①族長の罠
火山灰によって覆われた地表は、まるで一面の銀世界。
――空に浮かぶ霞は、すべて灰の仕業だ。
注意深く足元に目を凝らすと、白い灰の上には獣の足跡が続いているのが分かる。
火山が活発になるということは、長かった氷期の終わり、そして、間氷期が訪れたことを意味する。
灰にまみれた地表からはぽつぽつとシダ植物の新芽が顔をのぞかせ、芽吹きの気配を感じた動物たちも、暗い洞窟からのそのそと足音を忍ばせ表舞台へと姿を現す。
ナウマン象やヘラジカ、ハナイズミモリウシまで平地に出ているようだ。
間氷期は長く厳しい冬の休憩所。
動植物は、ここぞとばかりに足を伸ばす。
この時代の人間たちもその例外ではない。
各地に点在する集落では、楽しげに収穫の儀式を執り行い、きたるべき春の時代に備える。
この時期に儀式を行うために集中して祭具を作り、食糧を集める。
これらの重労働にもかかわらず、原人たちの眼はただ素晴らしい未来を夢見、一切の曇りを知らない。
冷酷な氷期に比べれば、こんなもの屁でもないというところだろうか。
……とはいうものの、全ての集落がこのように幸せな雰囲気を謳歌しているというわけではない。
その証拠に、東の最果てにある小さな集落には春の息吹が届いていないかのように陰鬱な空気が漂う。
連なる山脈の麓、脆い石層に数か所の穴を穿ち、原人たちはそこを住みかとしているが、
その内の一つの洞穴で、一人の原人が肩を落とし何かを呟いている。
△△△
間氷期が訪れたといっても、まだ肌寒さが残っている。
原人たちは寒さを防ぐため、枯れた植物を入口や岩壁につるしたり、重ねたりしている。
こうすることによって、暖かい空気を冷たい岩肌に吸い込まれないようにするのだ。
原人たちの知恵は侮れない。
「ガボレンガルスガボルグナ【いよいよ駄目かもしれんな】」
植物のつるを編んだ座布団の上に胡坐を掻き、腕を組んだ奥目の男は誰に言うともなしにひとりごちた。
しかし、こういう場面、耳聡いものにとってひとりごとは返ってよく響く。
部屋の片隅でどんぐりの皮剥きをしていた団子鼻の男が、奥目の男に体を傾けた。
「ガボルゲルガ、グールバドラルゲミュタガボル?【『駄目』って、何が駄目なんだ?】」
奥目は深いため息をつきながら団子鼻に向きを直し、ひと呼吸おいて答える。
「ヴォルブゲフライタノクラガ?フタガルブゲルナカチュキ、モチカレフタコナタレフンスク、モトホガレゴゴブルナ。ユナブルナガルゲボル“ニヨ”ムタレケスクノルタミカ……【お前まだ気がつかないのか?月が四度満ち欠けする間、族長はずっと穴蔵にこもって祈祷してるが、一向にオンナは生まれてこないじゃないか。唯一のオンナであるニヨ婆さんはとっくに子供を授かる年ではなくなっているし……】」
団子鼻はまだピンと来ていないので、あっけらかんと聞き返す。
「グールバドラルゲムルガオンガボル?【オンナがいないと何が駄目なんだ?】」
「ガボルノムルホンチッタ、フッコタリテンクナシ。ムルゴノシタリテンクナシ。キョンタクタニゴ。【オンナがいないと、コドモができないじゃないか。オトコだけでは作れない。そういう決まりになっているんだ】」
団子鼻は潰れた鼻をこすって、「俺を馬鹿にするな」と言いたげな顔だ。
「ムシカナノスタレオンジ。ブホール、グールガバドラルガフッコガボル?【それはいくら俺でも知ってるよ。でも、なんでコドモがいないと駄目なんだ?】」
奥目はようやく団子鼻にひとりごとを聞き取られたことが失敗だったと気づいたのか、すっくと立ち上がり団子鼻が握りしめている剥けたどんぐりを奪い取って口に頬張る。
「……。フッコノシカタレフンスク、エルモノンキタレジンカ。【……。コドモがいないと、シソンが残せないじゃないか】」
「グールバドラルゲエルムオンガボル――【シソンがいないと何が駄目――】」
団子鼻の言葉をさえぎるように、顔の整った若者が息を切らしあわてた様子で洞穴に飛び込んできた。その足には大量のつるが絡まっている。
「……ワルプノウ! “ニヨ”ムタレノイキシムブルゴ。【……大変だ!ニヨ婆が亡くなった】」
△△△
「昨晩、ニヨ婆が亡くなった。それは皆も知っているだろう」
族長が一段高い岩の上に腰かけ、集落の者どもに話しかける。俺はそれを後ろの方でミサキと並んで聞く。
「いつもなら、葬儀を執り行うのが通例だが、今はそれ所ではない。ニナ婆はあれでもこの村の唯一のオンナであった。……オンナの居なくなった村はいずれ滅亡するのだとわしの曾爺が言っていた。つまり、これは前例のない緊急事態なのだ!」
族長はただでさえ皺くちゃな顔を深くしかめている。度重なる祈祷によって心身ともに憔悴しているようだ。
ミサキは隣で族長の言葉に合わせて頭をふんふんと上下させている。
……にしてもミサキの奴、さっきから一応頷いては納得しているようには見えるが、本当に族長の言葉の意味が分かっているのだろうか。
昨日、ミサキには何度も「オンナ」や「コドモ」、「シソン」の意味について解説してやったが、結局あまり手ごたえはなかった。
今も頷いてはいるが、きっとその意味はよくわかってないに違いない。
「……そこでだ。この中から二人ばかしオンナを探す旅に出てもらいたい」
とたん、一気に周りが気色だった。
……当然だ。
集落にいる内は安全だが、一歩外に出ると周りは野獣だらけ。
サーベルタイガーや毒蛇もいる。
食糧だってない。
今はやっと氷期が終わったばかり。食糧を貯めるのはこれからだ。
食糧を現地調達しているうちにサーベルタイガーと遭遇し命を落としていった同胞をなんど見たことか……。
それをたった二人で旅に出るなど、まさに自殺行為だ。
なにより、オンナをどこかから調達することなど可能なのだろうか?
聞いたこともないぞ…。
「オンナはどうすれば手に入るのでしょうか?」
村一番の若者ハシが、彼らしく闊達な声で発言した。聡明で気のきく男。そういえば、昨日ニナ婆が死んだのを知らせに来てくれたのもハシだったな。
「……言い伝えによると、遥か西に集落があるということだ。わしらの祖先がこの地に来る前、仲間の内の数人が途中で別れ、その地に集落を築いたそうだ。要するに彼らは元をたどればわしらの仲間。今は途絶えているが、わしの曾祖父の頃までは交流もあったらしい。彼らに頼み込んでオンナを分けてもらうのだ。西の集落は月が一度満ち欠けする程の距離にある」
族長はハシの問いにあらかじめ用意してたかのように即座に答えた。
「なるほど。そういうことなら…」
自信ありげな族長の提案に、ハシも渋々納得したようだ。
見渡せば、ハシばかりでなく、皆も当初のようにざわめかなくなっている。
一つ疑問が解決されただけなのに、もう族長に丸めこまれてしまった形だ。
……まだ肝心なことが決まっていないというのに。
「それでは、一体誰がオンナを探す旅に出るというのですか?」
ハシが俺たちの気持ちを代弁してくれる。
「それでだ……」
そう言って族長はおもむろに立ち上がり、尻に敷いていたツタの座布団をむしり始めた。
そして、ツタを均一の長さにちぎる。
「ここに人数分のツタがある。この内の一本の先端だけに赤漆を塗る。赤漆が塗られたツタを引いたものが旅に出るのだ。赤漆を塗った部分は私が手で握り、引くまで分からないようになっているから公平だ。皆の衆、これで異存はなかろう?」
なるほど、族長も上手いこと考えたものだ。
誰もが嫌がる仕事だ。なかなか議論や相談で決まるものではない。
これなら多少なりとも公平感はあるし、運悪く当たったものも渋々ではあろうが旅に出るしかない。
「……ちょっと待ってください、族長。漆は誰が塗るのでしょうか?」
突然ハシがくってかかった。
誰が塗るかということに、問題があるというのか?
「もちろん、族長である私が責任を持って漆を塗らせてもらおう」
「ダメです!」
これほど凄みのあるハシは今まで見たことがない。
「何故だ?」
「それは族長が全てのツタに漆を塗る可能性があるからです」
「!」
「これでは何気なく最初に引く者を族長が決めてしまうことで、旅に出るものを族長が任意に操作できてしまう。ツタは私たちの方で衆人環視の中、漆を塗らせていただきます」
族長は面食らったように細い眼を見開いている。
……図星だったのだろう。
族長も出来れば死ぬ危険性の高い旅に、族長にとって大事な人間を出したくはない。
族長の望むべくは、村一番頭の出来がよくない役立たずのミサキや、族長に反抗的な人間、そう、例えばハシや俺のような者が旅に出ることだ。
オンナは手に入る、邪魔者は失せる、どっちに転んでも村にとっては美味しいという、そういう魂胆だったのだろう。
「……わかった。ハシの言うとおりにしよう。ただし、ツタを握るものが不正を行う危険があるので、ツタはわしが握ることにしよう。それでいいな?」
ハシは黙ってうなずいた。
【つづく】