002 神=?
羊水に浮かぶ赤ん坊というのを想像してみると良い。温かく、心地よく、この世界のどこよりも安心できる場所で眠る幸福。
イツキはそんな場所にいた。視界は淡桃色につつまれていた。
――どこだここは?
記憶を巡らせる。そして全てを思い出した瞬間、今までの幸福から急転直下、恐怖に神経という神経が凍りついた。死ねなかった! イツキが思ったのはそれだった。植物人間にでもなっただろうか? いや、感覚はある、四肢の反応はある。だが何も見えない。失明したのだろうか? 混乱の極みだった。
――誰か!!
叫ぼうとした瞬間、ばしゃんっと弾ける。
最初に認識したのはやはり音だった。ザワザワ、カサカサと揺れる木々、草葉の音。カカカカカッと虫か、鳥かともかく何かの鳴く音。
鼻が土の匂いを認識した。恐る恐る目を開くと森の中で寝そべっていた。
身を起こし、辺りを見渡すと半径十メートル。そこだけが人工的に刈り取られたように短い芝の体をなしていた。
「あー、あー、あー」
呆然と座り込んでいたイツキだったが、立ち上がり体を確認し、発声練習地味た事を繰り返す。一見、冷静なように見えるが、混迷を脱しきれてはいない。教育係だった先輩からの格言、それこそ性根の奥まで染み付く程に繰り返された『窮地の時こそ、現状確認、情報収集を怠るな』を実行しているに過ぎない。トラブルが起きた時、感情を置いてそれを実行する事が問題解決の近道であると、イツキは経験で知っていた。
やがて周りの様子を知るにつれ混乱は収まり、どうにか行動を起こせる程度に回復したイツキは、思わず声に出して呟く。
「ありえない」
鬱蒼とした木々、綿密に折り重なる枝葉に遮られ日光が届かない所為か、枯れ葉が地面を覆っていた。イツキが存在する場所だけがぽっかりと木々が避けるように空間が空いており、青い空が見えた。
衝動的な消滅願望は嘘のように消え去っており、今はとりあえずこの状況をどうにかすべきだという意識に繋がった。一度死ぬことで昇華したのかもしれない。
「入るしかないよな……」
あえて声に出したのはそうするしかないと自分に言い聞かすためでもあった。後方は森、左は森、右も森。前方には――石造りの遺跡が存在していた。
真四角に切り取られた一メートル程の石を積み上げ作られたそれは、キリスト教や、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、イツキの知るありとあらゆる宗教施設とは違っていたが、それが神を祀る施設だという事をイツキは知っていた。
イツキの生前の話に戻る。仕事と自宅と病院、それを往復するような人生だったが、イツキにも趣味と呼べるものがあった。
『世界創世記』
それはテレビゲームだった。基本、イツキという男は幼い頃から聞き分けの良い人間だった。食べ物の好き嫌いや、おもちゃをねだって母親を困らす事はなかった。幼心に母が苦労しているのを知っていたからだ。
それでも、人並みの欲求はあった。欲しい物だってあった。当時流行っていたテレビゲーム。クラスの皆がこぞってやり始めたそれがどうしても欲しかった。それを持っている友人はクラスのヒーローであったし、授業が終われば皆でその子の家に行った。もちろんイツキもそれに混じっていた。
だが、「誰かの」ではなく、「自分の」が欲しかった。
初めて癇癪を起こした。言ってはいけない言葉を母親に投げつけた。そして打たれた。更に言い返し、更に打たれた。母は強かった。親子喧嘩と呼べるものはそれ一回きりだったが、喧嘩の勝者は間違いなく、母だった。大人げない母でもあった。
だが、それからしばらくして、職場の同僚から母親が譲り受けて持ち帰ってきたのがそのゲームとゲーム機だった。当時流行っていたゲーム機からは二世代も古く、欲しかったモノではなかったが嬉しかった。
繰り返しやった。実は今でも起動して遊んでいる。それこそ二十年以上の付き合いとなるイツキの宝物だ。
そのゲームに登場する『ほこら』が目の前のソレである。
細かなドット絵で表現されていた『ほこら』を現実に持ってきたならばこれになるだろうと、確信を持つ程には似ていた。
『ほこら』の高さは三メートル程。長方形の入り口は大人が立って入れる大きさで、奥は薄暗くよく見えない。一歩踏み出し、中に入ったとたん、ぱっと灯りが灯る。
幾何学模様がミミズのように壁に走り、それが白く発光していた。イツキは恐る恐るその模様に指を這わす。ツルリとしたゴムのような触感を指先に感じた。
祭壇。明かり取りの窓もなく――壁が光っているから不要だったが――飾りもなく、真四角の部屋の中心に置かれた黒く、材質不明の台座をそう呼ぶこととする。
『世界創世記』というゲームでは、それが重要な意味を持っていた。
期待を込め、イツキはそれにゆっくりと手をかざす。
何も起こらない。
「いや、それはないだろ!」
少しばかり格好をつけた自分が恥ずかしくなり、思わず叫んだ。室内に声がハウリングする。
振り返り、入ってきた入り口、その向こうに見える森へと視線を移す。
――森に入るしかないのかと。
どうなっているかわからない、迷うかもしれない森の中で、命を繋いで、何か文化的なものに出会えるだろうか? 獣に食われたり、飢えて苦しんで死ぬのは嫌だなと思った。ぐぅーと情けない腹の音がなった。
今ここは昼だが、イツキの感覚では深夜一時か二時だ。昼飯を食べてからそれ以降何も口にしていない。無性に腹が減っていた。喉も耐え切れない程ではないが乾いていた。
身に着けているものはワイシャツ、ネクタイ、スーツの上下、腕時計と、家の鍵、ハンカチ――会社用のビジネスバッグはなかった。あったとしてもスマホと筆記用具、財布しか入っていないものが役に立つとは思えない。武器になりうるものはない。
どうするか、もう一度『ほこら』の中をぐるりと見渡す。どこをどう見渡しても、祭壇があるっきりで、武器はおろか、食糧なんてものはみあたらない。
いや、待てよと一つの可能性を思いつく。
『世界創世記』では、起動するとプロローグが開始され、そこでお約束となる文言が流れるのだ。
これで本当に何も起こらなかったら、森で食糧調達だと覚悟を決め、こほんと一つ咳をして再び祭壇に手をかざす。
「あーあー、えー……始めに言葉あり、幾星霜を経て世界は成った、我は創りし者、イツキなり」
いい年をして何をやってるんだと、思わず頭を抱えて座り込みたくなったが、そんな暇もなく、台座が力を取り戻すかのように青白い光を放つ。二重三重の花弁を模したような独特の文様が壁に映しだされ、クルクルと巡り、だんだんと閉じていく。最後は蕾のようなホログラムが浮かび上がり再び花開く。
そこから現れたのはコンソール画面だった。
見たことのある項目が並ぶ。画面の大半を占めるのは地図だ。
『世界創世記』というゲームはいわゆる箱庭ゲーと呼ばれる部類のゲームだ。コストを消費し、アクションを起こす。簡単に言えばそれを繰り返すだけ。
だが、いくら宝物とはいえ、単純なゲームを二十年もましてや大人になっても遊び続ける事はできない。『始めに言葉あり』それが示すように、このゲームの容量の大半を占めるのはテキストだった。当時弱小メーカーであったゲームの制作会社には有名デザイナーにグラフィックを依頼する資金もなければ、有名作曲家に楽曲を依頼するような資金もなかった。あったのはゲームに対する情熱とゲームデザイナーの想像力だけだった。
それが全てテキストとなって存在している。
多岐に渡る選択肢の先に、数多の物語が存在していた。世界観を表現するに足る膨大なテキストは、ユーザーの想像力を掻き立て、ユーザーの数だけの世界を創った。
分かりやすい萌えキャラも、英雄譚も、結末もない。投げやりではない。ギリギリの淵で全てはユーザーに任せられるそんな物語達。『神』となったユーザーは世界へ望むべく未来へ、可能性を与え見守る。
例えばこうだ――。
『金の時代は終焉を迎え、銀は錆つき、銅も失われた。多種多様な種族は数を減らし滅びを待つばかり。神や運命を問わん』
嘆願という通知欄に記載された文言は、この世界で誰かが神に捧げた祈りである。少なくとも説明書にはそう記載されていた。
「嘘だろ」
長年連れ添ったゲームシステムが目の前に実在するという興奮に、しばし空腹も状況も忘れコンソールを触っていたイツキだったがその数値に目を見開いた。
――信仰心マイナス三◯◯
このゲームのコストは『信仰心』だ。何をするにも信仰心が必要となる。豊穣、戦、愛、はたや邪悪であっても良い。ともかく信仰心が上がる行いをする事でコストは溜まる。
マイナス三◯◯。それが現在の信仰心だ。
何ができるか? という問題ではない。バグってると言っても良い。マイナスなんて数値、ゲーム上ありえない数値だった。
慌ててイツキは地図を操作する。知的生命体の存在する地域、紛争が起きている地域、食糧が足りない地域、それが次々とスライド状に表示される。どれもが真っ赤であった。赤という事はすなわち危険だという事だ。安易に森に踏み込まなくて良かったと胸を撫で下ろす。
ともかく、なぜ己がここにいるかは分からないが、信仰心マイナス三◯◯の酷い状態でもシステムが己の知っている通りであればできる事はある。
奇跡と書かれた欄をタップ、信仰心が足りず行えない項目は灰色で表示されている。その中で白く表示されている奇跡、『清貧の糧』、『清貧の盃』。数少ないコスト0で行使できる奇跡だ。
効果は微量ながら対象地域の食糧と水不足を回復する事ができるという代物。それを本来、ゲームでは存在しなかった対象地域「ほこら」に行使する。
とたん空中に光が走ったかと思うと、コッペパンと、水がなみなみと注がれた木のジョッキが現れた。それらはしばらく宙に浮いていたが、イツキが触れたとたん、忘れていた重力を思い出したかのように落ちる。
慌てて手を伸ばし、取り落とすことを免れる。
左手にコッペパン、右手に木のジョッキ。なんともマヌケな神であったが、これからどうするかを考えるよりも先に、ぐぅーという腹の音に急かされ、コッペパンを齧った。凄くまずかった。