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The accident.


 雪生がサイトウのギターで歌ってから一週間ほど。世間はそれなりに騒がしかった。


 雪生は知らなかったが、サイトウと言えば名の知れたロックミュージシャンである。そのサイトウが認めたのかもしれない、田坂雪生の偽者。それはもちろんサイトウへの批判にも繋がったはずだが、サイトウは知らん顔である。


 一度だけ、サイトウが雪生について漏らしたことがあった。


「あれは、いい人ですよ」


 なんとも微妙な評価である。

 そんなサイトウの一言で、なんとなく世間も落ち着き始めた。




 名前を変えてみてはいかがですか。


 目の前のスーツを着た男は、真剣な顔で言った。雪生は思わずため息を吐く。


「売名ではないのなら、名前を変えてみてはいかがですか」


 テレビに出ると思うのだが、いつまでもいつまでも、話のわからない人間が多いこと。雪生は少し呆れて頬をポリポリとかいた。


「俺が田坂雪生だということを隠していても、いつかはわかってしまうでしょう。面倒じゃないですか」


 周りの人間が、きょとんとするのがわかった。なにがおかしい、と詰め寄りたくなる。


 それに、と雪生は続ける。


「それに、悪いこともしていないのに隠すなんて俺にはできませんから」


 こちらのほうがメディア好みだったらしい。男が嬉々として突っ込んできた。


「プライドとおっしゃるのですか。人の名前と顔を使って」


 まったく、なにを言っているのかわからない。雪生はげんなりした。不毛すぎるやり取りだ。


「俺が生きていれば早いんだけどな」


 もちろん、俺しか知らないことを俺は知っている。だがそれをここで言ったって仕方ないのだ。なぜなら、俺しか知らないのだから。


「どうしてもあなたは田坂雪生を名乗るのですね」


 名乗るもなにも、親から授けられたものである。


「では、あなたは何年の何月何日から来たのですか」


 この手の質問はあまりされてこなかったな、と雪生はぼんやり思う。


「1992年の、4月……25日だったと思いますが」


 男は目を丸くし、命日だと呟いた。


「その日は田坂雪生の命日ですが?」


 雪生も頷く。


「そのようですね。死んだ瞬間に飛ばされたのかもしれません。最後に覚えているのは、照明器具が落ちてくるところでしたから」


 雪生が言うと、男は怪訝そうな顔をした。


「照明器具……? 田坂雪生は、熱狂的なファンの手によって殺されたのですよ?」


 思わず、むせた。もう一度男を見たが、真剣な顔を崩していない。


 俺は、殺された? 事故じゃない?




 収録が終わっても、雪生は考え続けていた。


 ずっと、自分は『照明器具が落ちてくる』という不慮の事故で死んだのだと思っていた。一瞬で終わればよかったのにこうして死を自覚させられることへの憤りはあったが、諦めもついていた。


 しかし、殺されたというなら話は変わってくる。いや、殺されたということ自体は恐ろしいがどうしようもない。


 問題は、それがいつなのかだ。


 もちろん、照明器具が落ちてきたあとと考えるのが自然だ。だとしたら一体なぜ、あの瞬間に自分は未来へ飛んだのか。

 もっと言えば、あの瞬間に戻ったとして死ぬまでの短い時間に自分はなにをすべきなのか。


 あまりに短すぎるのだ。なにかを遺すには。


 一体なぜ、自分は未来(ここ)へ?


「田坂さん?」


 いきなり名前を呼ばれ、雪生は比喩ではなく飛び上がった。


「なに考えてるんですか」


 別になにも、ともごもご言い、慌てて帰る用意を整えた。


「もう、帰れますよ」

「まだ、帰れません」


 ディレクターに呼ばれてるんです、と呆れたように燈は言った。


「音楽番組の仕事が入りそうですよ。そろそろ音楽番組以外は減らしましょうか。それでもスケジュールは埋まってますから」


 任せます、と呟き、雪生は欠伸をした。燈は心底呆れ返ったような顔でため息を吐く。


「じゃあ、行ってきますね」


 行ってらっしゃい、と微笑むと、燈の耳が赤くなったような気がした。気のせいだろうか。それを指摘する前に、扉はバタンと閉まる。


 もしかして、熱があるんじゃないだろうな、と雪生は心配になった。季節の変わり目は風邪をひきやすい。夕飯はなにか精をつけるものがいいかもしれない。


 そう考えてハッとする。そういえば炊飯器のスイッチを入れていない。どうしようか。このままだと夕飯は白米なしだ。燈は外食や中食でもいいと言うだろう。それでも、雪生は納得できなかった。


 あの家で、燈と向かい合って食べるのが楽しい。


 久しくあんな食事はしてこなかった。母が生きていた頃はそんなこともあったのだろうが。


 このまま燈を待っていたら、間に合わない。仕事など「やります」と一言答えればいいと思うのだが、燈は随分派手に渡り合うらしい。それでも最終的には味方にしてしまう。大したものだとは思うのだが、なんにしても遅い。


 悩んだ末に、雪生はそこら辺にあった紙に書き置きをして帰ることにした。




 雪生は生前、確かに人気はあった。しかしそれは一部の人間にだけだった。雪生を知らない人間だってもちろんいた。街を歩いていて声をかけられればそりゃあ手を振ったが、どちらかというと遊び歩くほうだったため、東京じゃ珍しがられなかった。また来たの、と呆れられることもしばしばだったのである。


 一人で歩く東京は、雰囲気はあまり変わらなかった。細かいところに目をつむれば、気のいいあいつらも出てきそうな夜である。


 懐かしさからか、雪生はあのころと同じ、サングラスだけの変装で歩いていた。


 もう少しで、あの家だった。燈は今ごろ、あの書き置きを見ただろうか。もしかして、怒ってるんじゃないだろうな。にわかに心配になったとき、灰色のパーカーを着た少年がこちらに寄ってきた。


「もしかして、田坂雪生さんですか」


 まだ幼い声。見れば、額には赤いニキビがあり、中学生から高校生くらいだと見た。


「そうだよ」


 雪生がはにかむと、少年は笑った。


「応援してます。サイン貰ってもいいですか」


 もちろん、と答えた。少年はスクールバックをごそごそと探し始めた。


「サインはいいけど、そろそろ帰れよ。子どもが出歩いていい時間じゃないぜ」


 ごそごそ、ごそごそ。

 やっと見つかったらしい。少年は一瞬動きを止め、立ち上がった。


 見えなかった。気づいたときには、下腹部のあたりが痺れるように熱かった。


 刺さっているのは、家庭で使うような包丁らしい。そこまで冷静に考えて、一気に汗が出た。


 少年はもういちどぐい、と包丁を押してから、笑った。


「俺、勇者(ヒーロー)だ……!」


 興奮で上気した頬に、ぞくりと悪寒が走った。


 膝をつくと、少年が走り去る音が聞こえた。重力に抗えずに横向きに倒れると、遅れて誰かが悲鳴をあげる。


 血だまりが広がっていく。身体が勝手にぶるりと震えた。


「っ……は……さむ、いな……はは……ははは……」


 薄れ行く意識の中思い出していたのは、なぜだか成谷燈の怒り顔だった。

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