第9話 悪役令嬢のサバイバル・ガイド
旧校舎の控室で過ごした最初の三日間で、フィリアーネは二つのことを学んだ。
一つ。木の机の上で寝ると、翌朝、首が回らなくなる。
二つ。旧校舎には鼠が出る。
三日目の夜、枕代わりにしていた外套の上を何かが走り抜けた。フィリアーネは悲鳴を上げなかった。悪役令嬢は悲鳴を上げない。代わりに反射的に氷の矢を放ち、壁に直径三センチの穴を開けた。鼠は無傷で逃げた。
四日目の朝、フィリアーネは決断した。
ここでは駄目だ。
◇◇◇
学園の敷地は広い。
王立ノルトシュテルン学園の敷地面積は小さな町一つ分に相当する。本校舎、図書館、食堂棟、練武場、薬草園、温室、寮——これらが集中しているのは敷地の南側と東側だけで、北西部には手つかずの森林が広がっている。
原作ゲームではこの森林は終盤に一度だけ登場する場所だった。つまり——誰も来ない。
フィリアーネは四日目の放課後、トランクを引きずって北西の森に向かった。
◇◇◇
半刻ほど歩いた。
学園の建物群が完全に見えなくなり、木々の密度が増した辺りで、小さな沢に出た。丘の斜面から湧き出た水が、苔むした岩の間を流れている。
フィリアーネは沢の水を手で掬って飲んだ。冷たくて、美味い。
沢の傍にちょっとした平地があった。三方を木々に囲まれ、一方が沢に面している。地面は落ち葉が積もっているが、比較的平らだ。
トランクを置き、周囲を見回した。
「……ここにするわ」
腕を捲った。公爵令嬢の白い腕が秋の空気に晒された。
さて——何から始める。
◇◇◇
千紗は前世で、サバイバル系のYouTube動画を死ぬほど見ていた人間だった。
美咲には「千紗ちゃん、またブッシュクラフトの動画見てるの? 一生使わない知識だよそれ」と呆れられていた。千紗自身もそう思っていた。都内の大学に通う女子大生が、森の中で庇護所を組み立てる知識など、一生使う機会はないと。
——あったよ美咲。使う機会。異世界で。
まず住居だ。寝る場所がなければ話にならない。
動画で見た簡易シェルターの構造を思い出す。最も単純なのはリーントゥ型——二本の支柱の間に横木を渡し、片側に屋根を傾斜させる構造だ。材料は木と葉だけで済む。
問題は——千紗には丸太を切る斧がない。ナイフもない。ロープもない。あるのは公爵令嬢の白い手と、制服と、トランクの中の教科書と洗面用具だけ。
ただし——魔法がある。
戦闘用の氷魔法ではない。この三ヶ月の授業で習った、もっと基本的な魔法。
「基礎魔法学」の教科書の第二章に載っていた、地味で、華がなくて、試験にもほとんど出ない魔法体系——生活魔法。
◇◇◇
生活魔法。
正式名称は「日常補助魔法体系」。千紗がこの世界に来て最初に覚えた魔法が、実はこれだった。
理由は単純だ。攻撃魔法より先に、洗濯と掃除と料理の方法を知りたかったからだ。公爵令嬢の体に入ったはいいが、千紗は前世で一人暮らし四年間のベテランだ。自分の身の回りのことを侍女に全部やらせるのは、どうにも落ち着かなかった。
結果として——フィリアーネは学年で最も生活魔法に精通した生徒になっていた。他の貴族の子弟は生活魔法を馬鹿にしている。「平民の魔法」と蔑む者すらいる。授業でも扱いは最低限だ。
だが千紗は知っている。前世のサバイバル動画で学んだ最大の教訓——派手な技術より、地味な生活スキルの方が生き残る確率を上げる。
生活魔法の中身はこうだ。
【浄化】——水や食材の不純物を除去する。レベルが上がれば殺菌もできる。
【点火】——小さな火を起こす。属性を問わない基礎魔法。
【繕い】——布や革の小さな裂け目を修復する。魔力で繊維を繋ぎ直す。
【乾燥】——対象の水分を飛ばす。洗濯物を乾かしたり、濡れた薪を使えるようにしたり。
【硬化】——対象の表面を一時的に硬くする。本来は陶器の補修用。
【刃付け】——対象の一辺に切れ味を与える。包丁研ぎの魔法版。
どれもこれも、戦闘では何の役にも立たない。授業で教師が「まあ、知っておいて損はないでしょう」と投げやりに教えた内容だ。
だが今、この森で——これら全てが、生存に直結する。
◇◇◇
まず、道具を作る。
フィリアーネは沢の傍で手頃な石を拾った。掌より少し大きい、扁平な石。これに【刃付け】をかける。
魔力を指先に集中させ、石の一辺に沿って流す。石の表面が微かに光り——指で触れると、紙を切れるほどの切れ味が生まれていた。
石のナイフ。原始的だが、これがあれば枝を切れる。蔓を裂ける。食材を切れる。
次に、もう一つ大きめの石を拾い、同じく【刃付け】。こちらは枝に蔓で括りつけて、簡易の石斧にした。
括りつける蔓は、近くの木から採取した。蔓を裂いて細くし、濡らして巻きつけ、【乾燥】をかけると蔓が収縮して石をきつく締め付ける。
所要時間、約三十分。
フィリアーネの手には泥がこびりつき、爪の間に土が入り込んでいた。プラチナブロンドの髪に木の葉が引っかかっている。
公爵令嬢が森で石を削っている。冷静に考えると相当な絵面だ。
だが道具ができた。これで——建築に入れる。
◇◇◇
石斧で手頃な木を伐った。
腕の太さくらいの若木を選ぶ。太すぎると切れないし運べない。細すぎると支柱にならない。サバイバル動画で「材料の選定が一番大事」と言っていたのを思い出す。
三本目を伐り終えた時点で、息が上がった。フィリアーネの体は公爵令嬢の体だ。前世の千紗は運動音痴だったし、このフィリアーネの体も魔法に特化していて腕力はない。石斧を振るだけで腕が震える。
「……はぁ……はぁ……」
額の汗を袖で拭った。制服の袖が泥で汚れた。
——いいわ。あとで【繕い】と【浄化】をかければ元通りになる。生活魔法万歳。
支柱を五本伐り出し、平地に運んだ。動画の記憶を頼りに、リーントゥ型シェルターの骨組みを作る。
二本の支柱を地面に突き立てる。ただし地面が柔らかいのでそのままでは倒れる。石斧の背で地面に穴を掘り、支柱を差し込み、周囲に石を詰めて固定した。
二本の支柱の又の部分に横木を渡す。ここが屋根の棟になる。
残りの二本を斜めに立てかけて、片流れの屋根の骨組みにする。
蔓で結束する。蔓が足りなくなって、もう一度採取に行った。
骨組みが完成した時点で、日が傾き始めていた。
「……はぁ」
正直に言って、不格好だった。支柱の高さが揃っていないので骨組みが歪んでいる。横木が少しずれている。動画で見たのとは全然違う。
だが——立っている。倒れていない。それだけで十分だ。
◇◇◇
屋根が問題だった。
動画では大きな葉や枝を重ねて屋根にしていたが、この森の木々の葉はそこまで大きくない。一枚一枚重ねていたら日が暮れる。
フィリアーネは周囲を見回した。常緑の針葉樹が何本かある。その枝を大量に切り取り、骨組みの上に積み重ねた。葉が密集している枝を選べば、ある程度の雨除けにはなる。
枝を運び、積み、また運び、また積んだ。
ひたすら地味な作業だ。魔法の出番はほとんどない。あるのは二本の腕と、石斧と、サバイバル動画の記憶だけ。
枝を積み終えた時、空は完全に暗くなっていた。
フィリアーネは一歩引いて、完成したシェルターを眺めた。
控えめに言って——ボロい。
傾いた骨組みの上に針葉樹の枝を無造作に積んだだけの、どう見ても「丸太と葉っぱの塊」だ。公爵家の犬小屋の方がまだ立派だろう。
だが屋根がある。壁がある。横になれるだけの空間がある。
「……上出来よ」
フィリアーネは自分に言い聞かせた。
◇◇◇
シェルターの中に入り、地面に落ち葉を敷き詰めた。その上に外套を広げる。前世のネットカフェのフラットシートより——まあ、広さだけは勝っている。
火が欲しい。秋の夜は冷える。ダメ親父の言う通り、氷属性でも寒いものは寒い。
シェルターの入口の前に石を集めて竈を作った。乾いた小枝を集め、【点火】。
掌から小さな火の粉が飛び、枝に燃え移った。パチパチと音を立てて、小さな焚き火が起きた。
暖かい。
フィリアーネは焚き火の前に座り、膝を抱えた。
沢のせせらぎ。風に揺れる木々。虫の声。焚き火の明かりが木々の幹をオレンジ色に染めている。
……静かだ。
寮は静かだったが、あれは「音を立ててはいけない」という規律の静けさだった。ここの静けさは違う。誰にも気を遣う必要がない、本当の静けさ。
フィリアーネは火に手をかざしながら、ふと笑った。
公爵令嬢が森で焚き火をしている。石斧を作り、木を伐り、シェルターを建て、落ち葉のベッドで寝る。
前世の千紗が見ていたサバイバル動画の投稿者たちは、こういう生活を「ブッシュクラフト」と呼んで楽しんでいた。千紗は画面の向こうで「面白そうだけど絶対やらないな」と思っていた。
やっている。異世界で。公爵令嬢の体で。
◇◇◇
晩御飯は、森で採った木の実と、沢の水を【浄化】したものだけ。
木の実を齧った。渋い。
もう一つ齧った。やっぱり渋い。
「……明日は食堂で一食だけ食べよう」
手持ちの金を計算した。一日一食を食堂で食べるとして、残りの食事は森で調達する。これなら手持ちは三ヶ月——いや、四ヶ月は持つ。
薬草園で学んだ知識が役に立つ。食べられる植物の見分け方、毒草の特徴、保存方法。三ヶ月前は「なんでこんな地味な授業があるんだ」と思っていたが、今は薬草学の教師に感謝の手紙を書きたい気分だ。
それから——沢には魚がいる。小さな影が水の中を走るのが見えた。釣り竿は——蔓と枝と、石のナイフで骨を削れば針も作れる。明日の課題だ。
フィリアーネは焚き火に枝を足しながら、生存計画を頭の中で組み立てた。
住居:シェルター完成。ただし改良が必要。雨漏り対策、寝床の改善、収納スペースの確保。
水:沢の水を【浄化】。問題なし。
食事:朝は森の採集物。昼は食堂で一食。夜は採集物と魚。
衛生:沢で洗顔・洗濯。制服は【繕い】と【浄化】で維持。
学業:通常通り授業に出席。教科書は持っている。
そして最も重要な項目——偽装。
誰にもバレてはいけない。公爵令嬢が森で暮らしていることが知れたら、全てが終わる。キャラ格は暴落し、ディートリヒは余計なことをし、クリスティーナは面白がり、リーリエは心配する。
毎朝、完璧に身支度を整えて学園に出る。授業中は氷の公爵令嬢を演じる。放課後は速やかに森に戻る。これを三ヶ月、あるいはダメ親父の財政が回復するまで——繰り返す。
◇◇◇
焚き火が熾火になった頃、フィリアーネはシェルターに入り、落ち葉の上の外套に横になった。
腹巻きを巻いた。
ダメ親父の腹巻き。四日前は旧校舎の控室で巻いた。今日は森の中のシェルターで巻いている。使用環境のグレードが急速に下がっている。
だが——暖かい。腹巻きは、どこで巻いても暖かい。
天井代わりの針葉樹の枝の隙間から、星が見えた。
「……」
寮の天井は金箔の天蓋だった。旧校舎の天井は罅の入った漆喰だった。ここの天井は木の枝の隙間から見える星空だ。
一番綺麗なのは——ここだ。
フィリアーネは目を閉じた。
◇◇◇
翌朝。
沢で顔を洗い、制服に【浄化】をかけ、髪を水面を鏡にして整えた。完璧な氷の公爵令嬢の顔をつくる。
正門前の薔薇園のベンチで、リゼットから紅茶を受け取った。
「おはようございます、フィリアーネさま」
「おはよう」
「昨夜は……その……」
「快適だったわ」
嘘ではない。鼠はいなかった。
リゼットは何か言いたそうだったが、フィリアーネの「聞かないで」という目線を受けて、口を閉じた。
通りかかった生徒たちが、ベンチに座るフィリアーネを見て道を空けた。いつも通りの光景。
誰も知らない。氷の薔薇が昨夜、森の中で石斧を振り、落ち葉のベッドで腹巻きを巻いて寝たことを。
紅茶を一口。温かい。
「……さて。今日の放課後は釣り竿を作らなきゃ」
「え?」
「独り言よ」
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(第九話・了)




