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第5話 氷の薔薇は壁の花


 リーリエがサロンを出ていった後、フィリアーネは長椅子にもたれたまま、しばらく天井を見上げていた。


 ステンドグラスから差し込む光が、天井のモザイク画をゆっくりと染めている。聖女と天使が手を取り合っている構図だ。なかなか皮肉の効いた絵面である。


 「……さて」


 いつまでもここにいるわけにはいかない。


 フィリアーネは立ち上がり、制服の皺を手で伸ばした。姿見に映る自分の姿をもう一度確認する——プラチナブロンドに乱れなし、氷青の瞳に涙の痕なし。完璧。悪役令嬢の身嗜みに隙はない。


 リゼットを先に帰らせ、一人でサロンを出た。


 理由は単純だ。学園の構造を自分の足で確認しておきたかった。ゲームの画面で見るのと実際に歩くのでは全く勝手が違う。マップなしで迷子になる悪役令嬢など前代未聞だ。


 食堂棟を出ると渡り廊下に出た。白い大理石の柱が等間隔に並び、両側には手入れの行き届いた薔薇の生け垣が続いている。空は初夏らしく高く澄み、遠くに学園本棟の尖塔が夕焼けに染まりかけていた。


 なるほど、背景美術だけは一流だ。スタジオ・フライハイはシナリオに使う予算を全部ビジュアルに回したのだろう。


◇◇◇


 渡り廊下を抜け、薬草園の横を通り過ぎ、練武場の裏手に出た辺りで——フィリアーネは自分がどこにいるのか分からなくなっていた。


 ……迷った。


 完全に迷った。


 悪役令嬢が自分の学園で迷子。笑えない。笑い話にもならない。


 フィリアーネは周囲を見回した。練武場の裏手は人通りが少なく、石壁に蔦が絡まり、敷石の隙間から雑草が伸び放題になっている。普段あまり使われていないエリアらしい。


 引き返そうとした、その時だった。


 声が聞こえた。


 少女の明るく弾むような声と、もう一つ、穏やかに応じる声。


 フィリアーネは足を止めた。声は倉庫と石壁の間の狭い通路から聞こえてくる。音を立てないように近づき、石壁の角からそっと覗き込んだ。


◇◇◇


 リーリエが地面に座り込んでいた。


 彼女の前には水汲み用の大きな木桶が二つ。その傍らには古びた雑巾と、山のように積まれた練武場の防具——胸当て、籠手、脛当て。錆と汗と泥にまみれた、明らかに何週間も放置されていた装備品の数々。


 リーリエはその防具を一つ一つ手に取り、雑巾で丁寧に磨いていた。さっきサロンで別れてから、まだ一時間も経っていない。日に焼けた肌はまだ赤く、フィリアーネが渡した薬が効いたのか多少顔色は良くなっていたが、疲労は隠しきれない。防具を持ち上げる腕が時折ふるふると震える。


 だが彼女は一言も文句を言わず、黙々と手を動かし続けていた。


 そしてリーリエの隣に——もう一人。


 桜色のショートカットに、大きなヘーゼルの瞳。小柄で童顔、制服のリボンを派手な結び方にした少女が、リーリエの隣に座って足をぶらぶら揺らしていた。


 フィリアーネは即座にこの人物を特定した。


 ——ミア・ヘッセンドルフ。


 平民出身の一年生。リーリエと同じ孤児院で育った幼馴染み。ゲーム内では序盤からリーリエの唯一の友人として登場する。明るくておしゃべりで、リーリエのことを「リリィ」と呼ぶ。リーリエが孤立しきった学園生活の中で唯一心を開ける相手だ。


 そして——リーリエの闇堕ち後、彼女の運命は分岐する。ルートによっては「あなただけは裏切らないよね」と言われて永遠に傍に縛りつけられるか、リーリエを止めようとして追放されるか。どちらにしても碌な目に遭わない。このゲームの脇役は全員、ヒロインの闇堕ちの燃料である。


 ミアがリーリエの肩をつついた。


 「ねえねえリリィ、まだ終わんないの?」


 リーリエは手を止めず、穏やかに答えた。


 「……うん。あと三十組くらい。先に帰って大丈夫だよ、ミア」


 「えー、やだよ。リリィを一人にしておけるわけないじゃん」


 ミアはぷくっと頬を膨らませて、防具の山を恨めしそうに見た。


 「つーかさ、なんでリリィがこんなことやらなきゃいけないわけ? これ練武場の管理委員の仕事でしょ?」


 リーリエは少し困ったように微笑んだ。


 「……ディートリヒさまに頼まれたの。備品管理は一年生の当番制だから、今日はわたしの番だって」


 「嘘だよそんなの!」ミアは即座に反論した。「当番表なんか見たことないし、先週もリリィが水汲み当番やらされてたじゃん。その前は薬草園の草むしりだったし。毎回リリィばっかり。おかしいでしょ」


 リーリエは答えなかった。ただ静かに、錆びた籠手を雑巾で拭き続けた。


 フィリアーネは石壁の陰で、唇を噛んだ。


 ——ディートリヒ。


 ゲーム内のフルネームはディートリヒ・フォン・アイゼンベルク。男爵家の三男。フィリアーネの「忠実な側近」ポジション。フィリアーネに心酔しており、彼女の意向を過剰に忖度して、リーリエへの嫌がらせを自主的にエスカレートさせるキャラクターだ。


 ゲーム内での役割は——フィリアーネが直接手を下すには「品位に欠ける」レベルの雑用嫌がらせを代行すること。水汲み、草むしり、防具磨き、荷物運び。フィリアーネの名を借りて、リーリエを使用人扱いするための実行係である。


 闇堕ち後のリーリエに真っ先に報復されるキャラの一人でもある。退場シーンは——いや、やめておこう。食事前に思い出すものではない。


 ミアはまだ怒っていた。


 「だいたいディートリヒってあの——フィリアーネさまの取り巻きの! リリィ、あいつがやれって言ったこと、全部リリィに回してるんだよ。分かってるでしょ?」


 リーリエは雑巾を絞りながら、静かに言った。


 「……ミア。ディートリヒさまも悪気があるわけじゃないと思うの」


 ミアは目を丸くした。


 「悪気がない!?」


 「わたしは一年生で、平民で、まだ学園のことを何も知らないから。こういう雑用を通して覚えなさいっていう、教育なのかもしれないし」


 フィリアーネは石壁に背を預けたまま、目を閉じた。


 ——この子は。


 こんな扱いを受けても怒らない。歯向かわない。加害者の行動に自分から意味を見出し、「教育かもしれない」と合理化してしまう。


 画面越しに見る分には、「健気だなあ」で済んだ。だが石壁の向こうから聞こえてくるリーリエの声は本物だ。震えてもいないし、泣いてもいない。ただ純粋に、心からそう信じている。


 だからこそ——この子が堕ちた後の反動は、凄まじいのだ。


 ミアは両手を腰に当てて、リーリエの前に立ちはだかった。


 「リリィ。あたし、先生に言ってくるよ。こんなの絶対おかしいもん」


 リーリエの手が止まった。


 「……だめ。ミア、お願い」


 「なんで!?」


 「ミアまで目をつけられたら——」リーリエは顔を上げた。「ミアは、わたしの大切な友だちだから。わたしのせいでミアが辛い目に遭うのは、嫌なの」


 ミアは口をつぐんだ。しゃがみ込んで、リーリエの隣に座り直した。


 「……もう。リリィのばか」


 雑巾を一枚引っ張って、無言で防具を磨き始めた。


 「ミア?」


 「手伝う。文句言わないの。あたしがやりたくてやるの」


 リーリエは小さく笑った。


 「……ありがとう、ミア」


 二人は肩を並べて黙々と防具を磨いた。夕暮れの光が石壁の隙間から差し込み、二人の影を長く伸ばしている。


 フィリアーネは石壁の陰でその光景を見ながら、不覚にも——ほんの少しだけ、胸が温かくなるのを感じた。


 なるほど、このゲーム。テキストは酷いし伏線は回収しないし設定は矛盾だらけだが、キャラクターの関係性だけは……悔しいが、悪くない。


◇◇◇


 乱れた足音が聞こえた。


 フィリアーネが物思いに浸っていた余韻を一瞬で叩き壊す足音。石壁の反対側から、複数の人影が近づいてくる。


 先頭を歩くのは——赤銅色の短髪の青年。


 ディートリヒ・フォン・アイゼンベルク。


 背は高く、鍛えられた体格。顔立ちは整っているが、口元に常に薄い笑みを浮かべていて、どこか人を小馬鹿にした空気がある。制服のケープの下に練武場の用具係の腕章。後ろには同じ腕章をつけた男子生徒が二人。


 フィリアーネは石壁の陰に身を潜めた。


 ディートリヒはリーリエとミアを見つけると、にやりと笑った。


 「よお、星宮。まだ終わってないのか」


 リーリエは手を止め、立ち上がって一礼した。


 「ディートリヒさま。申し訳ありません、もう少しで——」


 「もう少し?」磨き終わった防具の山をちらりと見て、鼻で笑う。「何組終わった?」


 「……二十組ほどです」


 「五十組中二十組。二時間で半分にも届いていない」ディートリヒは腕を組んだ。「やっぱり平民は要領が悪いな。フィリアーネさまも、お前みたいな鈍臭いのを見るたびにイライラなさるわけだ」


 後ろの二人がくすくす笑った。


 ミアが立ち上がった。顔が真っ赤だ。


 「ちょっと! リリィは三時間も中庭に立たされた後に、そのままこれやらされてるんだよ!? 少しは——」


 「ミア」


 リーリエが静かに、しかしはっきりとミアの名を呼んだ。ミアは口をつぐんだが、拳は握りしめたままだ。


 リーリエはディートリヒに穏やかに頭を下げた。


 「……申し訳ありません。急いで終わらせます」


 ディートリヒはつまらなさそうに肩をすくめた。


 「ま、精々頑張れ。終わったら倉庫の鍵を管理室に——」


 言葉が途切れた。


 ディートリヒの目が、ふとリーリエの胸元に止まった。


◇◇◇


 古びた十字架の吊り飾り。


 細い鎖で首から下がっている。銀色だが、よく見れば色がくすんでいる。留め具の部分が少し錆びている。リーリエが頭を下げた拍子に、制服の襟元から滑り出たのだ。


 ディートリヒの口元が、ゆっくりと弧を描いた。


 「……おい、星宮。それ何だ?」


 リーリエは一瞬、何のことか分からなかったようだ。視線を追って自分の胸元を見て——さっと顔色が変わった。慌てて十字架を制服の中に仕舞おうとした。


 ディートリヒが一歩、近づいた。


 「見せてみろよ」


 フィリアーネの目が鋭くなった。


 この十字架の設定を、千紗は覚えている。


 リーリエを拾って育ててくれた老シスター。流行り病で亡くなる直前、リーリエに託した唯一の形見。老シスターが長年かけて少しずつ貯めたお金で、リーリエの幸せを祈って買った「銀の聖なる十字架」——だが実際にはただの鍍銀の安物だった。老シスターは物の価値を見る目がなく、行商人に騙されて法外な値段で偽物を掴まされた。その事実を知った時のショックが病状を悪化させ、最期を早めた。


 つまりあの十字架は——老シスターの愛と、老シスターの無念と、自分を守れなかった後悔の全てが詰まった、リーリエにとって世界でたった一つの宝物。


 そして同時に、リーリエの闇堕ちが最も深刻な段階に達した時でさえ、あの十字架を握りしめることで辛うじて人間性を保てる——最後の命綱。


 この一点だけは、リーリエは絶対に誰にも譲らない。


 リーリエが半歩退いた。両手で十字架を胸元に押さえ、首を横に振った。


 雑用を押し付けられても、鈍臭いと嘲笑われても、一言も反論せずに頭を下げていたリーリエが——初めて、拒んだ。


 「……お願いします。これだけは——」


 ディートリヒの笑みが、ゆっくりと消えた。


 この男は、普段リーリエが何をされても大人しく従うのを見慣れている。だからこそ、初めての「拒否」に、虚を突かれた。


 そして虚を突かれた男は——大抵、怒る。


 ディートリヒの赤銅色の瞳が、すっと細くなった。


 フィリアーネは石壁の陰で、指先が震えるのを感じた。


 ——嫌な予感がする。


 嫌な予感しかしない。


---


(第5話・了)

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