第6話 壁の花は見ている
ディートリヒの赤銅色の瞳が、リーリエの胸元の十字架に固定されていた。
「見せてみろよ。何をそんなに隠す?」
リーリエは半歩退いて、両手で十字架を胸元に押さえた。
フィリアーネは石壁の陰で息を殺した。さっきまでの物思いなど吹き飛んでいた。全神経がリーリエとディートリヒの間に集中している。
リーリエの反応は、さっきまでとまるで違っていた。
雑用を押し付けられても黙って従った。鈍臭いと嘲笑われても頭を下げた。だが今——首を横に振っている。
「……お願いします。これだけは」
初めての拒否だった。
◇◇◇
ディートリヒの笑みが消えた。
この男は、普段リーリエが何をされても大人しく従うのを見慣れている。反抗されるという想定がそもそもない。だからこそ、初めての「拒否」に対する反応は——苛立ちだった。
「大したものじゃないだろ? ちょっと見るだけだ」
もう一歩、詰め寄った。リーリエの背中が石壁に当たった。退路がない。
ミアが叫んだ。
「やめなさいよ! リリィが嫌だって言ってるでしょ!!」
ディートリヒの後ろの男子生徒二人が、無言でミアの前に立ちはだかった。体格差がありすぎる。ミアは押しのけようとしたが、両腕を掴まれて動けない。
「離して! 離してってば!!」
ミアが暴れる音。リーリエが「ミア!」と叫ぶ声。
フィリアーネの指が、無意識にぴくりと動いた。
——出たい。今すぐ出て止めたい。
脳内で、あの耳障りな警報音が鳴った。
【警告! OOC警告!】
【『フィリアーネ・ローゼンクランツ』はこの状況においてリーリエを庇いません】
フィリアーネは奥歯を噛み締めた。
分かってる。分かってるから黙れ。
◇◇◇
ディートリヒがリーリエの手首を掴んだ。
「いい加減にしろ。たかがアクセサリーだろうが」
リーリエの細い手首が捻り上げられた。彼女は小さく悲鳴を上げたが、十字架を持つ手は離さなかった。
フィリアーネは石壁の陰から、その光景を凝視していた。
——あの子の目が、変わっている。
さっきまでの穏やかな紫と金の瞳ではない。右の紫の瞳の奥に、何か暗い炎のようなものが揺れている。左の金の瞳が、夕暮れの光とは無関係に、微かに——本当に微かに——発光しているように見えた。
千紗はこの変化を知っている。ゲームの中で、何度も見た。
闇堕ちの、前兆だ。
リーリエが本気で怒る時——いや、怒りを通り越して、世界への信頼が一枚また一枚と剥がれ落ちていく時——左目の金色が光る。まだ本人も気づいていない。体内に眠る魔族の血が、負の感情に反応して脈動し始めている。
今はまだ微かな明滅にすぎない。だが積み重なれば——
【あの頃のわたしは愚かでした。どれだけ耐えても、どれだけ頑張っても、この世界はわたしに微笑んではくれないのだと——気づくのに、ずいぶん時間がかかりました】
——この独白に、繋がる。
◇◇◇
ディートリヒがもう片方の手で、十字架の鎖を掴んだ。
リーリエが叫んだ。
「やめてください!!」
今日初めて、リーリエが声を荒げた。
フィリアーネの心臓が跳ねた。ミアも動きを止めた。ディートリヒの後ろの二人も一瞬ひるんだ。
だがディートリヒはひるまなかった。
むしろ——にやりと笑った。
「へえ。お前でもそんな声出せるんだな」
力を込めて、鎖を引いた。
ぷつり、と。
細い鎖が切れる、小さな音がした。
十字架がリーリエの首元から離れ、ディートリヒの手の中に落ちた。
◇◇◇
静寂。
リーリエの手が、宙を掴んだ。何もない空間を、指先が虚しく探った。
ディートリヒは十字架を摘まみ上げ、夕暮れの光にかざした。くるくると回す。
「……なんだ」
鼻で笑った。
「鍍銀かよ。本物の銀ですらねえ」
後ろの二人に見せびらかすように、十字架をひらひら振った。
「こんなガラクタを後生大事にぶら下げてたのか? どこの露店で買った安物だ?」
くすくす笑いが通路に響いた。
フィリアーネの指が、石壁の表面に爪を立てていた。
——ガラクタ。安物。
お前に何が分かる。
あの十字架は、老シスターが——リーリエを拾って育ててくれたたった一人の家族が——長年かけて少しずつ貯めた金で買ったものだ。本物の銀だと信じて。リーリエの幸せを祈って。
騙されていたのだ。行商人に。本物の銀の十字架だと言われて、法外な値段で偽物を掴まされた。その事実を知った時の衝撃が、老シスターの病状を悪化させ、最期を早めた。
だからあの十字架は——リーリエにとって、老シスターの愛と、老シスターの後悔と、自分が何も守れなかった無力さの全てが詰まった、世界でたった一つの宝物なのだ。
ガラクタ?
お前が今ひらひら振り回しているそれは、一人の少女の人生そのものだ。
フィリアーネは自分の目尻が熱くなるのを感じた。
——泣くな。ここで泣いたら終わりだ。
◇◇◇
リーリエの声が聞こえた。
「——返してください」
低い声だった。静かで、平坦で、感情を完全に押し殺した声。
フィリアーネは背筋が凍った。
やはり——この声だ。闇堕ち直前の声。
ディートリヒは気づいていない。当然だ。こいつにとって、リーリエは大人しいだけの平民の小娘に過ぎない。声のトーンが変わったことに気づくはずがない。
「返す? まあ返してやってもいいけど——」
ディートリヒは十字架をポケットに入れた。
「残りの防具、全部終わらせろ。明日の朝までにな。そしたら返してやる」
ミアが男子生徒の腕の間から叫んだ。
「最っ低!! あんた人間じゃないよ!!」
ディートリヒはミアを一瞥して、せせら笑った。
「うるさいな、ヘッセンドルフ。身の程を弁えろよ、平民が」
それから二人の取り巻きに顎をしゃくった。
「行くぞ」
三人はそのまま通路の反対側——フィリアーネが隠れている方とは逆の方向——に歩いていった。ディートリヒの口笛が、夕暮れの空気の中で軽薄に響いた。
十字架を、ポケットに入れたまま。
◇◇◇
通路に、リーリエとミアだけが残された。
ミアは解放された腕を押さえながら、去っていった三人の背中を睨みつけていた。目に涙が光っている。怒りと悔しさの涙だ。
「リリィ……あたし、絶対に取り返すから。先生に言う。学園長にだって——」
「いいの」
リーリエの声は、もう元の穏やかな調子に戻っていた。
だが。
何かが、決定的に変わっていた。
それが何なのか、フィリアーネには分かる。声の調子は同じだ。微笑みも同じだ。だが——目が笑っていない。いや、正確に言えば——左の金の瞳の奥の、あの微かな光が、消えていない。
さっきディートリヒに十字架を奪われた瞬間に灯った光が、まだ残っている。
リーリエは地面にゆっくりとしゃがみ込み、散らばった防具を拾い上げた。雑巾を手に取り、また磨き始めた。何事もなかったかのように。
ミアは唇を噛んだ。
「リリィ……」
「大丈夫」
リーリエは微笑んだ。
「明日の朝までに終わらせれば、返してもらえるんだから」
その声は穏やかで、微笑みすら浮かんでいた。
だがリーリエの手は——雑巾を握りしめる指先が、白くなるほど力が入っていた。
◇◇◇
フィリアーネは石壁の陰で、拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込んでいる。痛い。だが痛みで、頭が冷える。
この一部始終を——全部、見ていた。全部、聞いていた。
何もできなかった。
途中、何度も飛び出そうとした。ディートリヒがリーリエの手首を掴んだ時。鎖が切れた時。十字架を「ガラクタ」と呼んだ時。
その度に、脳内で警報音が鳴り響いた。
【『フィリアーネ・ローゼンクランツ』はこの状況においてリーリエを庇いません】
【選択可能な行動:①無関心に通り過ぎる ②ディートリヒの行動を黙認する ③自らリーリエを嘲笑する】
三つとも、クソだ。
だが出られなかった。キャラ格は初期値の100。大幅に削られたら、初級ミッションの解除どころか、送還——つまり死——が待っている。
死んだら、何も変えられない。
分かっている。理屈では、完璧に分かっている。
——だが。
千紗はゲームをプレイしていた時、この手のシーンを何度も読んだ。リーリエが理不尽な仕打ちを受けるたびに、「可哀想だけど、まあゲームだし」「悪役令嬢のやることだし」「闇堕ち後にちゃんと報復するし」と——読み流していた。
画面の向こう側の出来事だったから。
今は違う。
石壁一枚を隔てた向こう側で、少女が泣かずに防具を磨いている。泣いた方がまだましだ。泣けるということは、まだ世界に対して期待があるということだから。泣かなくなった時が——本当に危険な時だ。
フィリアーネは目を閉じた。
——あの十字架は、取り返す。
必ず。
どうやって?
自分で取り返す? 無理だ。ディートリヒに「返しなさい」と命じた瞬間、それはリーリエを庇う行為と判定される。OOCだ。
「わたくしが欲しいから寄越しなさい」と言えば? ……一応、フィリアーネの傲慢さの範囲内かもしれない。だがリスクが高い。あからさまにリーリエの持ち物を欲しがる理由がない。
リゼットに頼んで取り返させる? リゼットにそんな度胸はない。そもそもリゼットがディートリヒに楯突いたら、リゼットまで巻き込まれる。
先生に報告する? フィリアーネが告げ口? 論外だ。公爵令嬢が教師に泣きつくなど、原作のフィリアーネなら死んでもやらない。
じゃあ——
フィリアーネは考えた。考えて、考えて、考えた。
自分では動けない。自分の手駒も使えない。教師にも頼れない。
だったら——**自分の関係者ではない第三者**に、**勝手に介入させる**しかない。
フィリアーネがリーリエを庇ったらOOCになる。
だが——フィリアーネと無関係の誰かが、たまたまディートリヒの行為を目撃して、その人物の性格上当然の行動として介入したなら——フィリアーネには何の責任もない。
「たまたま居合わせた」だけだ。
問題は——誰が?
この学園で、ディートリヒの行為を見て黙っていられない人間。かつ、ディートリヒに対して有効な圧力をかけられる人間。かつ、フィリアーネが「偶然を装って」接触しても不自然ではない人間——
◇◇◇
その時、練武場の方から——かすかな音が聞こえた。
規則正しい、硬質な音。
木剣が空を切る音だ。
等間隔に、正確に、機械のように。一振り、一振り、淡々と。
フィリアーネの目が見開かれた。
——この音を、知っている。
原作のテキストに書かれていた。
【セヴェリン第二王子は毎日夕刻、練武場で一人素振りをする。話しかける者はいない。話しかけても返事がないからだ】
セヴェリン・フォン・ノルトシュテルン。
王国第二王子。一年生。学年首席。氷属性魔法の天才。
そして——攻略対象のうち、最も無口で、最も感情が読めず、最も攻略難易度が高いキャラクター。
ゲームの攻略Wikiにはこう書かれていた。
【セヴェリンルート攻略メモ:本ルートの特徴は「台詞が極端に少ない」ことです。選択肢を選んでも反応が薄く、好感度ゲージが動いているかどうかすら判別困難。ただし、不正や理不尽を目撃した際に発生する「行動イベント」では、無言のまま状況を解決し、その後の好感度が爆発的に上昇します。攻略難易度:最高。推奨:最低三周目以降】
千紗はこのルートをプレイ中に三回、アプリがフリーズしたのかと思って再起動した前科がある。
だが——今、この瞬間に限って言えば。
セヴェリンのその性質は、フィリアーネにとって最高の武器だった。
不正を見たら、黙って動く。
理不尽を見たら、黙って正す。
言葉ではなく、行動で。
——使える。
フィリアーネの口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
氷青の瞳に、冷たい光が宿った。
悪役令嬢の顔だった。
計算し尽くした、完璧な悪役令嬢の笑みだった。
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( 第6話・了)




