ふくらむたまご、恋心
付き合うってお互いの恥を晒していくことだと思う。同棲とかしていると尚更。例えば大学では王子として人気のある彼が実は毎朝かならず襟足が跳ねていてセットに三十分はかかるだとか、家にいる時は大抵首まわりの伸びきったシャツ姿でだらしないこととか。
私なら、そうだな……容姿も成績もいたって平平凡凡なのに、ご飯を食べる時は口に詰め込み過ぎてハムスターのほお袋みたいになるところとか?
一緒にいることでそんな発見を繰り返し、その度に驚いたり呆れたり笑ったり、でも最終的に受け入れることで恋人って関係を維持している。けど、これは……。
私はフライパンの中、なぜかぶくぶく泡を吐き出したように膨らんだ目玉焼き二つを見つめて顔を強張らせた。
世界一簡単な料理と言っても過言ではない目玉焼きがボンッと破裂する恥は、いくらなんでも恋人に見せられない。
白身の膜が最大限膨らんだあと萎んでしわくちゃになるのを見て、私は自分に絶望した。
私は料理が得意ではない。それは彼も知っている。でも大学に入ってからは自炊を心がけていたため、人並み……いや、人並みよりちょっと下程度には出来るはずだ。彼だって私の作った料理に文句をこぼしたことはない。居酒屋でのバイト経験がある彼の作った手料理が美味しすぎて私が嫌味を零したことならあるけども。あれ? 私やな女だな。
とにかく、目玉焼きなんて料理と呼ぶのがおこがましいほど簡単なものだ。熱したフライパンに油を引いて、卵を割り入れて、弱火にかけて蓋をするだけ。
いつもならそれで上手くいくのに、何故か今日は失敗した。餅のように膨らんだ。最終的にはしわがよってくたびれた目玉焼きの出来あがりだ。
「……なんでだろ」
普段ちゃんと出来ていた分、余計に悲しくなってくる。そして、昨晩週末だからとベッドで睦みあい恥ずかしい姿まで見せあった彼にさえ、これは見せられないと思った。
さすがにこれは私のプライドが許さない……。
彼が起きてくる前に食べてしまおうか。二つ分となると少し胃が重いが、捨てるのはもったいないし、彼の分はまた新しく焼けば問題ないだろう――……。
そう思って、いそいそ皿を取りだそうと戸棚を開けると、背後から「おはよ」と声がかかった。瞬間、私の肩は電気でも走ったように跳ねあがる。
油の切れた人形のように振り向くと、彼が寝間着姿のままこちらへやってきていた。寝起きのせいか大きな二重瞼はとろんと落ちていたが、私の大げさなリアクションを訝しげに見ている。
「? どうしたの」
「う、ううん。意外と早く起きてきたからビックリして」
平静を装おうとするとどうしてこんなにも汗が噴き出すのだろう。私は目を泳がせながら「か、顔洗ってきたら?」と言った。
「うん……あ、ご飯出来たんだ?」
そう言いながら彼がフライパンの中を覗きこもうとしたので、私は獣も真っ青な俊敏さでフライパンに蓋をする。ガアンッと音が響いて、彼が瞠目した。
「え、何、本当にどうしたの」
彼は中性的で女よりよっぽど色気のある顔に困惑を浮かべた。私は蓋を固く閉めたまま「何でもないよ」とぎこちない笑顔で言った。
「いや、何でもなくないだろさっきから。何なの」
「ホントに何もないの。強いて言うならあれかな、急に蓋をしたい衝動に駆られた。そんな感じ」
「意味が分かんない」
私の必死の言い訳を、寝起きでも冷静な彼はばっさりと切り捨てる。それから口元に手をやり、疑り深い彼なりの見解を述べた。
「けど、それはえーっと、暗に触れてほしくないやましいことに蓋をして見て見ぬ振りしろとか、そういうこと? を遠回しに言ってる?」
「んー……? う、うーん。うん」
彼の言っていることは私の言ったことと多少認識のズレがある気がした。が、目玉焼きが失敗したことは触れてほしくない、それこそ蓋をして仕舞っておきたいことなので、私は頷いておいた。
「うん、そういうことになるのかな」
「へえ……」
何故か彼の声の温度が下がる。瞳がスッと細められた。パーツが整っている分、無表情は迫力があって怖い。
思わず不安になり彼の名を呼ぼうとすると、一歩詰め寄ってきた彼に腕を掴まれる。蓋を取られてはマズイと思った私が手に力を込めて振り払ってしまうと、彼の機嫌は急降下した。
「……どういうつもり」
「あ、いや、どういうつもりっていうか……わっ!?」
先ほどとは比べ物にならない力で腕を引かれたと思うと、戸棚を背に押さえつけられた。顔の横でバンッと手を突かれ、壁ドンの体勢に驚いている間に彼の険しい顔が迫ってくる。
「な、なに……!?」
ただでさえ美形の彼なので、距離が近くなると顔に熱が集まる。しかし彼の方は明らかに怒っている様子だったので、私の中の羞恥はすぐに萎んでいった。
「……やましいことって、蓋をしたいことって」
ぽつりぽつりと彼が語りだす。いつもより一段低い声は威圧感があり、私は身を竦めた。
「見て見ぬ振りをしてほしいことって……何、浮気?」
「……へ?」
私の口は重力に従ってポカンと開く。どうやら彼は私の発言を曲解したらしい。否定しなくてはと慌てる私をますます怪しいと勘繰った彼は、押し付けるように唇を重ねてきた。
「ん……っ!?」
蹂躙するような荒いキスに息を乱し、誤解を解く言葉を吐き出せずにいると、口付けの合間に彼は「許さない」と零した。完全に苛立っている。
「あ、ねえ……! ちょっと話を……んっ、聞いてよ、誤解……!」
「聞きたくないね」
取り付く島もない。乱暴なキスを続け、しまいには私のスカートの裾にまで手を伸ばしてきたので、まさか朝から強引に事を進めるつもりかと青ざめた。
「起きて早々挙動不審だし、そういえば昨日の最中も俺の顔ちゃんと見ようとしなかったし、もう俺といるのは嫌になったってこと? 抱かれてる間も、浮気相手に抱かれる妄想するために俺の目を見なかったとか?」
……それは単に、脱いだアンタの余裕のない顔が艶っぽすぎて目を合わせるのが恥ずかしかっただけだわコノヤロー……!
凄絶なまでの彼の色気に耐えられなかった私は何も悪くないはずだ。多分。
しかし恥ずかしすぎてそんなことは言えないでいると、彼は嘲るように言った。
「それで今手を払ったのは? 何、とうとう俺に触れられるのも嫌になった?」
「ちが、あの……」
「残念だったね」
頬から首筋へと滑り降りてきた彼の手が、私の早くなった脈を上からぐっと押さえる。
「今更逃がすつもりないから」
「……!」
執着の色を灯した瞳にまっすぐ射抜かれて、息が止まる。それからきゅうっと胸の奥が甘く疼いた。
「君は俺のだ。君が嫌がっても、手放す気はないよ」
そう言って再び口付けてきた彼の唇は、言葉とは裏腹に優しく、懇願さえ含んでいるようで。私は応えるように彼の背中へ腕を回し、勇気を振り絞って恐る恐る問うた。
「……そ、れは……目玉焼きが上手に焼けない私でも……?」
「ああ、目玉焼きが上手に焼けない君でも手放す気は………………は?」
長い沈黙が二人の間に横たわる。
混乱を極めた彼の腕の拘束を抜け出し、私がそっとフライパンの蓋を開けると、全てを理解したらしい彼は額に手を当て、恐ろしく長いため息を吐いてその場に座りこんだ。
時計の短針が十時を指す。それを横目に、私は彼とすっかり冷えた朝食を頬張っていた。私はいつものようにハムスターのようなほお袋を作って、疲れた様子の彼はしわくちゃの目玉焼きに醤油を垂らして。
「どう?」
「たしかに見た目はあれだけど、味はいつもと一緒。美味しいよ」
そういえばどんなに味つけを失敗しても「不味い」とは言わない彼の優しさを思い出しつつ、膨張した挙げ句しわくちゃになった目玉焼きすら受け入れてもらえた幸せを、私は噛みしめていた。
また一つ、受け入れてもらえることが増えた。だから次は私が彼の恥を受け入れようと思う。そうだなぁ、惚れ惚れするほど綺麗な容姿をしているのに、自分に自信がなくて疑り深いところとか、ヤキモチ焼きなところとか。うん、受け入れる。
そうやってお互いの恥ずかしいところを受け入れ合って、この恋がこの先も、ずっと続いていけばいい。