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久しぶりに愛莉と顔を会わせたおれは、『祭り』の話を聞くことになる。
小汚い恵比寿の駅を出てから細い坂道を進んだ。
丸一日アルコール以外なにも口にしていなかったため、さきほどまではいささか腹が気持ち悪かったが、だいぶ好くなってきた。空腹感を満たすため出がけにデニッシュ・パンを食べ、薬を飲んだおかげだろう。日本橋の頭痛外来で処方してもらった鎮痛剤だ。気候のせいもあり、偏頭痛と診断された。頭の毛細血管が膨張しているのだと医者は言う。おれはもっと重大な症状なのではないかと考えていたが、暗い場所で安静にしていれば治まるという偏頭痛の典型らしい。
ゆっくりと坂をのぼっていたところ、携帯が震えた。
「先生? 着いた?」
電話の声の主は篠崎愛莉だった。少し鼻にかかった声が特徴的だ。
「ああ。適当に恵比寿の坂を歩いてる」
おれがぞんざいに答えると、愛莉は大声で言った。
「意味わかんないよう! なんで勝手に動いてるのさ!」
「いま、駅に戻るって」
携帯をしまうと、踵を返して足を速めた。
愛莉は駅のまえで恋人を待つような気配を漂わせて立っていた。黒縁のメガネと大きなマスクをして、白いサマージャケットを着ている。
「あ、先生!」
おれの姿に気づいた愛莉は、大きく手を振りながら小走りで駆け寄ってきた。
愛莉がおれのことを「先生」と呼ぶのは、おれがかつて彼女の家庭教師をやっていたからだ。結局、売れないグラビア・アイドルをしていた愛莉は大学進学を断念したため、家庭教師は不要となったわけだが。
家庭教師と生徒という関係でなくなれば完全な他人同士に戻ると思っていたが、世の中はもっと複雑だった。おれの妹と愛莉が友達だったという偶然と、以前別れた元カノと愛莉が仕事上の先輩後輩にあたるという偶然とが重なり、果たしていまとなってもこうやってたまに会っている。
愛莉はおれの顔を覗きこむようにすると、口角をニッと上げて言った。
「先生、元気してた? 電話でもよかったんだけどね、最近、顔見てなかったし」
「そりゃどうも」
「三時ごろまで空きができちゃったし、せっかくだからと思って電話したの。迷惑だった?」
「そういうことは電話で言えよ。大した用もないのにいちいち呼びだすな」
「用がなくもないから電話したのにィ」
愛莉は目をきょろきょろさせながら、街を眺めている。
「お昼、食べた? わたし、まだなの。なんの店にする?」
「おれはさっき軽く食ってきたからいいや。おまえの好きなとこでいいよ」
ダテメガネの奥の彼女の目は呆れた表情を浮かべていた。小さく溜め息をついてから、そこでいいかな? と交差点を渡ったさきのイタリアン・カフェを指差した。
おれは黙って頷き、足早に進む愛莉のうしろから横断歩道を渡った。
愛莉は店のオーナーと顔見知りらしく、オーナーはすぐに奥の個室を用意してくれた。愛莉とおれは、外国人客の目立つフロアの隅を脱け、店の奥へと通された。
愛莉は適当にアラカルトを選んだ。
おれは飲み物だけでいいとそれを断り、濃いめのマッキアートをボーイに頼んだ。
愛莉はテーブルの端の灰皿を中央に寄せると、おれの顔を窺った。
「タバコ、ずっと吸ってるの?」
おれはタバコの火を点けたあと、静かに頷いた。
彼女は、ふうん、とだけ答える。
ボーイが当たり障りのないマリネを運んできた。小皿を四枚ほど置いていった。
おれが要らないと言うにもかかわらず、愛莉はおれの分をとり分けて、テーブルに置いた。
「それにしても、こうやって会うのはどれくらいだろ? 半年?……最近は先生、全然イベントにも出てないって聞いてるし、少し心配してたの。郁ちゃんも心配だって言ってたよ?」
「おれだっていろいろ考えたいことがあるんだよ。いつもいつもイベントに顔出してばっかりいられねえよ」
「そかそか」
愛莉ははマリネを頬張りながら笑った。それから彼女は自分の近況を楽しそうに喋りはじめた。舞台の練習は仲間といっしょで楽しいのだとか、ダンスのレッスンで全身が筋肉痛なのだとか、おれにとってはどうでもいいことばかりだ。
たまたまローティーン向けファッション誌の専属モデルとしてデビューしてしまった愛莉だったが、元来、タレント業にさして興味もなく、テレビの仕事を毛嫌いしていた。中野の実家は裕福な土地持ちであり、必死になる意味を見出せなかったのかもしれない。春に高校を卒業してから、舞台や朗読の仕事をはじめるようになったとは聞いていたが、目のまえで芝居について熱く語っている愛莉を見れば、どうやらそれは彼女に合っていたらしい。
おれのまえに置かれたマッキアートがシンメトリーな幾何学模様をその表面に呈している。それはハートのようでもあり、メタセコイアの葉のようでもある。
「ねえ、先生」
愛莉の呼びかけに、おれは新しいタバコに火を点け、顔を少し横にして紫煙を吐きだした。
「先生って、ずっと変わらないね」
愛莉は子供のようにくすくすと笑った。
俺は顔をしかめて見せる。
「なんだよ、急に」
「先生、頭いいしおもしろいし、センスいいし郁ちゃんかわいいし。先生が最近大学にいってないって奈々さんから聞いて、舞台の知り合いも先生は音楽辞めたのかなぁって言ってたから、なにかあったのかなって思ったの。でも、わたしの考えすぎだったみたい。先生って、むかしから予測不能だもんね」
「おまえ、奈々と連絡とったりしてんのかよ?」
「そりゃあ、お仕事の先輩だし、なんたって先生のカノジョだったんだし……ね?」
パルマ産だという生ハムが運ばれてきたので、腹は減っていなかったおれも二枚ほど口にした。
「で、話ってなんなんだよ? まさかこんな近況報告会をしたかったってわけじゃないだろ?」
「うんうん」
愛莉はハムをごくりと飲みこんだ。
「それがね、聞いてよ。ムサシくんって憶えてる? モデルのムサシくん。あいつがね、仲間誘って『祭り』しようとしてんだけどね、先生にも声かけてくれって言ってうるさいのよ」
「『祭り』ってなんだよ?」
「知らない」
愛莉はつまらなそうに口を尖らせた。
「てかさ、きっとまた馬鹿なこと考えてるに決まってるんだし、先生、ムサシくんにやめとくようにって言ってやってよ」
ムサシというのは愛莉の知り合いのモデルの男だ。武藤親行という名前で、元K‐1選手の武蔵に似ているからムサシと呼ばれている。パンチの効いたツラをしていながらモデル業とは、世も末だ。
おれはタバコの灰を落として、言う。
「あの野郎、ずっとまえにもクスリやらかしてパクられそうになってなかったか?」
「うん、そう」
「あんなガキみたいなやつにはかかわりたくねえよ。断っておいてくれ」
「ねえ、先生。一言でいいからあいつに馬鹿しないでねって言ってやってよ? こんどわたしがヒロインやる舞台にキャスティングされてるの、ムサシくん。問題起こされたりしたらせっかくの舞台がお蔵入りになっちゃう」
愛莉はそう言って、懇願するような目でおれを見てきた。大きな瞳をした二重で、典型的なアイドル顔だ。
馬鹿らしいとは思いながら、おれにはちがう考えも浮かんできていた。
ムサシという人間は、それなりに黒いやつらと絡んでいる男だ。小野寺や棟木に関する情報を持っているかもしれない。
おれは吸いかけのタバコを潰すと、腕時計に目をやった。
「で、いまムサシはいま、どこにいるんだ?」
「うわあ、やっぱり動いてくれるんだね、先生!」
愛莉ははじける笑顔を見せると、おれと同じように腕時計を確認した。
「あいつ、きっと青学のところのスタジオで、知り合いのミュージシャンといっしょにいるはずだよ。インディーズの曲録ってるって言ってた」
「そうか。あそこのスタジオならおれも顔見知りがいる。様子見ついでにムサシにも声かけてきてやるよ」
「さっすが先生。ありがとー! てか、そろそろ時間ヤバいし、お店、出よう」
「このあとなんか用事あるのか?」
「うん。近くにある廃校の体育館で舞台の練習あるの。こんど赤坂でやるから。観にきてね! ヒロインだよ、ヒロイン! メインキャストですよ、お兄さん!」
店の外に出ると、愛莉はバッグを肩にかけなおして、ひらひらと手を振った。
「わたし、歩いてくから。それじゃあね!」
おれは愛莉に手を上げて応えると、傍を通りかかったタクシーを呼び止めた。
これから向かう音楽スタジオは青山通りから小道に入ったさきにあり、電車で向かうには適さない。それに空も少し曇ってきている。
おれが後部席に腰を落ち着かせるやいなや、タクシーは扉を閉めて走りだした。
フロントミラーの端に、白いサマージャケットを着た愛莉の背中が映って見える。
歳がふたつみっつしか離れていないのに、家庭教師と教え子というのは、冷静に考えてみれば至極滑稽な関係ではないかと、おれは思った。




