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ワームの白紙に近い資料を読み終えたころには、日が暮れ始めていた。仕事は明日に持ち越しだ。
日の光が届かなくなった暗闇では、魔物はより活動的になり日中よりもその脅威を増す。私も夜間の活動は極力控え、体を休めて次の日の備えとしていた。家へ帰る前に隣のパブで簡単に夕食をとろうと、一階に向かって階段を下りているときのことだ。
二階で壊れんばかりに打ち開かれたドアの音とともに、マスター・キャメロンが血相を変えて転がり出てくる。その顔は真っ青で、なにか尋常でない事が起こったのだと私は悟った。
一体、どうしたんですか。そう彼に尋ねようとしたとき、私の脳裡に恐ろしいまでの思念が過った。
(助けてくれ…)(嫌だ…)
(死にたくない…)
背筋が凍りつくような感覚に、私は呆然とその場に立ち尽くした。近傍の喧騒が遠のき、果てのない叫喚が届き続ける。それは悲鳴のようであり、哀しみと苦痛に満ちていた。
「……なに、これ」
(魔物)(フェイ)(でかい)
(急いで)
精霊の声が次々と浮かんでいく。無数の精霊が私を呼んでいるのが分かった。
縫い付けられたように動かない体に鞭打って、階段を下りることを諦めた私は二階の踊り場から飛び降りると、ギルドを飛び出す。
「ハヤテ!」
状況を察したハヤテは既に助走を始め、私も駆け出しながら彼の背に飛び乗った。その両翼を力強くはためかせて大空へと飛翔する。空には道も障害物もないので、最短経路で目的地に向かうことが可能だ。しかしながら、精霊たちが示す方向は魔の森とは真逆であった。それはつまり、人里に魔物が襲来したことを意味している。
(確か……あっちには王都があったはず)
最悪の可能性として、アーシブルの王都アーバンも視野に入れる。私は焦りを募らせるが、ハヤテは冷静に状況を判断した。
(ラセーヌだとは考えられんか)
「ラセーヌの森」は、魔の森からアーシブルの中央にある王都に向かって細く伸びる森だ。魔の森と地続きであるが魔物はおらず、自然の恵みを一心に人々に分け与える存在だ。季節が巡れば樹々はその実を落とし、また流れ出る水は人々を潤す。その下流で、王都が栄えているのである。
王都へと続く流域には数々の街が栄え、人が集まることで農業や商業が大きく発展している。アーシブルの中心を担っていると言っても過言ではない。
ハヤテの言うように、魔物が出現した地がラセーヌの森であるなら良いのだが。
私がいた“蒼穹の魂“の拠点があるのは北東部に位置するマイヤーズ領のなかでも魔の森に近い場所だ。ラセーヌまでは南西に向かって百キロ近く、ハヤテが最速で翔けても直ぐにはたどり着けない。
耳元で風が唸りを上げて過ぎ去っていく。耳鳴りが警鐘のように響き、歯が浮いたように感じられる。振り落とされないようハヤテのたてがみにしがみ付きながら、頭の中は疑問で渦巻く。そして、先ほどのあの声。思い出すだけでも胸が苦しくなる。
私の元へ届くのは精霊の声が多数を占めるが、人の声もあった。哀しみや喜びだったり、時には怨念だったりと様々だが、それが強い思念であればあるほど拾いやすい。
あの声の持ち主が街の人々でないことを、心の底からから願った。力ない人々が魔物という暴力に蹂躙されるのは見たくない。
「私の本分は魔物を倒すこと、人を助けることじゃない」
必死にそう唱えて、心を落ち着かせる。まだ着かないのか、いつもは駆られることのない焦燥感に苛まれる。ギリギリと歯を噛みしめた。
「だから…嫌なんだ」
魔物を狩って生きる暮らしの中で、命の重みというものを嫌というほど体感してきた。
時は遡り、私が駆け出しの冒険者になって直ぐの頃。ハヤテと出会う少し前。
私を”蒼穹の魂”にスカウトしたのはマスター・キャメロンだったが、冒険者としてのいろはを教えてくれた人がいた。その人はジャック・ハサンという名で、膝下の革靴に濃紺のジャケットをいつも着ていた。私のこの格好も彼がコーディネートしたもので、並んで歩けば年の離れた兄弟か、あるいは親子のように見えた。
『お前、見かけと言葉遣いがチグハグだぞ』
といって、貴族だった頃よりも少しは柔らかいが、堅苦しい言葉を格好と相応しいものにしてくれたのも彼だ。そしてジャックはよく笑う、愉快な人だった。慣れない戦いで疲労困ぱいし産まれたての子鹿のようにフラフラしていた私を見て、声を上げて笑っていたものだ。
しかし彼は、もうこの世にはいない。私のせいで、私が自分の力を過信して、彼の言うことも聞かず一人で突っ走ったせいで、彼は命を落とした。
思っていた以上に精霊魔法を上手く使いこなすことができ、C級の魔物をも簡単に倒すことができた私は、ジャックの反対を押し切ってより奥地へと潜っていった。だが、あるとき、運悪くS級ヒュドラと遭遇してしまったのだ。
あの頃の私は、S級と互角に渡り合うどころか、逃げ出すことすらできなかった。禍々しい魔力を纏って迫りくるヒュドラに、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった私は死を覚悟した。
だが、「逃げろ」というジャックの声が耳を掠め、恐怖に瞑った瞼を開いたとき、私の目に飛び込んできたのはヒュドラの巨体に剣を突き立て散っていったジャックの姿だった。
それからのことは、よく覚えていない。我武者羅に精霊魔法を撃った気もするし、弾かれたように逃げ出した気もする。ただ、胸の中を渦巻いていた絶望感と喪失感だけは、心に染みついて離れない。
思えばそれからだった。誰かと共に行動することが怖くなって、一人に拘るようになったのは。パーティーの誘いや討伐作戦の招集は全て断ってきた。
「私のせいでジャックは死んだ」
その自責という殻に閉じこもって、何かに追われるように魔物を駆逐していく日々を過ごしていた私は、次第に周囲から孤立していく。
だが、私は気に留めなかった。もう誰かが傷つくのは見たくない。一人なら、失態を犯したときに自分が責任を被るだけでいい。私には、他でもない精霊たちが付いている。一人でいることは全く苦にならなかった。
(フェイ、近いぞ……)
ハヤテの声に、私は現実へと引き戻される。今、私が解決するべき問題は魔物を倒すことだ。どうやら魔物は人里を襲ったわけではなく、森の中腹に鎮座しているようだ。
一先ず安堵するも精霊が私を呼ぶ声が勢いを増しており、魔物が強力な魔力を持っていることはまず間違いない。
心配なのは、出征しているだろう王立討伐騎士団だった。これほどの魔力を持つ魔物に対して、彼らが持ち堪えてくれていればいいが。
私は剣を握りしめ、到着をただひたすらに待った。