5
サムロの指差した波止場へ向かうと、停泊していたのはたったの五隻だけだった。その中から鷹の紋章を探すのは容易で、一隻ずつ確認していけばすぐに見つかった。
二羽の鷹が描かれた旗を掲げていた船は五隻の中で最も大きな船で、荷物の船積みを始めていた。
「すみません、これはアーシブルへ出航される船でしょうか」
橋板を往復しながら荷物を載せていく初老の男に声をかける。彼はその手を止めて、額の汗を拭った。
「ああ、そうだが。乗って行きたいってんなら、金を払いな」
「勿論です。いくらお支払いすれば?」
老人は一瞬考え込むと、「金貨三枚」と言った。貨幣価値が分からない私は、果たしてそれが適正な値段なのか、それとも吹っかけられているのか判断のしようがない。だが、人の悪巧を見抜くのは十八番だった。
この場合は、後者だ。
「失礼ですが、それはアーシブルへ渡るのに相応な価格でしょうか?」
彼は小さく肩を竦めて「悪かった悪かった」と笑い、指を五本立てる。
「銀貨五枚でいい。明日の正午に出立だ。その次は二週間後になっちまうから、遅れるんじゃねぇぞ」
銀貨五枚の価値がわからないことに変わりがないが、明日にもアーシブルへ向かえることは不幸中の幸いだった。
それから、町を歩きつつ人々の生活様式や物価を探っていき、だいたいの貨幣価値を掴んでいく。パン一つが銅貨一枚で、指定された銀貨五枚は銅貨二百五十枚に相当した。一か月分の生活費といったところだろうか。ずいぶんと高額な渡航費だが、他と比べられない私は黙って従うしかない。それに、お金は予想以上に手に入った。
宝石商は領主の館に近い場所にあったが、これまで屋敷を訪れた商人から好きな装飾品を選び、支払いは使用人が行なっていたため、宝石の価値はわかるが値段がわからない。
だから、最初は客を装って陳列されている商品の値段を見極め、折衝に踏み切る。
交渉術は教育の一環として否応なしに学ばされた。要は、相手に隙を与えず自分のペースに乗せてしまえばいい。売買交渉は初めてだったが、靴にはめられていた一つのエメラルドだけで銀貨九十枚に当たる金貨九枚の金が手に入ったのだ。
靴の小さな宝石一つだけで、人々が一年半年近く食べていける金額がしたことに、私は眩暈を感じた。貴族が国民の困窮をおざなりにしてどれほど贅を凝らしてきたのか、目前に突き付けられたようだった。
途中でサムロが拾ってくれたとはいえ、一日中歩き通しの体はやはり限界を迎えていた。
それに加えて、領主の居城に近い地域から出た途端に、幾度となく摺りや強盗の的にされるものだから、精霊たちの(フェイ危ない!)(狙ってる!)という警鐘が鳴り続いた。
黒のマントは地味だが上質な布地だし、この艶やかなプラチナブロンドは育ちの良さを言いふらしているようなものなので、標的にされても仕方がない。だが、それらを躱して進むのは随分と疲れる。
ふと鼻孔をくすぐる香ばしい匂いにお腹が小さく鳴り、空腹であることを自覚した。思い返せば、昨日の朝から何も食べていない。匂いの元を辿っていくと、「宿場・食事処」と掲げられた看板が目に留まる。なんとも捻りのない名前だが、食事が出来て泊まれることは一目瞭然だ。
開き扉になっている入口から中の様子を窺う。三十ほどある席はすべて空いていて、カウンターの奥に中年の女性が暇そうに頬杖をついていた。多分この店の女将さんだろう。彼女は私の気配を察したのか、はっとしたように「いらっしゃい」といった。
「一晩泊まることはできますでしょうか。あの、できれば食事も」
彼女はカウンターから出てきて、仁王立ちで佇む。私の姿を上から下までじっくり見た後に、訝しげな表情を浮かべた。
「あんたが泊まるのかい?」
その顔には、明らかに「あんたのようなお嬢様は、もっと良い所を選びな」と書いてある。私もそうしたいところだが、高級宿屋は立場が明確な客しか相手にしない。それに、ご機嫌取りに四六時中付き纏われて、あれこれ詮索されるのが関の山だ。だからこそ、ここを選んだのだ。
無言で頷く私に、女将さんは肩を竦めて宿泊名簿表を差し出した。
「食事は一食銅貨五枚、宿泊は一晩銀貨三枚さ」
「銀貨、三枚?」
勢いあまって彼女の言葉を鸚鵡返しにしてしまったが、一泊銀貨三枚はあまりにも法外な高額さだ。
また、あわよくば騙し取ってやろうという魂胆か、と辟易とする。食事と比べて宿泊の値段が異常であることは気付きそうなものだが、疲労のせいで思考が悪いほうへと引きずられていき、上手く物事を考えることが出来なかったのだ。
「待ちなって、そんな怖い顔しないでおくれ。アイシンの条例で、宿泊客からは銀貨二枚と銅貨を三十枚徴収するよう定められてるんだよ。あんた、アイシンは初めてかい?」
必死になって弁明する女将さんの目に嘘はない。
トーマルス子爵は、本気でアイシンを搾取の対象としか思っていないようだ。
滞在費にこれほどの税をかけたなら、誰もアイシンへ留まろうとは思わない。サムロの言う人が減っていくというのは、住民のみならず来訪者のことも指していたのだ。
私は懐から銀貨三枚と銅貨五枚を取り出し、黙って女将さんに渡した。礼儀を欠いた態度を取ったにも関わらず、彼女は気に留めていないようだった。
「昼食の残りでよければ直ぐに用意できるけど、どうするかい?」
「お願いします」
即答で答えた私に苦笑いしながら、彼女は良い匂いの漂う厨房へと向かっていく。
出された食事は肉と野菜のシチューと硬いパン二つという質素なもので、次々と料理が給仕されていく貴族の食生活に浸りきっていた私には、少しだけ味気なく感じてしまう。だが、テーブルマナーも他人の目も気にしなくてよいと思うと、それだけで心が楽だった。
まさに空腹は何よりの調味料で、すきっ腹を抱えていた私はあっという間に料理を平らげてしまう。食欲を満たした私が次に欲したのは睡眠で、勧められた夕食を断って部屋で休むことにした。
案内されたのはベッドとサイドテールで手狭になるほど小さな部屋だったが、雨風が凌げて横になれる場所だったらどこでもいい。
剣を壁に立てかけると、重たいマントを脱ぐのも忘れてベッドへ倒れ込む。少しだけ横になるつもりが、予想よりも疲労を抱えていた身体は眠気に抗えず、瞬く間に深い眠りへと落ちていった。
(フェイ起きて!)(フェイを狙ってる)(こっちに来るよ)
日の出の時刻が近づく明け方のころ、私は精霊たちの騒めく声で目を覚ました。誰かが私に危害を与える目的で近づくと、精霊たちは真っ先に反応してくれる。こういった事態はとりわけ珍しい事ではないので、私は慌てずベッドから上体を起こした。オスローゼ公爵やユージル王子からの追手かと一瞬考えたが、その可能性をすぐに捨て去る。
(夜明けに襲撃するなんて、愚かだわ)
大抵、暗殺を目論見る襲撃犯は夜中に行動を起こすことが多い。その姿を闇に紛れ込ませられるし、何より発覚するまで時間がかかる。薄暗いこの時間帯では早起きした誰かに姿を見られてしまう可能性が高く、標的の眠りも浅い。感付かれてしまう事だってあるだろう。
私はこの襲撃犯が手練れではない、つまり彼らが差し向けた者ではないと判断し、いつものように扉の前の守衛に声を掛けようとしたところで、言葉を詰まらせた。
(そうだわ。私は、もう……)
エレイン・オスローゼのように誰かに守ってもらうことは、もうできない。降りかかる危険は自分で振り払わなければならないのだ。
身分を捨てたというのは、そういう事だった。
襲撃犯が扉の前まで迫っている気配がした。素人なのか、足音を隠そうともしないので居場所がバレバレだ。
だがそれは、もう逃げようがないという事実を突きつけられているも同然だった。深い眠りに落ちていた私は、精霊たちの警鐘に長い間気が付かなかったに違いない。
室内に視線を巡らせ、壁に立て掛けてあった黒い剣を手に取る。私が持っている唯一の武器だ。
(冷静になるのよ、フェイ。私なら出来るわ、やらなきゃならないの)
相手は私が寝ているものだと思って油断しているはずだ。扉を開けたその一瞬が最大の好機だとみる。あとは、このまま柄を握って鞘から引き抜いて、刀身を襲撃犯に向けて構えるだけ。
それなのに、あれほど軽いと思った剣が、両手が震えてしまうほど重い。
……違う、私の手が震えているんだわ
鉄を凌駕する硬度を持つミスリルの剣を抜いて、相手に向けて、それでどうする。そう、身を守るためには、彼らに斬りかかっていかなければならない。それは時に命を奪う行為だ。
魔物と闘う覚悟はしていた。だが、人を殺す覚悟なんてできそうにない。
そうしている間に、カチャリ、と扉のノブがゆっくりと回された。
……今だ、今しかチャンスはない!
(止まって、お願いよ……)
私の意思に反して柄を握りしめる手はカタカタ震え続ける。
いくら自分に言い聞かせても、体は言うことを聞かない。手の震えも乾いた喉も、体が別の誰かの物になってしまったかのようだ。
キィと音を立てて開かれた扉から現れたのは、薄汚い恰好をした二人組の男だった。
「っ、なんだ。起きてるじゃねぇかよ」
「そりゃあ運が悪かったな、お嬢様。眠りこけてりゃあ、気付かない間に身包み剥がされるだけで済んだのによぉ」
ニタリと笑う男たちは歪んだ笑みを浮かべながら、部屋に足を踏み入れる。私が握っている剣はお飾りとでも思ったのか、気にも留めなかった。
彼らの目的は強盗のようだった。昨日宝石を売っているところを見られでもしたのか、身形の良い女性が一人で行動している所に付け込もうとしたのか。だが、彼らは私に考える暇など与えてくれなかった。
「悪く思わないでくれよ」
いつの間にか距離を縮めていた男は、凍り付いたまま動かない私の口元を押さえて悲鳴が漏れないようにすると、手に持っていた刃物を振りかざした。
(フェイ!)(フェイ危ない!)
精霊の警鐘は今までにないほど大きさを増す。異様なほどゆっくりと迫りくる切っ先を視界に捉えていながらも、体は凍り付いたように動かない。このまま何もしなければ、刃は私の喉元を切り裂くだろう。そして容赦なく私の命は奪われるのだ。
……こんなところで、終わるのかしら
エレインを捨て、新たにフェイとして生きようというところで、何も成していないまま一生を終える。強盗なんて私利私欲を満たすだけの行為、そんな理不尽に屈して死ぬなんて。私は、本当にそれでいいのだろうか。
(……フェイ)
低く落ち着いた声が、私の名前を呼んだ気がした。
時おり、私の名前を呼ぶその声が聞こえることがあった。身が引き裂かれそうなほど悲しい時、盛られた毒に侵されて苦しんでいる時、ふと感じた孤独に打ちひしがれそうな時……その始まりは、私がフェイという名前を貰った時だった。
その声は何時だって、私の心を安らげる。
静かな温かさが心に染み渡り、凍りついた体を溶かしていった。嘘のように手の震えが止まり、黒剣の馴染んだ感覚が蘇る。
考えている時間は無い。剣を鞘から抜き放つと同時に、反射的に体を横に捻った。
私の前で無防備に刃物を振りかざしていた男の懐を斬りつけたはずだった。男も斬られたことを自覚したのか懐を押さえたが、傷口は無い。茫然自失としたまま動かなくなった隙をついて、私は壁際へと逃れた。
(何が鉄よりも硬いミスリルよ。切ることすらできないじゃない)
我知らず悪態をついてしまう。正直なところ、このミスリル剣の実力は未知数だった。刃は確かに当たったはずなのに、手応えすら感じなかったのだ。実際に男には一つの傷もない。だが、精霊の言うことに虚偽誇張が無いことは絶対の事実だ。
「テメェ、何しやがった!」
その矛盾に戸惑っている間に、もう一人の男が怒声をあげながら足音荒く詰め寄る。その男も刃物を持っており、壁際に留まったままの私は退路は断たれてしまった。
守衛や騎士らの見様見真似で剣を構えるが、所詮は素人だ。完全に及び腰だった。
焦点の定まらない切っ先に、男は鼻を鳴らした。
「はっ。手が震えてるぜ、お嬢ちゃん」
刃物を持つのとは反対の手を伸ばす男に、先ほど口を押さえつけられた時の不快感と恐怖を思い出して、ぞわりと背筋が粟立つ。
「っ、来ないで!」
もはや自暴自棄だった。剣筋など捨て置いて右に左に振り回すが、やはり何の手応えも感じない。刃が届いているのかすら、定かではなかった。
それにも関わらず、狙うべきところ、男の隙だけは手に取るように分かってしまう。無防備に伸ばされた左腕、がら空きの胴。刃物を持つ手は垂れ下がっており、首を狙われても防ぎきれないだろう。頭の片隅で冷静に分析している自分に驚きながらも、相手から目を離さなかった。
男は動きを止め、ぐっと眉根を寄せる。右腕に違和感があるのか、そこを凝視した。
男たちの意識が逸れた絶好の機会だった。逃げるなら今しかない。
(窓からなら……)
部屋は三階だが、それくらいの高さなら風の精霊の力を借りればどうとでもなる。
外の様子を伺おうと、窓を後目にした瞬間だった。
ゴトン、と何かが音を立てて落ちた。
私はその音の正体が分からずに、視線を彷徨わせる。そして、視線が床へと向かった時、私はそこにあってはならないモノを見た。見てしまった。
ついさっき、私を押さえつけようと伸ばされた、あの……
「いぎゃああああああ」
男の絶叫が響き渡り、鮮血がみるみるうちに広がっていく。
その咆吼に煽られて私も叫び出しそうになるが、恐怖で引き攣った喉は乾いた音を上げるだけだった。
(なに、なにが起こったのよ……)
恐怖と混乱でぐちゃぐちゃになった頭はまともに働かない。手から零れ落ちた黒剣が床に深々と突き刺さっても、しばらく気が付かないほど思考が停止していた。
……剣が、深々と突き刺さった?
ふと、自分が思い浮かべた事に疑問を覚える。慌てて手を離してしまった剣へと目を向ければ、見えているのは柄の部分だけだった。剣先は床をどこまでも突き破り、横に伸びた鍔が引っかかっている状態だったのだ。
(でもすっごく硬い)(よく切れるよ)
精霊の言葉が脳裏を過ぎる。確かに精霊はこう言っていたが、床をバターのように切ってしまうほどだと誰が予想できようか。私はただただ、慄然として佇むばかりだった。
男は、痛みのあまり支離滅裂な言葉を叫びながら、身体をふらつかせる。そして、後ろに大きくたたらを踏んだことで、未だに固まったままのもう一人の男へとぶつかった。
生気を無くした男の上半身が、崩れ落ちた。
男の悲鳴と、噎せ返るような錆びた鉄の臭いが室内に充満する。
猛烈な嘔吐感に襲われて私は手の平で口を覆った。一瞬だけ意識が遠のくが、口の中に広がった酸い苦さによって現実へと引き戻される。
(私がこれを、やったの?私、人を……)
襲われたから立ち向かい、死にたくないから抵抗した。それだけのはずだった。
こんな惨いことをしたかった訳ではない。武器の性能を見誤った私は、必要以上に人を傷つけてしまった。止むことの無い男の悲鳴が、私の精神を蝕んでいく。
耳を塞げば苦痛は少しだけ和らぎ、このまま意識を失ってしまえばどれだけ楽だろうと目を閉じかけたとき、体が勢いよく後ろへ引き寄せられる。
気付いた時には、私は木片とともに空中を漂っていた。
大きく翻る黒いマントの向こうに、大穴の開いた部屋がだんだんと遠ざかっていくのを見て、風の精霊があの部屋から連れ出してくれたのだと悟る。体の奥底から湧き上がるような浮遊感には恐怖を覚えたが、そちらに気を取られている間に、混乱状態にあった思考回路は落ち着いていった。
落下速度を緩めながら、波止場に近い裏路地に降り立つ。だが、震える足では思うように立っていられず、ぺたりと地面に座り込んだ。
蹲った私の膝の上に、鞘に収まった黒剣がポトンと落とされる。鞘に収まっている間は大人しいが、抜き放たれた瞬間から見紛うほどの鋭利さを発揮する剣。扱い方次第で、それは理不尽な暴力になってしまうことを、私は身をもって知った。
(もう二度と人には向けないわ)
あんな思いをするのは、もう御免だった。
これは対人戦で使っていい代物ではない。魔物という脅威に抗うときにこそ、その真価を発揮することだろう。
項垂れた私の視界の端に、薄暗い中でも鈍い光を放つプラチナブロンドが映った。
「これも、今の私には過ぎたものね」
頬にかかる髪をひと房掬い上げて、目を細める。
柔らかく美しい髪は、貴族でのステータスの一つだった。髪も身嗜みも所作も、他を凌駕する美しさを提示し続けることが使命とされ続けてきたが、もう要らないものだ。フェイ・コンバーテに必要なのは気品でも美しさでもなく、「心身の強さ」なのだから。
まだ自分に残っていた弱さを、ここハウゼントへと置いていこう。
ざっ、ざっ、と大雑把に掴んでは切り落とし、地面へと落としていく。肩に付かないほどの長さで手を止めたが、服の上や地面には薄い金の髪が散らばって煌めいていた。
短くなった感触を確かめるように、何度か頭を振る。驚くほどの軽さだ。
ふと、目を細めるほど眩い光が顔に差し掛かる。路地の向こうには果てしない海が広がっており、水平線の向こうから朝日が昇り始めたのだ。
包み込むようなその柔らかい温かさは、あの声とよく似ていた。心の蟠りを取り去って、新たな世界へ踏み出す一歩を導いてくれる。
出航は、今日の正午丁度。鷲の紋章が掲げられた船が、私を次の舞台へと運ぶ。アーシブルまで約二日。
ここから、私の冒険譚は始まった。