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ムサシと遭遇するや、あいつは懲りずに『祭り』の話を持ち出してくる。何度誘われようが、おれの不参加の意思は変わらない。
小野寺の死から数日経つにもかかわらず、大きな収穫もないまま時間を浪費しているような気がする。
それでも情報収集を怠らないよう気をつけている。不測の事態に備えて情報のネットワークを広げておく努力は絶えず行うべきなのだ。
パクスを離れてからもそのポリシーは不変であり、おれは各方面からネタを集めることに余念がない。情報収集だけではない。活動するうえで最低限のスキルとも言うべき語学や統計学、コンピュータ技術なども反復して学習し、咄嗟の場合にもスムーズに用いることができるように訓練していなければならない。
唯一おれが怠っていたのは肉体の修練だった。
そのように思い立って、数ヶ月ぶりに修斗のジムで汗を流してきた。
「身体を鍛えると誰しも内から自信がみなぎってくるもんだよ」
ボクシングのB級ライセンスを持つ小野寺から何度か聞かされた言葉だ。
先輩は柔道家であったし、滝山さんは長身を活かした無茶苦茶な暴れ方を心得ていた。パクスのメンバーは皆、知ってか知らずか、身体を鍛えるということを日常にとりいれていた。
小野寺は笑いながら言ったことがある。
「傷害罪で訴えてやるだとかほざく人間がいるけれど、ほとんどのやつらはケンカの意味をわかっちゃいないんだよ。ケンカで生き延びる手段を持たない弱者はすぐに言論や法を持ちだして相手を抑制しようと図るが、それは平和ボケした連中の発想に過ぎない。考えてもみろ。てめえがその場で死んじまったらそこで終了だろ?」
まさに小野寺の言うとおりだと、おれはひどく感心したものだ。
おれは五反田のジムからの帰りに、代官山のレコードショップに寄っていた。
九〇年代初頭のベイビーフェイスのリミックスアルバムを手にとって見ていたところ、聞き覚えのある声に呼びかけられた。
振り向くと、そこにはムサシが立っていた。手には小さな箱を入れた洋食屋のビニール袋を提げている。
ムサシと話すことなどないが、無視するのもわざとらしいと思い、おれは小さく返事してやった。
ムサシはおれが手に持つスポーツ用のボディバッグに気づき、それはなんだ? と尋ねてきた。
「ジム帰りなんだよ」
「ジム? あれってくたびれたリーマンがいくところかと思ってましたよ」
「スポーツ・ジムじゃあない。修斗のジムだ。知ってるか、修斗?」
「格闘技の? マジっすか。はんぱねえなあ」
「おまえこそ、こんなところでなにしてるんだよ?」
「ああ、おれですか? おれ、いま、舞台の稽古に参加してるんですよ。恵比寿にある廃校でやってるんですけどね、時間空いたからブラブラしてたんです」
「それ、愛莉が出演する舞台と同じやつだろ?」
「あ、知ってました? そうです、それっす。おれ、演技なんて初めてだから、稽古中からバリバリに緊張してますわ。意外とメインな役どころなんすよ?」
ムサシはレコードの棚を意味もなく眺めながら、言葉を選ぶようにして喋った。
「ところで朝霧さん、ほんとにダメですかね? 『祭り』の話。仲間たちとも相談して、近いうちに決行するつもりなんですけど、やっぱり朝霧さんの協力もあったほうがうまくいきやすいって思うんですよ。なにせ修斗やってるくらいですからね」
ムサシは阿呆みたいにワン・ツーを打って笑う。
「とりあえず番号だけでも交換しましょうよ」
ムサシは携帯を出しておれを促した。
「そうだな。だが、おまえの『祭り』とやらには興味はない。おれはそれどころじゃないんだよ」
おれは自分の携帯をムサシの携帯と背中合わせにしながら、はっきりとした口調で言い聞かせる。
「おまえたちがなにをやろうとおれの知ったこっちゃないが、けっして愛莉のやつを巻きこむなよ? あいつは馬鹿だから事の重大さを理解できないんだ」
「わかってますって」
ムサシは肩を竦めた。
おれはレコードを棚に戻すと、店を出ようとする。
「朝霧さん」
大きなムサシの声に、おれは振り向いた。
ムサシはビニール袋を顔のまえに掲げて軽く振って見せた。
「レイズン・ウィッチ、食べます? さっきそこで買ってきたンすけど」
おれが要らないと断ると、ムサシは残念そうな顔をしていた。
店を出たところで、スキンヘッドの中年男性に道を尋ねられた。片言の日本語の合間に中国語を挟んで喋るこの男は、おそらく中国人だろう。おれが道を教えてやると、案の定、謝謝と言ってきた。こっちが不要謝と応えると、男ははじけるような笑みを浮かべて、何度も謝謝と繰り返した。
始終を見ていたムサシもレコードショップから出てきて、中国語かっこいいっすね、と馬鹿みたいなことをこぼした。
近ごろ、不景気の世の中にもかかわらず、都内の億ションは売りにだしたら即日完売するのだという。買い手の半数は華僑だと言われている。華僑は横浜や神戸にできあがっている中華コミュニティに留まっていればよいのだ。分を超えた行動はいずれ我が身を滅ぼすことになるだろう。
帰りに都立大のパチ屋に寄った。エウレカセブンとかいうアニメのタイアップ機種をうっていたおれのとなりに、汗臭い野郎が座ってきた。梅雨の時期の腋臭は、もはやVXガスに匹敵する。おれは露骨に鼻を抑えながら、となりの腋臭野郎の太ももを蹴りあげた。
五分後、なぜかおれのほうが店員に注意を受けた。くそ。世の中あまりにも不条理だ。




