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逃走 無念の退職

「生きては帰らない」


そう決意して出た正門だったが、皮肉にも私は連行される形でそこをくぐり直した。

屈辱に沈む私の耳に、鋭く大きな声が届く。


「班付ッ!」


正門に立っていたのは、教育隊の教え子だったあの森だった、恥ずかしかさで一杯でした。

情けなさに打ちひしがれ、何をやっているんだと自分を責めた。顔から火が出る心境で、私はMと目だけを合わせ、重い足取りで隊舎へと向かった。

中隊到着後、佐藤中隊長に呼ばれた。


「どうした? 心配したぞ。いったい何があったんだ?」。


私は、この数年間の思いを、親しい同僚にさえ羞恥心から言えなかった屈辱のすべてを、一冊のノートに託して手渡した。

感情のままに綴ったその文は、さぞ読みづらかったに違いない。

ノートを読み終えた中隊長は、静かに言った。


「そうだったか……」。


中隊長はまず、ノートに記された全員を呼び出して謝罪させると約束してくれた。

私はさらに噂の出所を調査してほしいと頼んだが、それは組織として難しいと断られた。

ここは生き地獄だ。私はその場で退職の意思を伝えた。

中隊長は、私を諭すように言葉を継いだ。


「中隊はお前に期待している。だからこそ、十年のベテランでも選考されない実弾射撃訓練へもお前を行かせたんだ。お前はもう中隊の宝になっているんだ。

今回の逃走にしても、俺はお前が必ず戻ってくると信じていた。だから、中隊からは捜索隊を出さなかったんだ」


その言葉に、私は息を呑んだ。

通常、脱走の捜索費用はすべて本人が全額負担する。

だが中隊長は私を信じ動かずにいてくれたおかげで、国から私への請求は一円も発生しなかった。


その後、私を馬鹿にした先輩らが中隊長室に呼び出された。

一人を除き、全員が私に頭を下げた。

私は


「一週間以内に退職したい。できないならば駐屯地内で自決します」。


決死の言葉を遺し、部屋を出た。


部屋で後輩が漏らした言葉が今も耳に残っている。


「例えば100人が『あいつはホモだ』と言えば、101人目は疑いもせずに信じてしまう。それが噂の恐ろしさですよ」。


翌日だったか呼ばれて中隊長室を訪ねると、そこには兄が居た。

部屋に兄弟二人きりにされ、私は初めて兄にこれまでの生活のすべてを打ち明け、あのノートを見せた。


「お前が言った『人間関係』とは、これだったのか……」。


兄は一言そう漏らし静かに天井を仰いだ。

その頬を、涙が幾筋も伝い落ちていた。


その晩、中隊長の配慮で特別外出が許され、私は兄と酒を酌み交わした。ようやく一人の弟に戻れた一夜だった。


その後、ある先輩から「寺で坐禅を組んでみては」と提案を受けた。

何かが変わるかもしれない。

私は外出許可をもらい三原市の佛通寺を訪ねた。

広い境内の静寂に圧倒されながら、三日間の坐禅修行を願い出た。

翌朝、和尚様の指示で別の建物へ向かい大声で叫べと言われた。

閉じられた障子の前に立ち、言われるままに何度も大声で叫んだ。ようやく奥から僧侶が現れ、修行が許された。

修行には、トヨタの新入社員たちも参加していた。

体操指導の挙手を募られた際、誰も手を挙げない中、私は前に出て号令をかけ修業が開始された。


数時間の坐禅は、想像を絶するほどキツいものだった。


「はいッ、止め。

坐禅中に裏山で小石が二度落ちましたが、気付かれた方はいますか?」。


和尚さんの問いに一人の男性が「ハイ」と応えた。

引率の部長さんだった。

足の痺れと痛みで余裕を失っている私に対し、自然の微かな音まで感じ取っているその姿に、本物の強さを見た気がした。

この寺には執行の中に、膝の下にドスン釘を立てて山の頂上へ座る、睡魔が訪れると人は前方へ倒れる。

その瞬間、ドスン釘が膝に刺さるなど、命取りになるような過酷な精神修行もあるという。

トヨタの社員の研修終了した最後の夜、和尚様家族から夕食に招かれ、そこで


「僧侶にならんか」と、誘われた。


だが私は煩悩などが多いためとお断りをした。

今の自分がいれば寺に迷惑をかけてしまう。

修行の礼を言い寺を後にしたが、心の成長を実感する余裕はまだなかった。

中隊に戻ると、ついに退職が承認された。

中隊長は防衛大の同期が広島で会社を経営している。

住まいも金も心配するなと俺が全て揃えるから俺の目の前にいて欲しいと手を差し伸べてくれた。

だが、和尚様の時と同じだった。

佐藤中隊長にこれ以上の迷惑は絶対にかけられない。誰かに依存したくなかった。

中隊が演習で不在の早朝、私は誰もいない営内と中隊に深々と一礼し、駐屯地を出た。無念の退職だった。


私は元自衛官の先輩がいる運送会社に面接して寮に入った。

この会社は、川を挟んだ自衛隊駐屯地を望め場所にあった。

噂は立ちどころに入ってきた。

私は社会に出ても噂の呪縛からは逃れられなかった。

食品メーカーの倉庫の集荷を任された。

雰囲気からもう噂は入ったとすぐにわかった。

事務所で、伝票待つ私へメガネをかけた男が卑屈な笑みを浮かべて言い放った。


「あー大丈夫です、オ・カ・マ・いなく!」


事務所中に響き渡る大爆笑。

「上手い!」と沸き立つ声。


真冬の深夜、シャツ一枚で額の汗を拭い、一人で荷物を仕分ける。

誰もいない食堂で、冷え切った晩飯をかき込む。雪の降る吹きさらしのホーム。

ここにも、私の居場所はなかった。


「誰も知らない所へ行こう」


日本の真ん中、東京へ行けば何かがあるかもしれない。

十二月の暮れ。

新しい年をこの土地で迎えたくはなかった。

荷物を車に投げ込み、自衛隊時代の先輩からもらった一万文の一地図を手に忌まわしい過去を断ち切るようにアクセルを吹かした。


東京へ向かう途中、教え子の吉岡と岡山で再会した。


実家に泊めてもらったが、私は「俺のような疫病神が、彼の人生を歪めてはならない」と感じていた。


「ありがとう」


と告げ、頭を下げ二度と会えないと誓い、私は再び東京を目指しアクセルを踏み込んだ。






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