Start-up
「田坂さん、田坂さーん」
燈は控えめにそう囁きながら、少し雑に雪生を揺すった。しばらく抵抗していた雪生だったが、薄く目を開けて、おはようございます、と呟いた。それからハッとして燈の肩を掴んだ。
「君は誰だ! ここはどこだ! 俺を帰せ! 警察呼ぶぞ!」
「ちょっと! ちょっとちょっとちょっと! おちついてよぉ!」
雪生は我に帰り、部屋を見渡した。
「夢じゃ、なかった……?」
「まあまあ、そんなに落ち込まないでくださいよぉ田坂さん! なんにも間違いはありませんでしたから!」
酔った勢いで男とホテルに泊まった女のような台詞を吐き、燈は笑った。
「間違いだらけですよ……」
「田坂さんだってぐっすり寝てたじゃないですか」
「どこでも寝れるようになったんです」
「どうして?」
「いつも時間がないんで」
そうですか、と言いながら燈はトーストにマーガリンを塗った。
「燈さんは料理をしないんですか」
「食パンを焼いたでしょ」
「この時代ではそれを料理と呼ぶんですね」
「……」
雪生は生真面目にマーガリンを塗っている。冗談を言っている顔には見えない。どうしたもんかな、と燈は思った。
朝食を済ませたあと、燈は雪生にギターを担がせ、外に連れ出した。
「あの……なにするんですか?」
「それ、着替えましょ?」
燈は洒落た服屋に入り、簡単に何着か選ぶ。とにかくどんなものでも、今着ている服よりはましだ。
会計へ持っていき財布を出すと、雪生に止められた。
「僕が払いますよ」
しばらく見ていると、雪生の顔に衝撃が走った。
「財布が、ない……」
そうだと思いました。
店から出ると、雪生が頭を抱えた。
「人からおごってもらったのなんて、いつぶりだろう?」
嘘ばっかり。この人はこうやっていつも、ヒモ生活をしていたのだろうか。まあいいや。そのうちこの人に稼いでもらうことになるんだし。私、お金だけは持ってるし。
「じゃあ、着替えましょうか」
公園の公衆トイレを指差し、燈は言った。家に帰ってからでもいいじゃないかと雪生は言ったが、そういうわけにはいかない。ぜひどうぞ~とにこやかに言うと、雪生は諦めて公衆トイレに消えていった。
トイレから帰ってきた雪生は、不満そうに言った。
「これは、僕じゃないです」
黒いぶかぶかのパーカー。薄い大きめのサングラス。これまたぶかぶかな迷彩柄のズボン。じゃらじゃらとついた鎖のような飾り。
「いいじゃないですか」
燈は、パーカーの帽子を深々と被せながら言った。
「よくないです。こんなの、僕じゃないです」
「なんでですか。全然いいですよ!」
雪生は顔をしかめた。
「全然いいですよ?」
全然いいですよって、誉めてるのかけなしてるのか。雪生はそう呟いて腕を組んだ。
なにやら考え込んでしまった、と燈はため息を吐いて、近くの石段に座らせた。
「なんですか?」
「歌ってください」
雪生は目を見開いた。
「ここで、僕に、歌えと?」
「昨日も歌ってたでしょ」
燈はなんでもないことのように言ってみせた。
雪生は信じられない、という顔をした。
「それは気持ちを落ち着かせるためであって自分のためなのだからどこで歌っても同じだけど、僕を歌わせるのに公園の石段って」
「うるさいわね……」
「俺は田坂雪生だぞ!?」
「ほんっとうにうるさい。20年前の人って柔軟性がないのね柔軟性が!」
「なんだって?」
「だってそうでしょ。歌う場所なんてどこでもいいじゃない」
「プライドを捨てたロックンローラーなんて」
「歌う場所を選ぶロックンローラーなんて」
二人はただただ睨みあった。それから不意に目をそらして燈は吐き捨てた。
「あんたなんか、ただのパクりのくせに」
雪生はきょとんとした顔で首をかしげた。
「パク……?」
「偽物、物真似、勘違い、思い込み」
「ニセモノ……モノマネ……」
雪生はどこか上の空にそう呟いた。燈がふん、と鼻を鳴らして背を向けた。と、後ろから美しいギターの音色が聞こえてきた。燈は慌てて振り向く。
『Listen to my music!
Listen to my music!
他の誰でもない
俺の音楽だ!
青い空に反した灰色の路地裏と
賑やかな街角に埋もれる
あの時代の この俺の この音楽を』
人々が足を止める。騒ぎもせずに黙って聞いている。
『Can you listen to my song?
I sing a song here.
Can you hearing my voice?
Here I am.Here I am.』
燈は息をのんだ。昨日の曲よりもいい。どこが、と言われても上手く言えないけど、なにかが心を揺り動かす。感情が沸き上がってくるような感じに、慌てて胸を押さえた。
『Listen to my music!
Listen to my music!
偽物なんて言わせない
俺の音楽だ!
愛すべき人々がいて愛すべき世界があって
全部詰めこんだ俺の生き方を
それが俺の 俺の音楽で お前のじゃない!』
一瞬、燈を睨み付けたような気がする。なるほど、燈への怒りに突き動かされて歌っているらしい。燈は我に帰ってスマホを構えた。
『Have you music yourself?
I have my music.
Have you life yourself?
I have my life.I have my world.』
お金はどこに入れればいいの、と老婆が言う。誰かがギターケースを見つけ出してお金を入れ始めた。
『一体どうすりゃ満足?
絶対ありえないことだって
それはきっとどうしようもない?
俺は俺だろう!
空の色は同じだったのにその広さは?
花の色も同じなのになんでだろう
それを歌う それが俺の 俺の音楽だ
Listen to my music!
Listen to my music!……』
曲が終わったとき、雪生はいきなり立ち上がって燈に近づいてきた。燈は慌ててスマホをしまった。
「俺の音楽が偽物だって?ちゃんと聴いてもいないくせに!」
主役が消えたというのに、拍手の音が聞こえた。
燈は頷く。
「あなたの音楽は本物です」
雪生は、憑き物がとれたように腑抜けた顔になった。ふう、とため息を吐き、ごめんと呟く。
「ごめんちょっと、よくわからなくなった」
頭をかきながら雪生は申し訳なさそうな顔をした。
「昔からそうなんだ」
なるほど、と燈は呟きながら人だかりを指差した。
「呼んでますよ」
思い出したかのように騒ぎ始める人々。しばらくそれを見つめてから、雪生は燈の手を握った。
「逃げよう」
「え?」
そう言いながらも雪生は、人だかりに突っ込んでいく。人だかりの真ん中のギターケースを閉めて、素早く立ち去る。
「みんなありがとう。またね」
「応援お願いしまーす」
人々は騒ぎながらも、笑って手を振っていた。
ですから、私の歌詞のセンスがあれなだけで'90年代の歌は素晴らしいんですって!