小さな記憶がふと蘇る。迷子になって御神木の下でべそをかいていた私の下に一人の少年が現れたこと、なんだか金色でキラキラした少年だったこと、その少年がチトセと名乗った事。覚えているのはそれくらいだったけれど。
「っと、そうか、人間の時間とおいらの時間は違うんだな!人間の時間ではどのくらい経ったんだ?」
「えっと……四年、かなあ?」
「四年!?凄いな!」
チトセは四年前と変わらない紅葉の手をぱちぱちと嬉しそうに叩いた。にぱっと開いた口からはやっぱり尖がった八重歯が覗く。
「おいらにとってはつい先月なんだぞ!」
「え、ええと。ってことは……。」
一年が十二ヶ月で、それが四個あって……あれ?この間習ったばかりの掛け算を必死に使ってみるも、途中でよくわからなくなった。暗算にはちょっと早かったらしい。
「凄いなあ、さや、少し大人になったみたいだ!」
「そ、そうかなあ?」
「うん!なんだかおいらの姉さんみたいだ!」
「チトセ、お姉さんいるの?」
「おう!いるぞ!悪いことするとげんこつされるけど、すっごく優しいんだぞ!おいら、姉さんのこと大好きなんだ!」
「へえ、いいなあ。」
なんだかやたらと嬉しそうなチトセを見ているとこちらも嬉しくなってくる。迷子だというのに、思わず笑みがこぼれて、ふふっと声が漏れた。「私にも弟がいるよ。」というと、チトセはそれは凄いな!とまた瞳を輝かせる。こちらがそれを見ておかしくって笑うと、チトセはこちらを見て小首をかしげる。その頭上で三角の小さな耳が揺れたのが見えて、不意に疑問がわき上がってきた。
「チトセ、人間じゃないの?」
「おあ?今気づいたのか?」
瞳がくるりと回り、不思議そうな顔をする。
「そうだぞ!おいらは……あ、やっべ、姉さんだ!」
不意に私の後ろをパッと見たチトセはあからさまに「マズイ!」という顔をして飛び上がった。そのままくるりと踵を返して御神木の後ろへくるりと回り込んでしまう。慌てて後を追うようにして御神木の裏に回り込んだけれど、そこには木の裏があるばかりで。
「……変だなあ?」
私は首を傾げるばかりだった。
次に出会ったのは十二の時だ。
夕暮れ時、はぐれた友達を別の友達と待っていた時だ。御神木の根元、きょろきょろと頭を動かす鼈甲飴のような雰囲気の少年。私もつい目を奪われてその姿を追いかけた。記憶にあるよりほんの僅か少年らしさが増して同い年くらいの風貌になっているような気がした。
「あっ!」
「どしたの?」
「……ううん、何でもない。」
チトセが私の姿を見つけてはっとしたように顔を輝かせたが、私の隣に友人の姿があるのを見つけると右手の人差し指を口元にやって、左手を小さく振って「しぃーっ」と言った。そのままくるりと踵を返してこの間のように御神木の裏に消えていく。その背で、筆のようにふさふさとして柔らかそうな尾がふわりと揺れた。それが少し寂しいような気がして、私は御神木の方に小さく手を振った、見えていないとわかりながら。
次に会ったのは十六の時だ。
今度は意図的に会いに行った。友達と出かけると言って、一人ふらりと境内に足を伸ばした。柄にもなく浴衣で着飾って、慣れない帯を頑張って結んで、小さな巾着袋を持って。……ちょっと迷って巾着袋にお揚げを入れて。
……多分彼は狐の子なのだろう。尻尾に耳に、なんとなく目に残る黄金色。だから、お揚げ。お稲荷さんにしようかとも思ったのだけれど。
下駄をかろかろと鳴らして境内の中を歩く。さすがにもう、一人で歩いていても怖いと感じることはなかった。
元は大きくはないけれど質のよい金が採れる金鉱山があって、かなり栄えていたらしいこの街も、人間そこに資源があるとわかればあっという間に使い潰してしまうもの。金山が枯れて金が採れなくなってからは規模をどんどん小さくして、今では片田舎のほどほどに賑やかな街程度だ。駅前の限られた区画にある繁華街に行けばチェーン店も少しあるし、背丈の高いマンションなんかも見える範囲にある。もっとも、近所ではないが。この近隣の街の規模を考えればここは比較的栄えていると思う。それでも、最盛期の頃の熱気は見る影もなく息をひそめて、どこか寂れた空気がこの街を片田舎の街にしている気がする。そんな街でもお祭りは昔から規模を変えることなく賑やかで、この街のどこにそんなに人がいたのかと思う位の人出になる。……というのは図書館にあった歴史紹介のレリーフの受け売りである。
少し山に寄った位置にある神社。普段は静かなその場所を染めているのは華やかな色とりどりの浴衣、提灯、飛び交う威勢のいい売り文句、人の熱と屋台からの熱、食べ物の匂い、昔から馴染んできたお祭りの景色。いつの頃からかそこにチトセが居た。途中の屋台で真っ赤な林檎飴を買って、控えめに舐めながら境内を歩く。御神木まで一直線に歩く。
「いるかなぁ……?」
「それはもしかしておいらを探しているのか?」
御神木の裏側から、ひょいと顔を出す黄金色。思った通りの黄金色の三角耳、栗色の髪に粟色の瞳、黄金色の布地の浴衣、背中で揺れる黄金色の尾。四年前に見た記憶と変わらない姿。けれどその眼が不意に不安そうに揺れた。初めて見る表情だ。
「あ、あれ?さやだよな?」
「え、うん、そうだよ?チトセ、だよね?」
「お、おう!……ううん、人間ってのは本当にすぐに大人になっちゃうんだなあ……ちょっくら待ってておくれ。」
そう言ってチトセは御神木の裏にひょいと回り込み、そのまま反対側からひょこりと顔を……ってあれ?
「これくらいか?これくらいならさやと同い年くらいに見えるか?」
目の前に現れたのは、確かに栗色の髪に粟色の瞳、黄金色の布地の浴衣、三角の耳に尾を生やしたチトセの姿だったのだが……なんというか、急に大人になっている、というか。同い年くらい、と言ったところか。手足はすらりと伸びて少し大人っぽく。声も低くなり、確かに同じ学年にはいそうな感じなのだが。……化けた?
「化けたの?」
「おう!やっとこういう術が使えるようになったんだ!このひと月一杯練習したんだぞ!」
「へええ。凄いんだね、チトセ。」
「えへへ。……あれ?なあ、さや、お揚げ持ってるか!?」
チトセが急に鼻をひくつかせて訪ねてきた。そう言われて、巾着袋の中に入れてきたお揚げをはっと思い出す。「持ってるよ。」と言ってラップに包んだそれを手渡すと、それはもう、チトセは全身で喜びを表現した。そこにある金色の光の量がなんだが、こう、ぶわっと増えてるような感じと言うか……。そういう所は妙に子供っぽい気がする。
「うわああ……これ、あれだろ!このまま中に五目御飯入れてお稲荷さんにするんだろ!いいなあ、食べたいぞ!」
「どうぞ、食べていいよ。チトセにあげる。」
そう言うと更に彼は顔を輝かせた。その様子に嬉しくはなりつつも、なんとなく人に見られてはならないような気がして、私も彼について御神木の裏側に回り込んだ。狐の子と会っているなんて誰かに知れたら、どんなことになるのかわかったもんじゃない。今まで感じたことのない後ろめたさにも近い何かが、そっと背中を押すようだった。いつもチトセが消えていくそこはただの木の裏で、少し湿った地面と注連縄が巻かれた木の幹があるばかりだった。てっきり異世界でも広がっているのかと思ったがどうもそういう訳ではないらしい。その木に寄り掛かるようにしてチトセは私のあげたお揚げを嬉しそうに頬張っていた。
「美味しい?」
「おう!凄く、優しい味がする!」
たっぷりと沁み込んだお汁でてらてらと光る指先を舐めながらチトセはまたにぱっと口を開け、尖った八重歯を見せて笑った。その笑顔がやっぱり子供っぽくて可愛くて、私の口から再び笑みがこぼれる。
「チトセってなんか、可愛い。見た目は同い年なのに、子供みたいね。」
「さやが大人なんだよ。おいら……じゃなくて、僕たち妖狐は人よりはるかにゆったりとした流れの中で生きてるんだ。さやたちの四年は僕たちにとってのひと月にしかならない。僕たちは不老不死ではないけれど、悠久の時を生きる種族なんだ。」
単純計算でも私たち人間の四十八分の一の時をチトセ達は生きている。彼らが二つ年を取る間に私たちが死んでしまっている可能性だって十二分にあるのだ。彼らにとっての十年の間に、こちらは歴史が随分動いてしまう。かみ合わない、決して同じ時を生きる事の出来ない世界がここにあった。それに改めて気づいた途端、なんだか世界が急に遠くなり、音が消えてしまったような気になった。
「でも、ちょっと寂しいぞー。初めて会った時はさやの方が小っちゃかったのに!三月も経ったらさやが大人になってたのにはびっくりしたぞ?」
「私たちにとっては十二年だから……そりゃ、少しは大人にもなるよ。」
「うーん……そんなに急いで生きなくてもいいと思うんだけどなあ……。」
チトセはなんだか不服そうだった。その唇を尖らせ、頬を膨らませ、いかにも面白くないといった様子だ。
「そうだ!さやがお揚げをくれたから、おいら……僕もお返しする!」
ポンッ、と手を打ってチトセがあの純真無垢な笑顔に戻る。善は急げとばかりに彼はふわふわの尻尾を揺らしながら木の裏から出て行こうとした。
「あっ、待って!尻尾!尻尾出てるよ!」
慌てて掴んだ手はどことなくふわふわしているような気がして、もしかして毛皮なのだろうかと一瞬思ってしまうほどだった。「だめなのか?」とこれまた可愛らしく首を傾げる彼に、ダメダメと首を振って見せるとこれまた不服そうな顔で「じゃあ、ちょっと目を瞑っててほしいぞ。」と言われて、素直に目を瞑れば、地面が小さく擦れる音がして目の前で風が回る気配。「もういいぞ。」と言われて瞼を上げれば髪色こそ栗色のままだがどこにでもいるような人間の少年が立っていた。
「うーん……尻尾が窮屈。」
「えっ、それ中にしまってるの?」
「感覚的には似たようなもんだぞ。」
「へ、へえ……。」
ちょっと意外だった。
「よし、さや、行くぞ!」
「へっ!?」
チトセにパッと腕を取られ、熱気溢れかえる参道に二人揃って飛び出した。チトセは行く先が分かっているのだろうか、凄まじい人混みの中でも迷うことなく、そして器用に人を避け、するりするりと屋台と屋台の間を抜けていく。
なんか不思議だ。見慣れたはずのお祭りの風景、よく知っている神社の参道のはずなのに、どこか不思議な光に溢れていて不思議に見える。金色の小さな光の粒子があちらこちらを飛んでいるように見えた。屋台の光を埃や煙が反射しているからなのだろうか。
「えーと、ええと、あっここだ!」
「わぶっ!?」
一軒の屋台の前でチトセが急に立ち止まった。勢い余って私はチトセの背中にもふっと激突した。心なしかふわふわして感じるのは、多分気のせいだろう。多分ね?
「か、んざし……?」
「そうだぞ!さやの髪は黒くて長くてきれいだからきっと似合うと思って!」
……確かに昔に比べたら髪は長いけど、簪で留められるほどの長さじゃない。それが少し気になって、簡単に一つにくくっただけだった髪を無意識に触った。目の前の少年をがっかりさせてしまうかもしれないと思うと、何だか急に凄く切ないような気になった。そんな私の素振りも構わず、チトセは急に私の手を放して屋台の方に駆けていく。
「じいさま!簪一つ!」
「おや、チトセの坊ちゃん。どんな用事で?」
「あのな、さやに似合うの欲しいんだ!」
そう言って私の肩をさっと抱き寄せてくる。思ったよりも力強い腕に、思わず息が止まる。
「ほほう。人の子、ですか。そういう事でしたら……こちらの一品をお渡ししましょう。」
そう言って店主から渡されたのは、黒い漆を艶やかに塗った木の本体に、赤く大きな玉の飾り……天然石だろうか、その付け根から金色の鎖が幾連かしゃらりと垂れ下がり自然なカーブを描いて玉飾りの根元に戻っている。よく見れば本体の黒漆の中に埋め込まれるようにして貝殻細工が施されている。いくつかの梅の花を象ったもののようだ。それを店主から受け取ったチトセは嬉しそうに品定めをすると、こちらをいきなりくるりと振り向いて私に差し出してきた。
「うん、似合いそう!さや、これつけてみてほしいぞ!」
「で、でも私、簪なんてつけたことないし……そんなに髪、長くないし……。」
「そっかぁ……じゃあ、持っててくれよ!僕からお礼だ!」
チトセは笑う。
「う、うん……。」
「じゃあ、じいさままたね!」
いつの間に代金を支払ったのだろうか、再びチトセは簪を握っていない方の私の腕を取り、御神木のある方向に向かって駆けて行った。慣れない下駄が私の足元でからころと不規則で無様な音を立てている。草履を履いたチトセは驚くほど足音を立てずに駆けて行く。揺れる栗色の髪からほんの少しだけ甘い匂いが漂ってきて、私の鼻先をくすぐる。鼈甲飴の匂いだと気づくにはしばらくかかった。
「さや、大丈夫か?」
「う、うん……ちょっと、疲れちゃったけど……。」
走ったせいで上ってしまった息を整えながら笑うと、チトセも嬉しそうに笑った。その顔を見て思わずまた笑みがこぼれる。
ふと顔を上げれば目の前に続く本殿へのお参りの列はゆっくりと流れて行き、その向こう側で活気と喧騒溢れる屋台がいっそ異世界のような輝きを放っている。三途の川の向こう側はあの世だと言うが、ここでは人の川一つ隔ててまるでこちら側とあちら側に分けられたしまったような、そんな錯覚に容易く陥る。向こう側から友達が見ているかもしれない、隣のチトセを私の意中の人と勘違いして根も葉もない噂が流れるかもしれない、何かの拍子にチトセが人間でないと知れてしまうかもしれない、けれどそんなことは今の私には些細なことだった。溢れる笑い声とざわざわと不規則で不明瞭な脈絡のない騒がしさ。その音に半ば埋もれるようにして、遠く、舞台からの神楽の音が聞こえてくる。そんな雑多なざわめきが目の前にあるにも関わらず、御神木の下は不思議と規則的で静かな気がしてくる。見慣れているはずのこの場所が、宵闇と灯りのざわめきだけでこんなにも異世界に変わってしまうのかと思うと、何とも言えない気持ちだった。ふと横を見れば、どこか違う所に焦点を合わせたようなチトセの綺麗な瞳の中に、白熱電球や提灯の明かりが様々入り混じって反射して、宝石のようなきらめきを見せていた。それに見入っているとこちらをパッと振り向くチトセ。慌てて目を逸らせば、握られたままだった手がぎゅっと握られた。
「あのな、さや、今度は約束、しよう。」
ちょっと照れくさそうに俯きながら、御神木の前でチトセが言う。
「来月のお祭りも、ここで、簪挿して待っててほしい。」
そうしたら、その時はさやにこのお祭りの本当の姿を見せてあげるぞ。
照れくさそうに、でも、真剣な眼差しで、チトセはお祭りのお囃子の喧騒の中でもよく聞こえる鈴のような声で、そう言った。手の中で、簪の金の鎖がしゃらりと鳴った。私は手の中に握ったままだったそれをそっと握りしめて、小さく頷いた。来月のお祭り。私にとっては四年後の、お祭り。
次に会ったのは二十の時だ。
髪は四年前からずっと伸ばしていた。成人式があったこともあるが、あの小さな狐の子との約束がどうにも頭から離れなくて、手の中に握らされたその簪が見合うような髪型をしたくて、切らずにずっと丁寧に伸ばしていた。簪はいつも目に付く場所に飾っていて、時々丁寧に拭いたりして。夏祭りの日が近づくと、浴衣を出したりしまったり、帯の結び方を調べてみたり、お揚げを上げた時の嬉しそうな表情が忘れられなくて、またその顔を見たくて、食べてもらおうと不慣れな手つきで五目御飯を味付きのお揚げで包んでお稲荷さんを作ってみたり。どうにもそわそわしてまるで遠足前の幼い子供のようだと、自分で自覚できてしまうほどだ。だから、祭り当日の朝はやたらと早く目が覚めて、時間でもないのに屋台が出始めて少しずつ非日常的な空気を纏い始めた道を歩いたりして。夕方、日が傾き始めたかどうか位の頃にはもう待ちきれなくて、いそいそと四年前のあの日のように丁寧に浴衣を着て、ずっとネットを調べてチェックしていたスタイルで髪を結いあげて、丁寧に簪を挿して。小さな重箱の中にはお稲荷さんをできるだけたくさん詰めて、淡い色の風呂敷に包んで。
(これはもしかしたら夢かもしれない。)
四年に一度だけ、お祭りで姿を見せる小さな狐の子。初めて会ったのは四つの迷子の時。それから何度も、何度も。小さな神社の大きなお祭りの浮足立った喧騒の中、御神木の向こうから小さな黄金色がこちらを覗いてくる。鼈甲飴のように甘い香りに騙されているのかもしれない。でも、それでも良かった。四年に一度、あの境内は私にとって夢の世界になっている、それでもいいじゃないか。後ろ姿を合わせ鏡の中で確認する。黒漆で塗られた簪が窓から斜めに差し込み始めた夕日を反射して髪の中できらきらと光るように見える。少しだけ帯の結び目を整えてから、私は下駄の音も軽やかに、神社まで歩いて行った。
神社に到着する頃には屋台から溢れだした非日常が辺り一帯を満たしていて、浮ついた、それでいて芯の一本通ったような、表現しきれないざわつきがそこかしこから顔を覗かせていた。この十年の間に街の様子も随分と様変わりした。それでもこの祭りの日の独特の空気だけはずっと変わらない。様々な匂いが混ざった空気を胸いっぱいに吸い込みながら、境内をゆっくりゆっくり進んで行く。
屋台の一つを覗き込み、イチゴ味のかき氷を買い、こぼさないように気を付けて食べながら御神木までの道のりをゆっくり歩く。耳元で金の鎖がしゃらりしゃらりと繊細な音を奏でているのを聞きながら、ふと顔を上げれば目の前には御神木。あまり大きな神社では無いからだろうか、思いのほかあっさり辿りついてしまったそこは、やっぱり切り取られたように静かだった。
「さーや。」
「……チトセ。久しぶり。」
「……ううん、もう少し大きくならないと釣り合わないか……こんなでどうだ?」
一度御神木の裏に引っ込んだ四年前の少年の姿が、あっという間に青年へと変貌する。神輿を担ぐ若い衆のような熱気こそ無いものの体格のいい、しかし、どこか十六年前に出会った少年の面影を残した青年が、静かに微笑んでいた。
「凄いね、化けるの上手くなったみたい?」
「たくさん練習したんだぞ。さやに見合う姿になりたかったから。人間の成長は早すぎるんだぞ。」
「……ふうん。……あ、そうだ、これ。」
そう言って風呂敷をそっと差し出す。するとチトセは相変わらずの笑顔でパッと表情を輝かせると、空中で器用に包みをほどいて重箱の蓋を開けた。
「おおお!お稲荷さんだ!凄い、五目御飯の香りがするんだぞ!」
「この前会った時は嬉しそうに話してくれたから。好きなのかなって。」
「おう!大好きだぞ!」
「チトセにあげる。食べていいよ。」
「本当か!わああ!おいらこれ本当に大好きなんだ!」
嬉しそうに笑ったチトセは、重箱からお稲荷さんを一つ摘み上げると、大きな口で一口にそれを飲み込んだ。背中の後ろで尻尾がいかにも嬉しいと言わんばかりにぶんぶん揺れる。ぱくっと一つ、また一つお稲荷さんが形のいい唇の奥に消えていく。良い食べっぷりで見ているこちらが清々しい気持ちになるようだった。
「ごちそうさまでした!」
「はい、お粗末さまでした。」
ご丁寧に風呂敷包みまで元に戻してくれたチトセから空になってすっかり軽くなった重箱を受け取って巾着と一緒に持つ。持ったところで不意に、彼の手がこちらに伸びてきて、耳の横を通り過ぎ、簪の鎖に触れた。
「してきてくれたんだな。」
「約束、したから。」
「そうだったな。じゃあ、おいらも約束を果たそうかな。その前にさや、これ着けて。」
そう言ってチトセが手渡して来たのは狐を象ったお面だった。ベースは和風なのにどことなく中華風で、白地に朱や金箔、多彩な塗料で描かれた繊細で芸術的な紋様が意匠の品でありそうなことをうかがわせる。綺麗、と思わず口に出して呟けば、チトセが嬉しそうににっこりと笑った。
「お面は顔を隠すもの。顔が隠れれば身分が隠れる、顔が隠れれば真性が隠れる。お面をしていれば神も人も鬼も関係ない、それがお面の始まり。これがさやを隠してくれるから。おいらがいいよって言うまで、それを取っちゃいけないよ。」
その言葉に素直に頷き、お面をつける。まるであつらえたように顔にぴったりとつき、屋台のお面のような安っぽい香りではなく削りたての木のような、あるいは薬草のような、品のいい香りがした。手触りからいって木製なのだろうが、それは驚くほど軽く、それでいて見た目よりも随分と頑丈そうだった。
「それじゃあ行くよ。足元に気を付けて。おいらの手、握って。」
差し出されて素直に握った手は大きくて、暖かな手だった。
ぶわり、と自分の周りで空気が動く気配。祭囃子と喧騒があっという間にごうごうとうなる風の音に飲まれて擦れて消えていく。浴衣の袖がバタバタとはためいて煩い。結った髪が崩れていないかと、しょうも無い心配をしながら、チトセの手を握り締めればその手がぎゅっとこちらの手を握り返してくる。それが何とも言えず嬉しくて、少しだけ強く握った。お面の目の向こう側、視界の中が一瞬暗闇に染まり、白く染まり、そして淡く金色が混じり、風が収まったのを感じ取ってそっと顔を上げてお面越しに辺りを見渡せば、そこは神社の境内だった。
(あれ……?)
何かが違う。確かに祭りの光景だ。立ち並ぶ屋台、笑い声、不規則で不明瞭な喧騒、色とりどりの光、遠くから聞こえてくる神楽の音。しかし、何かが違う。景色はどこを見ても淡く温かな金色の光に満たされていて、時々目の前を駆け抜けていく子供らの背には、例外なくふわふわとした尻尾が纏わりついていて、頭の上には三角の耳がちょこんと顔を出していて。
「こちら側のお祭りにようこそ。楽しんでいってくれると嬉しいぞ。」
お面に遮られそうな視界の中、チトセがはにかんだように笑った。
目の前を一つ、赤提灯が横切った。驚いて目だけでは足りず、首まで回して追いかければそれを見ていたチトセが「子狐が飛ばしてるんだぞ。おいらも昔はよくやったなあ。」と懐かしそうに笑った。なんでも術の練習なのだとか。祭りの飾りつけはその地域の狐総出だそうだ。大きな飾りや屋台は経験のある古株が、提灯や幟は若い子狐たちがするのだとか。
「凄いね……私の知ってる神社にそっくりだ。」
「そりゃそうだと思うぞ。あっちの世界とこっちの世界は繋がっているというか裏表と言うか、うまく言えないけど、同じようで違う世界なんだぞ。もっとも、そっくりなのはこういう神社や祠の近く、昔からおいらたちの領域になってる山とか、さやたち人間の世界との境目があるところに近い場所だけだけどな!」
まるでそれがさも常識であるかのように平然と、チトセは告げる。その眼がとっておきの秘密を話す少年のようにキラキラしていて、琥珀のように綺麗で。お面に遮られた狭い視界のなかでも、吸い寄せられそうになるのが分かる。
「そうださや!どこか行きたい屋台あるか!?射的とか、ヨーヨー釣りとか、いっぱいあるぞ!」
「えっ……じゃあ、リンゴ飴、とか。」
「あ、ごめん、食べ物は無しだ。さやを元いた世界に返せなくなる。」
さらりと告げられる。
「昔からよくあるだろ、違う世界に行ってそこの食べ物を食べたら帰れなくなっちゃうって話。一度くらいは聞いたことあると思うぞ?」
「あれ、でも……チトセは私の作ったお稲荷さん食べたのに……?」
「お供え物。」
チトセはにやりと笑う。
「昔から人間はいろんなものをおいらたちに供えてきた。それこそ、お稲荷さんとかだぞ。」
だから、おいらはさやからもらったお稲荷さんをお供え物だと受け取って、食べた。だから大丈夫だったんだぞと、チトセは言う。
「だからほら、おいら、さやが食べてもいいよって言うまで食べなかったんだぞ。」
奪ってしまえばお供え物ではなくなる。人間から差し出されたものであって初めてそれをお供え物と捉えることができるのだ。
「でも、私そんなつもりで作ってないのに……いいのかな?」
「さやは、お揚げもお稲荷さんも、おいらにくれるつもりで作ってくれた。それだけで十分なんだぞ!おいらにはそれで十分お供え物の価値があるんだぞ!」
だからかな、凄く美味しかったぞ!とチトセは私の両手を握ってぶんぶんと上下に振った。それと一緒に背中でふわふわの尻尾がゆらゆら揺れる。耳も、ぴこぴこと左右に揺れて嬉しそうだ。そんな姿に私もまた微笑む。もっとも、お面の下じゃ彼には見えないだろうけど。
「な、さや、なにしたい!?」
「じゃあ……ヨーヨー釣りと、宝石すくいと……」
「まかせとけ!ぜーんぶあるんだぞ!」
チトセに手を取られて境内の喧騒の中を駆け抜ける。お面をしているのにお面の中は不思議と暑く無くて快適で、息苦しくもなかった。鼈甲飴の甘い良い匂い。時折こちらを振り返り、嬉しそうに笑うチトセの顔の前を金色の光がキラキラと通り過ぎて行く。それが、とても眩しい。
彼の言った通り、屋台は何でもあった。焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、五平餅、磯部餅、田楽、じゃがバター、甘酒、リンゴ飴、かき氷、ラムネ、綿飴、いなり寿司、チョコバナナ、射的、くじ、カタヌキ、水風船、宝石すくい、金魚すくい、亀すくい、スーパーボールすくい、風船、水笛、ハッカパイプ、飴細工、七味唐辛子売り、お面、鮎焼き、イカ焼き、ソースせんべい、牛串、焼き鳥、ケバブ、クレープ、タピオカジュース、ポップコーン、輪投げ、もろキュウ、から揚げ、簪、帯留め、トンボ玉、ビードロ……挙げていったらキリがない。新しいものから古いものまで、和物洋物、何でもござれだ。中には狐が食べていいのか怪しいものもあったが……。色の洪水があとからあとから押し寄せてきて、目が回りそうだった。少しもしないうちに私の手の中は屋台で手に入れた色とりどりなものでいっぱいになった。
「あ……お神楽の音だ……。」
篠笛や鼓の音が聞こえてきて思わず振り仰いだ。高いところに設置された御神楽の舞台は荘厳な空気に包まれていた。美しい巫女が舞を舞い、一際高い雅楽の音に合わせて鈴が鳴る。しゃなりしゃなりとそれはもう、見ていて美しいったらなかった。思わず足を止めて舞台に釘付けになる。その様子を見ていたチトセが隣にやってきてにぱっと歯を見せて笑った。
「あそこで舞ってるの、おいらの姉ちゃんだぞ。今回の祭りからから舞い手になったんだ。おいらの家は代々御神楽の舞台で巫を務めてるんだぞ。」
「へえ……凄い、綺麗だね。」
「うん、自慢の姉ちゃんだ。おいらもあと一つ歳を取ったらあそこに登って篠笛を吹くんだぞ!」
「えっ、凄い!」
「祭りの花形なんだぞ!」
「凄いね!凄いよチトセ!」
得意げに顔を輝かせる彼を前にそのことがまるで自分のように嬉しいのは、きっと気のせいではないだろう。なんだかとても誇らしかった。
「……さや、最後に一か所連れて行きたいところがあるんだけど、いいか?」
「いいけど、どこ?」
「あっこ。」
チトセが指さしたのは社の本殿の屋根の上からほんの少しだけひょっこりのぞく山の頂。
「……登るの?」
「連れてってあげるぞ。」
こっち、と小さく言われて手を取られ、本殿の後ろに連れて行かれる。人気のないその場所でチトセは一回転して狐の姿に戻った。
その姿は目を奪われるほどに美しかった。金糸でも編み込まれているのではないかと思うほどに鮮やかに輝く黄金色に揺蕩う毛並み、腹のあたりには銀とも白金とも間違えそうな、冬の新雪のように透き通った白い毛並み。一抱えほどもあるふさふさした尻尾、手のひらほどの大きさの耳、鋭い獣の目つき、その奥に揺れる深い琥珀色をした瞳、ちょっと湿った黒い鼻、口元から覗く真白い牙、力強い脚、一級に美しい妖狐の姿が、目の前にあった。
「……。」
言葉を失う。そして気づく。人間としての容姿がどんなに幼いからと言っても、チトセはその名の通り、千歳を生きる妖狐だ、その幼さはあくまでも彼らの尺度に合わせた時のもの。彼らは10歳を語れば、人間の世界では480年の時が経つ。そんな悠久の時を生きる狐が、ただの狐であるはずないのだ。
「 乗って。 」
頭の中で直接声がする。一瞬あちらこちらに目をやったが、どうやら目の前の狐らしい。その美しい瞳と目が合った。低く背をかがめたチトセの上に恐る恐る跨ると、そこには確かに生き物の温かさと息遣いがあって、ふわふわした毛皮が内股をくすぐって、なんだかよく晴れた日にしっかりと乾かした乾草の上にでも座っているかのような気分だった。
「 しっかりおいらの毛皮、掴んでほしいんだぞ。 」
「痛くない?」
「 大丈夫、妖狐の毛皮はそんなに柔じゃないんだぞ。 」
目の前で狐の顔がちょっぴり笑った気がして、お面をしっかりとかぶり直した私は、チトセの毛皮をしっかりと掴んだ。
「 いくよ。 」
祭りの喧騒があっという間に風の音にかき消されて流れて行く。高度がぐんと上がったのが良くわかる。冷たい夜風が身体に当たり、目が潤む。気づけば満天の星空が辺りを包んでいて、轟轟と唸る風がお面を吹き飛ばしていきそうになった。思わずチトセの背に顔を埋めれば、甘くて優しい香りの中に、ほんの少しだけ、獣のような粗野な匂いが混ざっていて、それがまたなんだか心地よくて。
「 もうすぐ着くんだぞ。 」
がくん、と高度が下がっていくのが分かる。そして、ふわり、と音も無くチトセが山の頂に降り立った。
「さや、ここならお面をとってもいいんだぞ。」
どうにかこうにかチトセの背から降りた私が浴衣の裾や合わせを整えていると、いつの間にか人型に戻ったチトセがそう言って優しく、柔らかく微笑んだ。
「ここはおいらだけの場所だから、他に誰も来ないんだぞ。だから、お面をとってもさやが人間だってばれないんだぞ。」
そう言われてお面を取る。夜風が気持ちいい。あまり籠った感じはしていなかったが、それでも夜風に顔が晒されると涼しく感じた。お面に区切られていない開けた視界、けれど、暗いせいだろう、目が慣れなくて思うように周りが見えない。
「さや、下を見て欲しいんだぞ。」
チトセが私の手を引いて、切り立った岩肌、崖にも近い場所の淵ギリギリまで連れていく。その下が妙に明るく見えて首を傾げていたが、淵まで来て、私は息を呑んだ。
「綺麗……。」
「だろ?さやにこれを見せてあげたかったんだぞ。お祭りのときしか見られないこの景色。」
眼下に広がるのは、少しだけ盆地になっているように見える、彼らの神社の周り一帯がまるで黄金の池のように輝いている景色。時折弾かれたように色とりどりの光が零れては黄金色の上に散りばめられ、しばらくすると黄金色の中に溶けていく。その繰り返しが織り成す風景はまるで盆地全体が虹色に輝いているようにも見えた。あの光はなに?と聞いたら自分よりももう少し成長した狐達が用意された行燈に術をかけて空に飛ばして弾けさせているのだと言う。散らばった行燈の灯りは術の扱いが巧ければ巧いほど、強い光を保ちながら境内の中を長く漂うのだとか。
「昔は、ここにたくさん金があって、山肌に露出した金や宝石が月明かりを反射してここが満月の夜には虹色に輝いていたって爺様が言ってたぞ。狐達は月明かりの綺麗な夜にはこの窪地を囲む岩の淵に腰かけて景色を楽しんでたらしいぞ。けれど、ある日突然金がなくなって、この辺りが輝くことも無くなってしまったんだと。狐達はそれが寂しくなって、この盆地でお祭りを開くようになったんだぞ。ここがもう一度輝くようにって。いつの間にかその話は薄れて消えてしまったけど、おいらは父様や母様がようく話して聞かせてくれたから覚えてるんだぞ。」
チトセが優しい眼差しでそんな話をする。琥珀色の目の中に、黄金色の光が複雑にキラキラと反射しているのが見えた。その色がほんの少し切ない時に見上げる夕暮れの色に似ていて、私は繋がれたままの手をきゅ、と握った。
「さや?」
「ううん。何でもない。」
お祭りの灯りがキラキラと私の目の中にも反射しているのがなぜかわかる。狐が打ち上げたのだろう、行燈の灯りが名残惜しそうに消えて行くのを私はじっと見つめていた。
「さや。」
呼ばれてチトセを振り仰いだ。
と。
唇に温かなものが触れた。
「……へ?」
「……さや、狐に化かされたような顔してるんだぞ。」
いたずらっぽい目でチトセが笑う。
「そんなに寂しそうな顔をしないでほしいんだぞ?さやは、さっきみたいに笑ってるのが一番いいんだぞ。」
簪を飾る鎖に優しい手つきでチトセが触れながら耳元で囁いた。思ったよりもずっと艶を帯びて深みのある声に不意に胸が高鳴った気がした。「目、キラキラしてて黒曜石みたいなんだぞ。それで笑ってくれればいいのに。」と微笑みながら彼が言う。こちらを見つめてくる目が見慣れない光を帯びて柔らかく光っている。それを見て改めて彼が人の子ではないのだと実感する。誰よりも優しくて、四年に一度だけ会う事の出来る小さな狐の子との逢瀬。不思議と怖くはなかった。
「ね、チトセ。」
「なんだぞ?」
「さっきのもう一回して……?」
チトセに吸いよるように顔を近づければ、しゃらりと、簪の鎖が鳴る音が耳に響いた。甘くて透き通った声でもう一度呼ばれる閉じた瞳の向こう側で空気が甘く動く気配。優しく撫でるように、そして少しだけ啄むように、壊れ物を扱うように丁寧に落とされた接吻は、どこか懐かしくて甘い香りがした。
結婚し、子供を産み、この街に戻ってきた。祭の事を忘れたことはない。大学を卒業すると同時に離れてしばらく帰る事の出来なかったこの街を今、娘の手を引いて私は歩いている。人混みに混ざって流れてくる神楽の音が妙に耳に懐かしく、心地よい。3歳になるばかりの娘は、慣れない人混みに終始驚き、どんぐり眼をこれでもかと言わんばかりに見開いて辺りをもの珍しそうに見渡している。はぐれてしまわないように、その紅葉のような手の平をそっと優しく包み込む。
本殿に参拝する人の列に並びながら境内を進む。懐かしい御神木が目に飛び込んできて、胸が高鳴った気がした。
御神木の辺り、不意に手元から「おかーさん。」と呼ぶ幼い娘の声。どうしたのかと問えば「あそこに誰かいるよ。」と御神木の付け根辺りを指さす。顔を上げた時には神楽の甲高い篠笛の音だけが長く鋭く耳に聞こえてきた。
「そう、お友達かも知れないわね。」
娘と同じ目線に屈んで、目を合わせて微笑んでやる。彼女の瞳の中には祭の屋台の光を反射した輝きが踊っていた。ああ、あと一つ歳を取ったら笛を吹くのだと得意げにしていた、黒曜石のようだと私の瞳を揶揄したあの少年はどうしているのだろうか。
彼にとってはひと夏の恋、私にとっては長い恋。それが恋だったと気づいたのはいつだったのだろう。
それは三十二の夏の事。
夏の夜風に簪の鎖が音を立てて揺れた。
書き始めたのが夏だったのですが、思いのほか長くなり、夏祭りではなく秋祭りの季節になってしまいました。急に寒くなったせいか、浴衣とかの描写をしてると寒そうに思えてしまいます。
最近pixiv様にも作品の投稿を始めさせて頂きました。あちらでは主に二次創作系の作品を掲載させて頂こうと考えていますがこちらの作品の中でお気に入りの物はあちらでも投稿してみようかな、なんて。引き続き皆様に楽しんでいただける作品を書いて行けたらと思っています。長編連載は話のテロップを練り直して、まとまったら続きを書こうと思うのでもうしばしお待ちください……!
今後もどうぞよろしくお願い致します!