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立ち切れた旗 結婚と撤退

この頃には、忌まわしい噂はすでに近隣へも飛び交い、床屋でも嫌がらせを受け始めました。

私は散髪も自宅でするようになりました。それ以来、何十年も散髪屋には行っていません。


挙式を控えた私は、初めて会社に有給休暇を申請しました。

かつて、どんな理不尽があっても5年間は黙々と働くと決め、その約束を果たした日に、私はたった一人で常務を説得して有給制度を認めさせました。

しかし社内では、「自分が休みたいから常務に泣きついたんだろう」という心ない陰口が飛び交っていたのです。


申請を出した数日後、本社へ向かうと、社長がオフィス中に響き渡る声で怒鳴り散らしました。


「こんな繁忙期に何が有給だ! お前の代わりなどいないんだぞ! 会社に迷惑ばかりかけてどうするつもりだ!」


まさに、逆らう者への見せしめのような威嚇でした。

横では専務と常務の兄弟たちがこちらを見て嘲笑あざわらい、オフィスは静寂に包まれました。


私は彼女の顔を思い浮かべ、感情を押し殺して冷静に、大きな声で答えました。


「そうですか。では、向こうのご家族のこともありますので、認められないのであれば式も旅行もすべてキャンセルします。それでいいですよ」


私はこの時、後悔していました。

それは彼女が案じたものとは真逆の、連中を信じてしまったことへの後悔です。


組合立ち上げを決めた夜、猛反対した彼女が最後に「やらないと後悔するでしょう。やってみたら」と背中を押してくれた、あの晩を思い出していました。


私は彼女へ、交際する前に手紙を渡していました。

『結婚すれば君の人生を私がもらうことになる。そして私の人生の半分を君に渡すことになる。よく考えて返事をください』

彼女は、私の惨めな自衛隊時代の過去を知った上でも、私を選んでくれました。


入籍もしていないその彼女に暗い影を落とし、すでに計り知れない苦労をかけている。

寿退社でありながら社内からの祝福も送別会もない、寂しい退社をさせてしまいました。


しかし、休暇は予定通り取得でき、身内だけでひっそりとハワイで挙式しました。


帰国後、組合の面々へも土産を配り、担当の女性配車係にも手渡しましたが、受け取り方はひどく冷やかなものでした。

ある日、その彼女から「情けは人のためならず、という言葉を知っているか」と問われました。

「人に情けなどかけても意味がない」と私が吐き捨てると、彼女は「そうじゃない、いつかは自分に返ってくるんだよ」と諭すように言いました。

世の中には、本当に色々な人間がいるのだと思い知らされました。


そして、最後の団体交渉の日が来ました。

休憩中の会話から、馬野には「組合員の家族を守る」という意識が微塵もないことを私は確信しました。


その週末、私は町内会の集会場を借りて、団体交渉の結果を伝えるため組合員たちを集めました。


「これは私の独断だ。書記長として、ストライキはやらないしできない。責任は全て私にある、そして私は書記長も辞め組合も辞める、申し訳ない」

私は若い組合員たちに頭を下げ、活動を終えることを伝えました。

解散後、馬野がポツリと言いました。

「ストを断念することを皆に伝えてくれて、マジでありがとう」

最後まで自分では何も言わず、泥をかぶった私に礼を言うその姿を見て、私は自分の人を見る目のなさを再び呪いました。

こうして労働組合は消滅し、若い社員数名も会社を去っていきました。

私は会社からの信頼も失い、また、世間からは事実無根の噂を流される運命が悔しくて堪りませんでした。


それから三年この会社に席を置きましたが、50万円程の賞与は年々減額され、最後はわずか3万円になりました。

もうこの収入では、家族を守れない。

私は家族を養うため、必死に次の仕事を探し、年収が三割減ることを承知で転職を決めました。


転職により収入は激減し、一時は自宅の売却さえ考えました。しかし、結婚前に妻が口にした「多少でも大きな家に住みたい」という言葉が、手放す思いを繋ぎ止めてくれた。私が「結婚までの間は二人でどこへも行けなくなるぞ」と言うと、彼女は「公園を散歩するだけでもいい」と答えてくれた。

生活を徹底的に見直し、車も売却、食事も節約して貯蓄に充てた。彼女も協力し、実家へ戻って一年間共に倹約してマンション頭金を揃え、入籍後、翌月にマイホームの鍵を貰いました。

いまは子供も増えて手狭だが、この家だけは何としても守りたい。

子供の将来は親の生き方に左右され、家庭環境で変化する。俺の幼少時代のあの貧乏な経験を、家族にだけはさせたくない。母子家庭に対しても世間は冷たいのだと、身をもって知っているからです。


そして、1つの教訓を胸に刻み転職しました。

「次の職場では、二度と組合などには関わらない」


退職した後、路上でまだ働き続けている馬野らの姿を何度か見かけました。

身を引く勇気も行動力もない彼らへの憤りが、静かに込み上げました。

その会社は、後の東日本大震災でメインの蔵が壊滅し、倒産しました。



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