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ガス爆発事故に巻きこまれたおれは入院を余儀なくされた。そこで知ることになった真実に、おれはショックを受けざるをえなかった。そして最後に呟いたのは「アイム・ノット・ギルティ」という、マイケルのあの言葉だった。
窓の外には首都高速湾岸線が走り、そのむこうに本牧埠頭のコンテナターミナルがかすかに見える。
白を基調とした病室に、フラワーアレンジメントの鮮やかな暖色が映える。
ようやくひとりの時間に戻った。
さきほどまでおれの個室にいたのは、神奈川県警捜査一課の連中と厚労省の職員だった。簡単な事情聴取のようなものを受けた。
突然の爆発に巻きこまれたおれがどうなったのか、まとめておこうと思う。方々からの話を聞くこともできたため、いろいろな物事の真実が見えてきた。
横浜中区にあるアジア系のクラブである『藍靛』でガス爆発が起こった。おれやムサシが連れていかれたところが、その藍靛だ。
かねてから藍靛では各種麻薬の取引が行われてきたという黒い事実があるが、今回の爆発は完全な事故だったと見られている。老朽化したガス管から大量のガスが漏れだしていたが、食事の準備をしていた料理人たちは気がつかなかったらしい。建物全体が油臭かったせいだ。
救助隊が駆けつけた時点で、マフィアどもは散ってしまっていたようだが、捜査当局としては誰がいたのか大方の目星はついているのだと言っていた。マフィアの存在を考慮したところで、やはりこのガス爆発は一般的な事故として処理されることになるであろうと言われた。
事故現場に倒れていたのは中国人の料理人が数名と、おれとムサシだったという。
小心者のムサシは立川の強盗事件についても白状したようだ。その際、捜査員に対して、おれはまったくの無関係なのだと説明したらしい。
神奈川県警捜査一課の刑事はおれにもひととおり質問をしてきたが、おれがただの学生であることや、銃創などの状況証拠から、おれはシロだと見ているようだった。
おれはぼんやりと病室から外を眺めた。
全身がぴりぴりと痛むが、不思議なことに頭痛はない。
深呼吸をした。
マフィアの動きとパクスとは直接の関係がなかったという可能性が高まってきた。棟木の件についてはまだわからないこともあるが、マフィアたちはパクスのことについてはまったく触れなかった。つまり、おれは完全なる巻き添えをくったというわけだ。
ムサシは大きな怪我もなかったようで、警察で詳しく事情を訊かれているらしい。あいつは一度、冷や飯でも食って冷静になるべきだ。
ムサシやその一味については、正直なところ、あまり興味はない。おれが気にしているのはパクスのことだ。考えようによっては、このガス爆発も、巧妙に仕組まれた罠だった可能性は否定できない。濁った捜査眼の刑事は騙せても、おれの目はごまかされない。
誰かが病室の扉を軽くノックした。
おれは上半身を起こした。
姿を現したのは先輩だった。きょうは非番なのだろうか?
「よう、朝霧。派手にやられたなァ」
「ええ、まあ。初めて撃たれましたよ。しばらくは松葉杖生活になりそうです」
「貫通したんだって? 歩けるようになるまでどのくらいかかる?」
「半年もすれば歩けるみたいです。いきなりザッケローニにでも召集されない限り、生活していくぶんには多少の不自由だけで済みそうです」
先輩は大儀そうに身体を揺らしながら、ベッドの傍にスチール椅子を持ってきて、それに腰かけた。しばらく黙ったままおれを眺めていたが、やがて意を決したように口をひらいた。
「今回はこの程度で済んでよかったが……おれや滝山さんの心配していたとおりになっちまったな……」
「先輩や滝山さんが心配していたとおりに……? やはりパクスが関係していた――」
「また、『パクス』かよ。いい加減、目を覚ませ」
先輩はいつになく真面目な顔をしている。
「おれが心配していたのは、おまえが異常なまでにパクスのストーリーをつくりあげているってことだ。パクスをまるでこの社会のブレイクスルーのように信じこんでいる。おまえのそれは、まるで宗教だ」
「パクスは真実だ。おれはなにもまちがっちゃいないですよ」
先輩は困ったように頭を掻いた。
「おまえがあまりにも小野寺や棟木の事故について疑い深いもんだから、おれのほうでもちょっと調べてみたさ。結果はこうだ。棟木の事故死は正真正銘ただの事故だ。猪口会系の人間に追われていたのは、やつらが開帳していた麻雀の卓をいっしょに囲んでいたのが理由だ。棟木は高レート麻雀に手を出していやがった。政界の知人に誘われたのがはじまりだったらしいが、結局のところ、自業自得だ。大方、種銭尽きて踏み倒そうとでもしたんだろうよ」
棟木の死は単なる博打トラブルだというのか?
「小野寺の死も、あれはあいつがみずから暴動の渦中に飛びこんでいったのが原因だったのだろう。地元の新聞記者の話では、タイの若者以上に目立って叫んでいたらしい」
「仮にそうだとしても、あいつがタイに渡っていた理由はなんなんです? それに、先輩には話していませんでしたが、実は、おれのところにあいつから小包が届いてるんです。あいつの死ぬ数日まえにバンコクから送られてきた小包です。中身は大量の児童ポルノ動画でしたが、あれがなにを意味しているのかはまったくわからない。もしかすると、なにか国政と関係があるかもしれないとおれは考えて――」
「それも調べたよ」
先輩は呆れた声で言う。
「小野寺はタイをはじめとする東南アジアを頻繁に訪れていたが、その目的はルポライターの記事を書くためだった。だが、現地に慣れていくにつれ、日本では考えられないような児童買春を体験することになった。おまえが受け取ったという児童ポルノ動画は、おそらく小野寺が自分用に仕入れた大事なサンプルだ」
「小野寺本人のための? それならどうしておれに送ってきたんですか?」
「伝票を貼りまちがえたんだろう。まちがえたのは小野寺かもしれないし、バンコクの運送業者かもしれない。現に、小野寺の部屋にも小包が送られていたらしいが、その中身はおまえ宛のメッセージが一枚と、ゲームの違法改造プログラムを収めたUSBメモリだった。日本国内じゃ手に入りにくい違法プログラムを、手土産としておまえに送ったのだろうな。荷物といっしょに持ち帰るよりも安全な方法を選ぶところが小野寺らしい」
「ちょっと、待ってくれ……」
おれは布団を握りしめていた。
「先輩は、小野寺や棟木の死はただの事故であり、パクスとはまったく関係のないところで起こった出来事だったと、そう言うわけですか?」
「そうだ」
「そんなはずはないッ! おれたちは……小野寺や棟木は、パクスの深い部分にまで通じていたし、これは巧妙に仕組まれた罠にちがいない!」
「朝霧、いい加減にしろ」
「……そうだ! そもそも粛清の事実に目をつぶることは果たして可能なのか? 先輩だってよく知っているはずだ。バラさんの謎の失踪を……! あれからすべての歯車が狂ってきやがった……!」
先輩は廊下のほうを何度かチラチラと見てから、心なしかベッドに身体を寄せた。
「おまえたちは柏原直哉のことを心底崇拝していたようだったからここまでは黙っていたが、柏原は失踪してなんかいない」
「なんだって……?」
さっきから先輩の話はわけがわからない。おれの見てきた世界とは別世界の話だ。
「柏原は最低なことをやらかして、塾を辞めざるをえなくなったんだよ」
先輩は声を潜めて言った。
「いい歳こいて、塾の生徒だった複数の高校生と関係を持っていた。それがある親にバレで大問題に発展。とりあえずは示談で済ませたそうだが、会社のほうも誠意を見せることと柏原との関係を断ち切るという両方の意味で、柏原を解雇したのさ。当時、学生だったおれたちには詳細など知らせずにな。これこそがおまえが粛清だと思いこんでいたことの真実だ」
「いくら先輩だからって……ほんとにそんなことって……」
「冷静になれよ、朝霧。パクスはおまえが思うほど崇高ではなかったのだし、世の中はおまえが思うほど単純ではないということだ。おれが話したことは、滝山さんだって同じように理解している」
高円寺での滝山さんの言葉がおれの脳裡をよぎった。
――だからおれは罪を背負ったまま生きつづける。これは清水なんかも同じ気持ちだろう。誰も逃れられない。しかしおまえたちはちがう。パクスの呪縛に囚われる必要はない。
まさか、先輩や滝山さんの言うことが真実だというのか?
マフィアなんてこれっぽっちも関係なかった。
おそらく代議士連中のあいだで盛り上がりを見せている児童ポルノ法の強化改正案なども、パクスとはなんら関係なかったのだろう。
すべておれの勝手な思いこみだったのだ。パクスの本質を見抜けていなかったのは、おれのほうだったのだ。
悔しさのあまり、涙がこみ上げてくる。
俯いたまま唇を噛みしめていると、先輩が明るい声を出した。
「おい、朝霧。お見舞いがきたようだぞ」
先輩はそう言って椅子から立ち上がる。
「邪魔者は退散するぜ。ま、ゆっくりと養生することだな。健全なる精神は健康なる身体に宿る、だ」
先輩が笑いながら病室を出ていくその扉のところに、愛莉が突っ立っていた。泣きそうな顔をしていた。
愛莉は帰っていく先輩に小さく会釈すると、気まずそうな表情をしたままおれのベッドに寄ってきた。病室を見回してから、先輩の座っていた椅子にちょこんと腰を下ろした。抱えていた箱を棚に置いて、力なく微笑む。
「家の近くの果物屋さんで買ってきたの。リンゴジュース。果物だと、剥いたりするの、面倒でしょ?」
「おまえにしては気が利くな」
愛莉はおれの右脚を見ながら呟いた。
「ほんとにだいじょうぶなの? 死んじゃったらどうしようって、本気で心配したんだから」
「脚、撃たれたくらいじゃ死なねえよ」
「脚じゃなかったら死んでたかもしれないじゃん!」
愛莉はなんの前触れもなく、顔をおれに近づけた。
「ねえ、先生……」
距離が近い。
愛莉の大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
おれは、中学生のころみたいに、自分の身体が緊張しているのを感じた。
愛莉はまるでみずからに言い聞かせるように、一音ずつ噛みしめながら言った。
「なんでこんなことになっちゃったんだろ……」
あまりにも曖昧な表現の言葉であり、おれは愛莉の言わんとすることの三割も理解できなかった。しかしそんなことは些末な問題なのであり、おれの両腕は自然と動いて、愛莉の身体を抱き寄せていた。
愛莉の頭がおれの頬に当たっている。
おれは心のなかで「アイム・ノット・ギルティ」と呟いた。




