第8話 氷の薔薇は金欠である
春季学期が終わり、夏期休暇に入った。
季節は夏に変わり、フィリアーネの学園生活もそれなりに軌道に乗っていた。キャラ格は190前後で安定。悪役令嬢の仮面にも慣れ、システムの癖も掴み始めた。
——順調、のはずだった。
◇◇◇
十月の第二週。
朝食後、リゼットが銀の盆に書簡を載せて持ってきた。封蝋にローゼンクランツ家の紋章——氷薔薇と剣。最高級の羊皮紙。ただし封蝋の押し方がやけに雑で、紋章が斜めっている。
フィリアーネは封を切った。
「フィリアーネよ。父より。まず言っておく。父は元気だ。元気だが、少々——いや、かなり——厄介な状況にある」
嫌な予感がした。
「単刀直入に言おう。お前の生活費を送れない。学費も送れない。寮費も送れない」
フィリアーネは三行目で読む速度が止まった。
「送れないのだ。送りたくないのではない。送れないのだ。この違いは重要だから二度言った」
三回書いてある。三回書くということは本気で金がないということだ。
「理由を説明する前に、父の名誉のために一つだけ言わせてくれ。悪いのは父ではない」
この書き出しは百パーセント本人が悪いやつだ。
◇◇◇
「事の経緯はこうだ。先月、帝都の秋季大公会にて、ブランケンハイム侯爵から面白い賭けに誘われた。侯爵とは旧知の仲であり、断るのは礼儀に反すると判断した。これは社交だ。賭博ではない。貴族の嗜みとしての社交だ」
「面白い賭け」と自分で書いておいて「賭博ではない」は無理がある。
「最初は小さな賭けだった。秋季競馬の勝ち馬を当てるだけの他愛もない遊び。父は馬を見る目には自信がある。ローゼンクランツ家の馬術の伝統は二百年に及び、父自身もかつて学園の馬術大会で三位に入賞した実績がある」
三位。二百年の伝統を持ち出しておいて三位。
「結論から言う。六連敗した」
フィリアーネは天井を仰いだ。
「六連敗だ。信じられるか。一回目はまだ分かる。二回目も運が悪かったと言える。三回目で取り返そうとしたのは合理的な判断だ。四回目は流れを変えるために必要だった。五回目はもう後には引けなかった。六回目は正直あまり覚えていない。ブランケンハイム侯爵の『もう一戦いかがですか』の笑顔が悪魔に見えた」
前世の千紗がパチンコで全財産を溶かした大学の先輩と全く同じ言い訳を、二百年の歴史を持つ公爵家の当主が羊皮紙に書いている。
「被害額についてはお前に伝える必要はない。ただ、お前の学費と寮費と生活費を合わせた三ヶ月分に概ね相当する額だった、とだけ言っておく」
概ね相当。つまり一銭残らず溶かした。
◇◇◇
ここまでは——まだ、三ヶ月の辛抱だと思えた。
だが次の段落で、フィリアーネの血の気が引いた。
「ここからは本当に言いにくい話をする。座って読みなさい」
フィリアーネは既に座っている。だが椅子をもう一段深く引いた。
「賭けの担保として、ブランケンハイム侯爵にローゼンクランツ領の東部鉱山の採掘権を三年間譲渡した」
フィリアーネは便箋を二度読んだ。三度読んだ。意味が変わらなかった。
東部鉱山。ローゼンクランツ公爵家の主要収入源の一つ。魔鉱石の産出で年間の領地収入の約四割を占める——と、設定資料集に書いてあった。
その採掘権を。三年間。賭けの担保に。
「三ヶ月分の生活費」どころの話ではなかった。公爵家の財政基盤そのものが三年間にわたって毀損された。
「加えて。お前に正直に言う。これは六戦目の担保だ。一戦目から五戦目までの負け分は、既に別の資産で支払い済みだ」
別の資産。フィリアーネは嫌な汗が出てきた。
「帝都の別邸は売却した。父の所有していた馬三頭も売った。母上の知らない隠し金庫の中身も全て使った。それでも足りず、六戦目で取り返そうとして——鉱山を賭けた」
フィリアーネは便箋を机に置いた。手が震えていた。
整理する。
帝都の別邸——売却済み。
馬三頭——売却済み。
隠し金庫——空。
東部鉱山の採掘権——三年間喪失。
つまり公爵家の裁量資金は完全に枯渇しただけでなく、今後三年間は主要収入源の四割が消える。領地の基本運営費と母上の持参金には手をつけていないとしても——フィリアーネに回せる金は、文字通りゼロだ。
三ヶ月の辛抱ではない。
三年だ。
「公爵家の財政が破綻したわけではない。領地の運営は維持できる。ただし——お前への送金は、鉱山の採掘権が戻るまで、一切できない。一切だ。学費も、寮費も、生活費も、ドレス代も、小遣いも。何一つ送れない」
「何一つ」の部分に二重線が引いてあった。自分で書いて自分で強調している。書いている途中で自分の行為の深刻さに気づいたのだろう。遅い。
「具体的に言えば、お前が学園を卒業するまでの残り三年間——父からの金銭的支援は全くないと思いなさい」
三年間。
学園生活の残り全期間。
フィリアーネは天井を仰いだ。
◇◇◇
便箋はまだ続いていた。
「ここで一つ、父として教訓めいたことを言わせてもらう。金というものは——」
フィリアーネは読み飛ばした。賭博で全財産を溶かした男の教訓に割く時間はない。
「——自立の機会を与えているのだ」
与えていない。あなたが奪ったのだ。
◇◇◇
裏面に入ると、筆跡が変わった。殴り書きから、深く硬い文字に。
「さて。ここからは真面目な話だ」
「先日、クリスティーナ第一王女殿下より書簡が届いた。お前が入学初日にセヴェリン第二王子の近辺にいたとのこと。この件については後日話す。今回の金の件とは関係がない」
フィリアーネの目はその次の段落に釘付けになった。
「ただし。王女殿下が調べる過程で、一つ、看過できない事実が浮上した。聖女適性試験の答案用紙のすり替え」
空気が変わった。
聖女適性試験。原作のフィリアーネがリーリエの答案を白紙と入れ替えた事件。千紗が転生する前の犯行。自分で告白すればOOC。放置すればリーリエの正当な評価が失われる。ずっと処理に困っていた負の遺産。
「フィリアーネ。これだけは言っておく」
筆圧が紙の裏側まで凹んでいた。
「勝てないなら堂々と負けなさい。それが貴族の矜持だ。小細工で他人を蹴落とすのは、父の教えたことではない」
賭博で六連敗した男のセリフとは思えないほど、重かった。
「答案の件は、王女殿下の手前、学園に是正を申し入れた。星宮リーリエの成績は再評価される。お前のしでかしたことの尻拭いを父がした。これについては——賭けの件とは違い——本当に怒っている」
フィリアーネは目を閉じた。
だが同時に——リーリエの答案が再評価される。千紗がどうやっても処理できなかった負の遺産が、勝手に解消された。
◇◇◇
便箋の最後。筆跡が殴り書きに戻っていた。
「追伸。ブランケンハイム侯爵への借りは、いつか必ず返す。父を信じなさい」
いつか。もはや「来月の茶会で」ですらない。「いつか」だ。
「追追伸。お前の学園生活を維持する方法を、父なりに考えた。この学園には成績優秀者向けの奨学金制度があるはずだ。調べてみなさい。ローゼンクランツの血を引く者なら、学業で結果を出せないはずがない」
奨学金を取れ、と。賭博で娘の学費を溶かした父親が、奨学金を取れと言っている。
「追追追伸。秋口は冷える。風邪を引くなよ。氷属性だからといって寒さに強いわけではない。父も氷属性だが冷え性だ。腹巻きを送る」
便箋はそこで終わっていた。
◇◇◇
フィリアーネは便箋を二つに畳んだ。
三年間。
あと三年間、この学園で——一銭の仕送りもなく——生き延びなければならない。
原作のフィリアーネは学園を追放される。だがそれは聖霊祭での事件がきっかけであり、金欠が理由ではない。金欠による退学は原作にないシナリオだ。退学すればゲームの物語から完全に外れる。キャラ格がどうなるか分からない。最悪——ゼロになって死ぬ。
つまりフィリアーネには選択肢が二つしかない。
一、奨学金を勝ち取って学園に残る。
二、退学してキャラ格崩壊の賭けに出る。
賭けはもう結構だ。父親ので懲りた。
「……奨学金」
千紗は前世で奨学金のことならよく知っている。日本学生支援機構の第一種と第二種の違い。GPA3.0以上の維持。申請書類の書き方。返済計画。大学四年間、奨学金なしでは生活できなかった千紗にとって、奨学金は生命線だった。
この世界の奨学金制度がどうなっているのか——まだ調べていない。調べなければならない。
だがまず——目の前の問題を片づける必要がある。
学費は今学期分が前納済み。問題ない。
寮費は——もう払えない。
◇◇◇
三日後。
寮の管理官が来た。
「ローゼンクランツさま。大変申し上げにくいのですが」
フィリアーネは全てを悟った。
「寮費のお支払いが確認できておりません。学費も来学期分以降の見通しが立たないと伺っておりますが——」
管理官は分厚い帳簿を抱えていた。
「学園の規定により、二ヶ月以上の滞納がある場合、寮室の明け渡しをお願いしております。また——」
管理官は一瞬、言い淀んだ。
「来学期の学費が納入期限までにお支払いいただけない場合、退学処分となります。期限は——冬期休暇明けの一月十五日です」
一月十五日。あと三ヶ月。
「ただし——」
管理官は帳簿のページをめくった。
「特待奨学金の受給者は学費と寮費が全額免除されます。次回の選考は——十二月の学期末試験の成績に基づきます」
特待奨学金。
フィリアーネは管理官の言葉を脳内で反復した。学期末試験で上位の成績を取れば、学費も寮費も免除される。
「選考基準をお聞きしてもよろしいかしら」
管理官は少し驚いた顔をした。ローゼンクランツ公爵令嬢が奨学金の選考基準を聞くとは思わなかったのだろう。
「学年総合成績で上位五名以内です。全科目の筆記試験と魔法実技試験の合算で判定されます」
上位五名。
フィリアーネの現在の成績順位は——考えたくもなかった。原作のフィリアーネは学業面では中の上。決して馬鹿ではないが、リーリエやクリスティーナには遠く及ばない。そもそも原作のフィリアーネは実家が裕福だったから、成績に必死になる理由がなかった。
だが今は——成績が命綱だ。
「期限は寮室の明け渡しと同様、今週末です」
◇◇◇
リゼットが泣いた。
「フィリアーネさま、そんな——お部屋を出るなんて——」
「やめなさい。騒げば噂になるわ」
フィリアーネは冷静を装った。
「リゼット。誰にも言わないで。わたくしの不在中、部屋の管理を任せるわ」
「でも——フィリアーネさまはどこに……」
「心配しないで。それと——毎朝、正門前の薔薇園のベンチに紅茶を一杯持ってきなさい。わたくしは朝の散歩が日課なの」
朝の散歩が日課だったことなど一度もない。だがこう言えば毎朝の連絡手段が確保できる。
「……はい。かしこまりました」
リゼットは涙を拭いて、深く一礼した。
◇◇◇
週末。
フィリアーネはトランクを片手に寮を出た。
旧校舎の二階の空き部屋。かつての教師用の控室。木の机と椅子が一脚ずつ。窓が一つ。鍵はないが、内側から椅子を挟めば簡易的なロックになる。
ここを仮の住処にした。
だが——三日で限界が来た。
旧校舎には鼠が出た。夜中にトランクを齧る音で目が覚めた。二日目の夜は天井裏を走り回る音。三日目は机の上に糞が落ちていた。
これは無理だ。
フィリアーネは旧校舎を捨て、学園の敷地を歩き回った。他に使える場所はないか。温室は夜間施錠される。図書館も同じ。練武場は寒すぎる。
足が——森の入り口で止まった。
学園の北西部に広がる森。敷地内だが、授業以外で立ち入る生徒はいない。
千紗は前世で、YouTubeの「ブッシュクラフト」動画を見るのが好きだった。ナイフ一本で森に分け入り、シェルターを建て、火を起こし、魚を釣る。「都会に疲れたOLが週末だけ野生に還る」というコンセプトのチャンネルを、毎週欠かさず見ていた。
まさか——あの知識が、異世界で役に立つ日が来るとは。
フィリアーネは森に入った。
◇◇◇
翌朝。正門前の薔薇園のベンチ。
制服に【浄化】をかけ、短くした髪を手櫛で整え、完璧な氷の公爵令嬢の顔を作ったフィリアーネが座っていた。
リゼットが紅茶を持ってきた。目が赤かった。
「おはよう、リゼット」
「おはようございます、フィリアーネさま」
フィリアーネは紅茶を一口飲んだ。温かい。
通りかかった生徒たちが、いつも通り怯えた顔で道を空けた。誰も気づかない。氷の薔薇が昨夜、森の中で蔓と枝で組んだシェルターで腹巻きを巻いて寝たことを。
フィリアーネは紅茶のカップを優雅に口元に運んだ。
学費の納入期限まで三ヶ月。
奨学金の選考基準は学年上位五名。
仕送り再開の見込み——三年後。
頼れるものは——自分の頭と、ダメ親父の腹巻きだけ。
視界の端にシステムの文字が浮かんだ。
【現在キャラ格:232】
【注意:生活環境の悪化が検知されました。キャラ格維持のため、公爵令嬢としての品位を保つことを推奨します】
「……品位なら、ある方よ。品位だけは」
金はない。部屋もない。仕送りは三年来ない。
だが悪役令嬢は、弱音を吐かない。
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(第八話・了)




