Dream In B
オレンジと深い青緑のマーブル模様を描きながら、穏やかな波が寄せては返していた。巻貝の奥から聞こえる音と同じものが、水平線のあたりから聞こえる。朝焼けがいっぱいに広がる砂浜。
水平線の音は打ち寄せる際に弾ける。人の耳には聞こえない。だから、朝焼けに燃えながら群れを作る黒い尾のカモメたちは水平線の音を聞き、応えて啼くのだ。
ある一羽のカモメが浜辺に降り立って、弾け損ねた音を見つけた。
真珠の色に光る水滴。
カモメはクルクルと首を捻って、真珠色のそれを見つめた。試しに、くちばしで突付いてみると、深い海の音がした。足先で触れてみると、暖かく澄んだ海の音が聞こえる。黒の尾で撫でてみると、海の果ての香り。口の中に含んでみると、
「あ、カモメ」
味わう暇もなく吐き出して、空へと飛んだ。
Wを逆さまにしたような形で、黒い尾のカモメは飛んでいく。
「おかしなカモメ」
竜助は笑った。
陽が昇ったばかりの浜辺を歩くのは、竜助の日課だった。
波の音のみが聞こえる浜辺には色々なものが落ちている。網目模様に穴の開いた巻貝。ロウを塗ったように光る石。面白い形の流木。そして、
「壜だ」
竜助は波間に分け入り、マーブリング模様の水に浮かぶ、壜を拾った。壜は気をつけなければいけない。ただのゴミと、もう一つあるからだ。
その瓶は理科の実験で使う集気壜の形をしている。壜の口よりも少しだけ大き目のコルクで栓をされている。だからか、壜の中には一滴の水もなかった。壜の中にはインクのしみた白い紙が入っている。
「ボトルメール……」
浜に戻りながら、竜助はコルク栓を一思いに抜き、壜を逆さまにして白い紙を砂の上に落とす。
すとん、と落ちた白い紙の手紙を拾い、二つ折りにたたまれたそれを広げる。
「さて、何処から来た手紙だろうか? アメリカかな? それとも中国? 思い切って、ナルニア国かな?」
誰にでもなく、冗談を言いながら、竜助は文面に目を落とす。
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夕暮れの海岸線にはなむけの花を贈り、
東より登ってきた珊瑚に、やはり花を贈ろう。
(有)CAT & SEA
会員番号211-22 カオリ様
先日 5月15日、ご注文をされました商品
クダケタツキ 1点
を当社独自のルートを使いまして、特別に手に入れました。
以前のこともありましたので、早々にお届けにあがりたいと存じます。
つきましては、契約時の取り決めの通り、 5月32日に
S市立プラネタリウムへ御足労願います。
第3回の上演に、間に合うようお越しください。
(有)CAT & SEE 社長 黒岩 日出尾
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家に帰った竜助は壜と手紙をテーブルに置き、尋ねてみた。
「まさかとは思うけれど、‘カオリ’て人、知らない?」
「死んだ姉さんの名前」
「え?」
「産まれて、たった一声あげて死んじゃった。だから、片割れの私は‘かをり’なの」
ふざけた話よね、単純すぎるにも程がある。かをりは笑いながら爪をいじっている。竜助は愕然として、
「そんなことがあったんだ……」
やけに画面とテロップの変わる、ニュース番組、小うるさい気象予報士が楽しげに天気予報している。S市は完全に雨の予報だった。かをりは相変わらず笑っている。
「笑っていられる話?」
人としてどういうものか、竜助は首をかしげた。
「笑っていられるけど?」
「どうして?」
竜助は不機嫌に尋ねた。
やはり笑いながら、かをりは立ち上がって、エプロンを取る。
「だって、私が今作った、でっち上げのお話だから」
ついに声を出して笑いだしたかをりは、台所へ消えていった。
反論できずに、ただイライラしながら、TVのスイッチを消す。
「竜助、プラネタリウムに行くの?」
コンロにフライパンを載せながら、かをりは尋ねる。竜助は頷いた。
「まあね。裏面に小さく書かれていたんだけれど、この紙がなかったら、商品の‘砕けた月’が、受け取れないらしい。三二日の日付が不思議だとしても、今日は五月三一日だから、困っているんじゃないかな? ……て、いつボトルメールの手紙を見たのさ?」
「聞き捨てならないな」
フライパンの角に卵を当てながら、かをりが膨れた顔をする。
「何が‘聞き捨てならない’?」
ラジオのチューニングをあわせながら、竜助が首をひねる。
「三二日がない、てこと」
卵を割りながら、かをりは続ける。
「三二日がないなんて、なんでそんなことが言えるのよ? 三二日はあるもの」
雑音の消えないFM砂嵐の音が打ち寄せる波の音に聞こえる。
「三二日なんてない、と思うのは、竜助や人間が、絶対にない、て信じ切っているだけ」
「妙な理屈だね」
竜助は笑った。かをりは向きになって答える。
「だって、三二日はあるんだもの」
頭に血が上ったのか、竜助に出す目玉焼きの黄身にフライ返しを突き刺す。‘砕けた月’ではないけれども、これでは‘潰れた月’だ。
FM砂嵐は、波のようにリズムよく寄せては返しする。その音の中に、一瞬猫の声が挟まった。
「近くに猫でもいるのかしら?」
かをりが寝ぼけたことを言う。竜助は、鼻で笑って、
「これはラジオの雑音だろう?」
「でも、猫の声よ。砂嵐の海辺で、猫が歩いてる」
かをりは猫だといって一歩も譲らない。
「もしこれが猫だとしても、猫は海辺を歩くかい?」
「歩くわよ。竜助が知らないだけだわ」
「猫は猫でも、ウミネコのことを言っているんじゃないか?」
第三回の公演の時刻、S市は天気予報の通り、雨に降られていた。水煙が立ち込め、粗い網目のカーテンをかけたように全ての色が曇っている。空の色が一面真っ青な晴れの日と、薄暗くてさしてどんよりとしていない雨の日は、少しだけいつもと違う雰囲気を感じる。
「こんな日であれば、五月三二日はあってもおかしくはないかもしれない」
竜助はひとりごちた。S市は比較的大きなまちなので、竜助はそれなりの格好をしていた。黒と白の傘を差して、磨き上げられたリノリウムのような光沢を持つ、コンクリートの上を歩く。ポケットには薄っぺらな財布と、あの手紙が入っていた。
S市立のプラネタリウムは、小さなドームの屋根の建物だ。バブルの全盛期に建てられた建物で、構造もデザインもしっかりしているはずだが、立地条件がよくない。住宅街のど真ん中、天文ファンが足を運ぶのに迷ってしまうほどバス停と駅から遠い場所。
「ここ、絶対に貧乏神か閑古鳥が住み着いているよ、絶対」
竜助は傘を畳んで建物の中に入った。
エントランスホールには本物のリノリウムの床。天井には星座に関する絵画や、世界中の星図。ホールの中心には水盤があり、芸術作品にまで高められた美しい(と専門家は言っている)ビー玉が散りばめられている。
「流石、バブル」
竜助は皮肉って言う。
水盤は建物とあわないほどに古びていて、そこだけ空気が違うように感じた。
「まあ、いいか」
傘立てに傘を挿して、受付に近寄る。
「チケット一枚」
たった一人しかいない観客のドームで、たった一人の観客のためにプラネタリウムが始まった。投映機に灯が点り、同時にあたりの照明が闇に堕ちた。竜助の視界も暗くなる。一瞬眠気を感じて目を閉じたけれども、再び目を開けると満天の星空が広がって……いなかった。
黒尾のカモメの飛ばない夕日。投影機はS市に沈む夕日を映し出していた。
「夕日は魅力無いな」
ドームの中だからだろうか、竜助の声は妙な篭り具合で、上手く響かなかった。夢の中にいるような……
「まさか、さっき目を閉じたとき、眠りに落ちてしまったのだろうか?」
そんなわけないだろう
胸中で自分の問いに答える。
夕日が海に沈んでいく。解説者の穏やかな声と共に段々と空の色が紺色になっていく。丁度白い和紙に色が滲むように。
「すみません、遅れてしまいまして。雨が降っていたものですから」
竜助が人の気配を感じると同時に、そんな言葉がかかった。どうやら、カオリの注文した砕けた月を持ってきた、CAT&SEA社の社員らしい。白いレインコートを抱えた黒スーツの男だった。きっかり九〇度の会釈をするものだから、
そんなに気になさらないでください、
と声をかけようとして顔を上げ男を見た。見るなり竜助は石化した。夢を見ているのかと混乱した。
「う、ウミネコ?」
男の顔はウミネコだった。むしろ、ウミネコが黒いスーツを着てレインコートを持って直立で立っている。そういった感じだ。よくCMで頭に動物の被り物を被っている人間が登場する。ウミネコの顔はそれよりも本物らしく、いや、本物だった。
「何を驚いているんです?」
ウミネコはもう一度言って、竜助の隣の席に座った。
「ウミ、ネコ? いや、あの、ウミネコ、ですか?」
「何を驚いているんですか、カオリ様。いつものことじゃありませんか?」
ウミネコはポケットから白いハンカチを取り出して、顔に降りかかった雨水を拭く。ふう、と疲れたように息を漏らして、ウミネコは続けた。
「雨の日は、ほとほと困ってしまいますよ。カオリ様だってご存知でしょう? 雨の日は商品の配達が大変なんです。じめじめして空気は重たいし、ふらふら自然と家の方へ羽を運んでしまう。おまけに、ほら、飛びづらいんですよ」
ウミネコのくちばしは男の声とあわせて、本当に喋っているように動く。CMだったら、ウミネコが‘どのように’喋るか想定した上でCGを作る。ところが実際に、竜助の前で、「実際」に喋っているのだ。
(ウミネコはこんな様に喋るのか)
竜助は妙に感心しながら、相槌のような雰囲気で問い返した。
「‘飛ぶ’ですか?」
「CAT&SEAでは、‘移動’のことを‘飛ぶ’と言うんです。業界用語ですよ。先々代の社長の頃から、そういうようになりまして」
「妙な会社ですね」
それはウミネコの会社だから? 竜助は‘人間の会社’の感覚で言った。そうですか、とウミネコは夜空を眺めながら笑う。白いレインコートも‘人間の社会’で言うと、派手だ。これも‘ウミネコの会社’では常識的なことなのだろうか。
「ところで例の文書を持ってきて下さいましたか?」
解説者が蠍座のことについてゆっくり説明を始めた頃、ウミネコが話を切り出した。竜助は頷く。けれども、否定の言葉を添えた。
「人違いをなさっているんじゃありませんか?カオリじゃありません」
竜助は事の経緯を丁寧に説明した。
ウミネコは何度も頷いて、何度も相槌を返した。プラネタリウムが終わりに近付いた頃、
「そう言う訳なんです」
竜助は話に終止符を打った。妙に緊張した。ウミネコと話をしたことなんて、当たり前だけれども一度もなかった。すると流石ウミネコと言うべきか、
「でも貴方はカオリ様でしょ」
まるで話を聞いていなかった事を言う。
「違いますよ」
「ですが、カオリ様そっくりです。声も姿も仕草も」
「そりゃ女顔ですから。けれども、カオリじゃありません」
男は笑っている。どうやら本当に勘違いしているらしい。そして不幸なことに、勘違いしているなんて、全く考えていない様子だ。全く疑わない。竜助はこの状況を乗りきる為のキーを探して、そして見付けた。
「受け取れません。だって今日は五月三二日ではないでしょう? 今日は三一です」
「何を言っているのです、カオリ様」
ウミネコはくるりと首を捻って不思議がった。
「プラネタリウムはもう終盤ですが、解説者のお話を、お聞きください」
言われて竜助は解説者の言葉に耳を傾けた。
『本日は五月三二日から六月一日までの夜空をご覧いただきました、有難うございました』
「え?」
竜助は耳を疑った。
「五月三二日がないと考えるのは人間くらいですよ」
ウミネコが囁くように言う。
「人間は常識だけで事物を見ようとする傾向がありますからね。夢の世界ではそうは行きませんよ、カオリ様」
「だから、カオリじゃない、て何度も言っているでしょう?」
「何を言っているんです、カオリ様」
では、一足先に失礼いたします。ご注文の品物は、いつもの場所においておきますので。手紙のほうはカオリ様が今座っている座席に風が吹いて飛ばされないように、どこかへはさんで置いておくようにしてくださいね。回収係がいつも、カオリ様のを見つけられずに困っているようですので。では、失敬。
そんなことを言って、ウミネコはプラネタリウムを去って行った。
竜助も、ドームが明るくなったと同時に席を立った。ウミネコに言われたとおりに手紙は風に飛ばされないよう、置いておく。隣の席に一本の羽が落ちていて、骨の部分にCAT&SEAと刻印されていた。
「まさか、あのウミネコの?」
思って、よく見たら、違った。年季の入った羽ペンで、手入れと書きやすくするための改良に怠りが無かったのか、持ちやすく、軽く、てにすいつく。
竜助はそれをポケットに入れた。
エントランスホールに出ると、本降りになっている窓の外が見えた。雨音がひどい。
「さらに飛びづらくなっているんじゃないのだろうか? 大丈夫かな、あのカモメ」
軒下でいつ飛び立とうか思案している黒尾のカモメがいた。
カモメはこちらを振り向くと、こつこつとガラスをくちばしで突付いた。
スイバンヲ、ミヨ
何となく、カモメはそんなふうに言っていると感じた竜助は、言われたとおりに水盤を見た。
「これが、砕けた月?」
水盤の上に壜が浮かんでいる。壜のラベルには‘CAT&SEA 砕けた月’と印字してある。製造年月日は五月二三日となっていた。壜の中に月色をした物が入っている。これが砕けた月だろう。
「砕けた月は、何に使うんだい?」
窓際のカモメに聞こうと、竜助は顔を上げた。
通り雨だったのか、雨脚は去っていて、カモメも既に飛び立っていた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった? CAT&SEA社の接客態度は」
かをりが目を輝かせて、竜助の話を聞きたがる。竜助はテーブルの上に砕けた月を置いて、
「ずさんな会社だよ。最後まで、人の事をカオリだと決め付けるんだ。これを、貰わざるを得ない状況にされちゃってさ」
竜助はため息をついた。ため息ついでにカレンダーを見る。勿論のことだが、どこにも五月三二日は無かった。
「これが、砕けた月? 綺麗ね」
かをりはうっとりとした表情で砕けて月を眺めている。
「ねえ、出していい?」
「駄目、何に使うものか判らないんだから。もしかして、空気に触れさせたら爆発するかもしれない」
「そんなもの、CAT&SEAが売るはず無いじゃない」
「さあね、知ったこっちゃないよ」
竜助は方をそびやかせた。エプロンを手にとって、手馴れた手つきで胴に巻く。
「あら、晩御飯、竜助が作ってくれるの?」
かをりが珍しそうな表情をする。竜助は鼻で笑った。
「目玉焼きしか作れない料理オンチの癖に、よく言うよ」
「玉子焼きも作れるようになったのよ?」
かをりは胸を張った。竜助はにやりと笑って、付け足す。
「デッサン画ができるくらい炭化したやつだろう?」
「うるさいわね。さっさと作り始めなさいよ」
「分かってるよ。今日は、クリームシチューでいい? 材料が丁度よく揃っていて、」
「前置きは良いから、早くしなさい」
‘炭化’がいけなかったのか、かをりは怒っている。
一口味見をしてから、竜助はコンロの火を消した。
「……何か足りない」
野菜のエキスも出ているし、隠し味もよく効いている。それなのに、何かが足りない。竜助はもう一口味見して、困り果てた。
「何が足りない?」
かをりにでも意見を聞こうと思ったけれども、彼女はどう足掻いたって料理評論家にはなれない。ふと調味料の棚を見ると、いつ置いたのか、砕けた月が並んでいた。
「何の悪戯だよ」
竜助は砕けた月を手にとって、小さな声でかをりに悪態をついた。
「どう見たって、調味料じゃないだろ、これ」
その時、ふと好奇心に駆られて、壜の蓋を開けてみた。香水よりも甘いにおいがした。
「……」
スプーンですくってシチューの中に一匙入れてみる。
掻き回してからもう一口味見してみると、
「……あ」
甘くて苦くてそして儚い、夢の味がした。
貴重なお時間を割いてまで、読んでいただきありがとうございます。
この小説は高校時代HP作りを楽しんでいた頃に執筆したものです。
当時キリ番を踏んでいただいた方へ差し上げたものですが、
さてお題はなんだったやら・・・・・・。
長野まゆみの世界にほだされ、何度も彼女の作品を読んだ結果、
こんな不思議な小説となったと記憶しています。
またご縁がありましたら、足をお運びくださいませ。