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第7話 氷の皇子の正しい使い方


 ——待て。


 フィリアーネは石壁の陰で、息を止めた。


 この場面を、知っている。


 練武場の裏手。夕暮れ。防具を磨く少女。嘲笑う側近。十字架が奪われる——そしてその直後に、ある人物が現れる。


 攻略Wikiのスクリーンショットが、脳裏にフラッシュバックした。薄闇の通路に立つ長身の影。黒髪に銀灰色の瞳。逆光の中で、低く短く、たった一言。


 『——返せ』


 【セヴェリンルート 初登場CG「沈黙の裁定」 ※見逃すと好感度回収不可】


 ——これだ。セヴェリン・フォン・ノルトシュテルンの初登場イベント。


 原作では、ディートリヒが十字架を奪ったこの場面に第二王子が偶然通りかかり、無言の圧力でディートリヒに十字架を返させる。セヴェリンルートの起点。攻略Wikiのコメント欄で「たった二言で好感度MAXにする男、反則」と絶賛されたイベントだ。


 だが——原作にはその先がある。


 セヴェリンが去った後、ディートリヒが逆ギレし、十字架を再びリーリエから奪って投げ捨てる。鎖が枝に引っかかり、十字架は梢の上。リーリエは地面しか探さないから見つからない。やがて探すのをやめた日が、闇堕ち第一段階「不信」の起点。


 千紗はプレイ当時、レビューサイトに星一つを叩きつけた。「セヴェリンの『もう大丈夫だ』の三分後に全然大丈夫じゃなくなる脚本は犯罪」と。


 つまり、やるべきことは二つ。


 セヴェリンの初登場イベントを発動させること。そして——原作で起きるセヴェリン退場後の逆ギレを阻止すること。


 だがまず。


 フィリアーネは耳を澄ませた。


 練武場の方角——素振りの音がない。セヴェリンはまだ来ていない。フィリアーネが迷子になったせいで全ての事象が前倒しになり、セヴェリンの到着が間に合わない。


 ディートリヒは今にも去ろうとしている。


 ——引きずり出すしかない。


 フィリアーネは石壁の裏側を回り、練武場の表側に向かった。


◇◇◇


 千紗は前世で、友人から「十七人格」と呼ばれていた。


 別に多重人格障害ではない。声の切り替えが異常に上手かっただけだ。大学のオタクサークルで朗読劇をやっていて、文化祭で十七役を一人で演じ分けたら、後輩にSNSで拡散された。「#十七人格の先輩」というタグ付きで。


 サークル仲間の美咲には「千紗、あんたの声変わりすぎて怖い。普段のぼんやり声からいきなり悪役令嬢の声出すのやめて」と引かれた。声優になれるかと一瞬考えたが、「お前は声はいいけど滑舌が壊滅的」と全力で止められた。


 前世では、それだけの話だった。


 だがフィリアーネの体に入って——千紗は気づいた。この声帯は、「十七人格」の技術と恐ろしいほど相性が良い。前世の地声は平凡なアルトだったが、フィリアーネの声は澄んだソプラノに倍音がかかっている。トーンを少し変えるだけで印象がガラリと変わる。


 千紗の演技力+フィリアーネの声帯。


 システムにも登録されていない、この世界で自分だけが持つ隠し技。


 今がまさに、使いどころだった。


◇◇◇


 練武場に向かう石畳の道の向こうに、人影が見えた。


 黒髪。長身。木剣を片手に。制服のケープに王家の紋章。


 セヴェリン・フォン・ノルトシュテルン。これから素振りに来るところだ。距離はおよそ三十メートル。


 フィリアーネは練武場の柱にもたれかかり、夕暮れの空を見上げた。


 声のトーンを切り替える。十七人格のうち第四人格——「無自覚サディスト令嬢」。文化祭で一番ウケたやつ。美咲が「この声ほんと殴りたい」と言ったあのトーン。


 「……ふふ。今日は楽しい一日だったわ」


 誰に言うでもなく。独り言。


 「お昼はあの平民を中庭に立たせておいたし——ディートリヒにも、少しは教育してあげなさいと言っておいたけれど」


 指先でプラチナブロンドの毛先を弄びながら、くすくすと笑った。


 「あの子、今頃どうしているのかしら。練武場の裏手で防具でも磨かされているかしらね。ディートリヒのことだもの、きっと山ほど押し付けているのでしょうけれど」


 ため息をついた。わざとらしく。


 「まあ、平民にはそのくらいがちょうどいいのだけれど」


 ——演技終了。十五秒。


 完璧な悪役令嬢のモノローグ。OOCリスクはゼロ。だがこの十五秒に、情報が三つ入っている。練武場の裏手。平民が虐げられている。ディートリヒが現場にいる。


 フィリアーネは柱から背を離し、歩き出した。セヴェリンの方を一度も見なかった。


 三十メートル先で——セヴェリンの足が止まった。


 歩く方向が変わった。練武場の正面ではなく、裏手に回る道に。


 フィリアーネは振り返らなかった。口の端だけが、僅かに上がった。


◇◇◇


 フィリアーネは別ルートで裏通路に戻った。


 ディートリヒはまだいた。通路の端で取り巻きと話している。間に合った。


 石壁の角から、堂々と姿を現した。


 「フィ——フィリアーネさま!?」


 ディートリヒの声が裏返った。


 フィリアーネは冷ややかに通路を見渡した。


 「……何、この有様は」


 ここからはフィリアーネの独壇場だった。通路の管理がなっていない。蔦が生え放題。石畳が苔だらけ。用具係の腕章をつけているのはあなたでしょう——公爵令嬢が下級貴族の怠慢を叱責する。完全にキャラ通り。


 目的は一つ。ディートリヒをこの場に留めること。


 三分。五分。指摘事項が十五を超えた辺りで、ディートリヒが不意に表情を変えた。叱責に耐える顔から、媚びるような顔に。


 「あの、フィリアーネさま! 実は先ほど、この平民から面白いものを取り上げまして——」


 ポケットから十字架を取り出した。掌の上で転がし、得意げに差し出す。


 「鍍銀の安物なんですが、随分大事にしていまして——」


 リーリエの体が震えた。


 フィリアーネは十字架を一瞥し、鼻を鳴らした。


 「……くだらない。そんなものに——」


 足音が聞こえた。


◇◇◇


 通路の入口に、長身の人影が立っていた。


 黒髪。銀灰色の瞳。手に木剣。王家の紋章。


 セヴェリン・フォン・ノルトシュテルン。


 ——来た。


 セヴェリンは通路の入口から、一瞬で全てを見た。散乱した防具。地面に座り込んだリーリエ。首元の鎖が切れた跡。手首の赤い痕。そしてディートリヒの掌の上の十字架。


 銀灰色の瞳が、十字架からリーリエの首元に移動し、再びディートリヒの手に戻った。


 通路に足を踏み入れた。


 ディートリヒが振り返った。顔が白くなった。


 「セヴェリン殿下!?」


 セヴェリンはディートリヒの前まで歩いた。掌の上の十字架を一瞥し、リーリエの首元を見た。


 一言。


 「——返せ」


 低い声だった。短く、静かで、温度がなかった。怒りですらない。ただの事実確認のような声——だがその一語に込められた圧力は、フィリアーネの五分間の説教より重かった。


 ディートリヒの膝が震えた。


 「あ、あの、殿下——これはその——」


 セヴェリンは答えなかった。無言で手を差し出した。掌を上に向けて。


 五秒。十秒。


 ディートリヒの手が、震えながら十字架をセヴェリンの掌に載せた。


 セヴェリンはリーリエの前まで歩いた。十字架を差し出した。


 リーリエが震える手で受け取った。両手で胸に抱いた。涙が溢れた。


 「ありがとう、ございます——」


 セヴェリンはリーリエの頬に残る涙の跡を見て——もう一言だけ。


 「——もう大丈夫だ」


 低く、短く。だがその声には——さっきの「返せ」にはなかった、確かな温度があった。


 フィリアーネは三メートルの距離で目撃していた。


 ——ああ、なるほど。これが初登場CG「沈黙の裁定」か。たった二言。「返せ」と「もう大丈夫だ」。Wikiのコメント欄で「二言で好感度MAXにする男、反則」と絶賛されていた理由が、今なら分かる。


 セヴェリンは踵を返した。通路を出ていく。


 フィリアーネの横を通り過ぎる時、足は止めなかった。だが銀灰色の瞳が、ほんの一瞬だけフィリアーネの方に動いた。


 何かを見抜いたような目。


 ——だが何も言わず、角を曲がって消えた。


◇◇◇


 さて——ここからが本番だ。


 フィリアーネはディートリヒを見た。案の定——屈辱と怒りが顔に渦巻いている。目がリーリエに向いた。


 原作では、ここからディートリヒが逆ギレする。セヴェリンに逆らえなかった鬱憤を、リーリエにぶつける。十字架を再び奪い、投げ捨てる。


 フィリアーネは先手を打った。


 「ディートリヒ」


 氷の声。


 ディートリヒがびくりと振り返った。


 「もういいわ。帰りなさい」


 「で、ですが——」


 「殿下にまで見咎められて——これ以上ここにいて恥の上塗りをするつもり?」


 一拍置いて、畳みかけた。


 「あなたの不始末のせいで、わたくしまで殿下にみっともないところを見られたの。分かっているの?」


 これが効いた。「フィリアーネさまの面子を潰した」——忠犬にとって、これ以上の罪はない。


 ディートリヒの顔から血の気が引いた。


 「……申し訳ございません」


 「今日のところは下がりなさい」


 深く頭を下げて、取り巻きを連れて去った。リーリエに一度も視線を向けなかった。フィリアーネの怒りが自分に向いている限り、リーリエどころではないのだ。


 第三幕——阻止完了。


◇◇◇


 通路にはフィリアーネ、リーリエ、ミアの三人だけが残された。


 リーリエは十字架を胸に抱いて、静かに泣いていた。ミアが肩を抱いている。


 フィリアーネは二人に背を向けた。


 「……暗くなるわ。さっさと帰りなさい」


 「フィリアーネさま」


 リーリエの声が背中にかかった。


 「……ありがとう、ございます」


 フィリアーネの肩がぴくりと動いた。


 「何のこと? わたくしは何もしていないわ」


 通路を出た。


◇◇◇


 人目のない場所で、壁にもたれかかった。


 長く息を吐いた。


 ——終わった。


 視界の端が赤く染まった。


 【違反:OOC キャラ格ー3】


 【理由:独り言の声量がやや不自然。意図的な情報伝達と判定(軽微)】


 ——三点。独り言の声量で三点。十七人格の先輩でも、異世界のシステムの採点は厳しいらしい。


 だが直後——視界が鮮やかな緑に切り替わった。


 【セヴェリン・フォン・ノルトシュテルン初登場イベント「沈黙の裁定」正常発動:キャラ格+10】


 【原作改善:十字架の再喪失を阻止:キャラ格+30】


 【原作改善:闇堕ちトリガー無効化:キャラ格+30】


 【「悪役令嬢の独白」を情報伝達手段として活用:知能+30】


 【合計:ー3+10+30+30+30=+97】


 【現在キャラ格:197】


 197。初期値のほぼ倍。


 フィリアーネは天を仰いだ。


 「……使い方さえ分かれば、最高の駒ね。殿下」


 それから——練武場の方角を一瞬だけ振り返った。


 セヴェリンが通り過ぎた時の、あの視線。何かを見抜いたような銀灰色の瞳。


 あの男、どこまで気づいている?


 フィリアーネは首を振った。考えすぎだ。


 ……たぶん。


 寮に向かって歩き出した。今度は迷わなかった。


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明白了!ncode风格的作者留言,标题从"章"改成"話":


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## 作者のつぶやき


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 ここまでお読みいただきありがとうございます!


 第1話〜第7話で「序章編」がひとまず完結しました。


 ひとことで言うと、フィリアーネが丸一日かけて胃を痛めた話です。


 次回から少し時間が飛びます。修行パートです。


 フィリアーネが悪役令嬢の皮を被ったまま、氷魔法の鍛錬をしたり、システムの抜け穴を研究したり、十七人格の演技力を磨いたりします。


 地味ですが大事な回なので、なるべくテンポよく書きます。


 感想・評価・ブックマークいただけると、作者のキャラ格が上がります。


 それでは次回、第8話でお会いしましょう。


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