無駄な13年間との決別
三度目の事故のきっかけは、隣接コースを担当する澤田という男の身勝手な振る舞いでした。
その日、澤田は「件数が多い」と騒ぎ立て、そのしわ寄せとして数件の配送が私に押し付けられたのです。
私は、何度か行ったことのある病院の売店へと向かいましたが到着した病院内は異様な雰囲気に包まれていました。院内事件か事故があったらしく、パトカーや覆面パトカーが何台も停められ、現場は騒然としていたのです。
納品が終えトラックに戻ると、覆面パトカーが隙間もなく後ろに止められていました。
バックもできない渋滞に巻き込まれていました。
その慣れない混乱の中、前進するしかなかった私は、アクセルを踏んだ瞬間に建物の庇にアルミ箱上部を激突させてしまいました。
所長に事情を説明しても「嘘だ」と一蹴され会話は成立しませんでした。
この事故が全国広報に載り配布、かつての支店の者が私を特定し、新しい所長らへ自衛官時代の噂を流し偏見は一気に加速し、社内で露骨に卑怯な態度をされ嘘まみれの悪態が始まったと確信しています。
私に気づかれないよう奇声をあげる者や卑劣な奴らが現れ始めました。
特に部長と集荷係の土田は私から言えば、最低な人間でした。
部長ははっきりと声に私に言いました。
「ドライバーの食事など知らん、誰が運ぼうがどうでもいいんだよ。その日荷物がホームから消えればいいだけ、たった。それだけの話だ。」
一方の土田は、かつて私が過酷な労働の中で激昂した因縁を根に持ち、これまで私がタイムカードを押した後も、電話が鳴り誰も行かないから言って欲しいと、何度も会社に戻った事もあった。
それをあいつは不真面目だと嘘で塗り替え、私を貶めました。
サラン所長は
「お前を信頼している奴などどこにもおらん。そのうちに近所でも、あそこの父ちゃんは変な人だから遊んじゃダメだと言われ、お前の子供らも嫌われるぞ」
笑いながら大声で話しました。
家族まで引き合いに出した卑怯な侮辱。
私はもう怒りの涙を抑えることができなかった。
私はこの男の目ん玉を叩き潰したい衝動を必死で抑えこらえました。
こいつらは間違いなくあの噂を聞いて、私を追い詰めようとしているのだと確信しました。
辞める覚悟はしていたが再就職を決めてからと考えていましたが、もう限界でした。
翌日、辞表を出しました。
嫌がらせは最後まで続きました。ある日、また所長から呼ばれ、身に覚えのない叱責を受けたのです。
「お前、首都高でえらい飛ばしとったらしいのぉ。何度も無茶な割り込みもしとったらしいじゃないか」
デタラメを言ったのは誰か尋ねると、首都高で私の後ろを走っていた澤田が一部始終を見ていたと報告したというのです。またしてもハメられた。
所長の怒鳴り声は、パワハラを挟みながらまた一時間以上も続きました。
翌朝、私は怒りを抑えながら仕事を終え、澤田に電話をしました。
「澤田! お前、ありもしない話をするな! あんたはやはり皆が裏で言う通りの、自分さえ良ければいい最低な人間だ。お前はクズ以下だ!」
怒鳴るように電話を切り、会社へ戻りました。澤田が向かってくるならやってやる。
暴力騒動になれば私を擁護する者などもういない、圧倒的に不利な状況になることは分かっていましたが、構わないという覚悟でした。しかし、澤田は来ませんでした。
社内での私に対する社長の暴言は全て録音していました。
同僚の石井に「会話はすべて録音した。裁判を起こす訴訟の証人になってくれ」と告げました。
すると、それまで無視していた所長が急に挨拶をしてくるようになりました。石井が録音のことを告げ口したのでしょう。
もう私に見えるのは絶望と怒りだけでした。
酒を煽り、家族の寝顔を見つめながら、かつて一人で上京した夜を思い出しました。
あの時はいなかった「三人の尊い命」が、今の私にはいる。夫として、親としての責任がある。
震えを抑え、自分に言い聞かせました。
「何とかしていかなければならない」と。
出勤最終日、全社員へ一斉メールを送りました。
「無駄な13年間を過ごした。さようなら」
退職後、裁判を協力してほしいとお願いした石井に電話をかけましたが、全く出なくなりました。
録音を手に弁護士を訪ねると「必ず勝訴する」と言われましたが、弁護士の先生から時間と費用を継ぎ、安いよりも、新しいところでもう一度頑張ってみてはどうかと肩を叩かれました。
狭い運送業界、再就職への影響を考慮し、私は訴訟を断念しました。
他人を傷つけた報いは、必ず本人が受けることになる――。
そう思わなければ、次へ進むことができませんでした。
一年後、あの澤田がトラックの扉を開けたまま走行し、幼稚園バスに衝突したと聞きました。
因果応報。今の私には、もはやどうでもいい報せでした。




