第4話 攻略対象は本日も絶好調です
リーリエがサロンの扉の向こうに消えた後、フィリアーネは長椅子にもたれたまま、しばらく天井を見上げていた。
ステンドグラスから差し込む光が、天井のモザイク画をゆっくりと染めている。聖女と天使が手を取り合っている構図だ。なかなか皮肉の効いた絵面である。
「……さて」
いつまでもここにいるわけにはいかない。
フィリアーネは立ち上がり、制服の皺を手で伸ばした。姿見に映る自分の姿をもう一度確認する。プラチナブロンドの髪は乱れていないし、氷青の瞳に涙の痕はない。完璧だ。悪役令嬢の身嗜みに隙はない。
リゼットを先に帰らせ、一人でサロンを出た。
理由は単純だ。学園の構造を自分の足で確認しておきたかった。ゲームの画面で見るのと、実際に歩くのでは全く勝手が違う。マップなしで迷子になる悪役令嬢など前代未聞だ。
食堂棟を出ると、渡り廊下に出た。白い大理石の柱が等間隔に並び、両側には手入れの行き届いた薔薇の生け垣が続いている。空は初夏らしく高く澄んでいて、遠くに学園本棟の尖塔が夕焼けに染まりかけている。
なるほど、背景美術だけは一流だ。スタジオ・フライハイはシナリオに使う予算を全部ビジュアルに回したのだろう。
フィリアーネが渡り廊下の角を曲がった、その時だった。
風が吹いた。
何の変哲もないはずの夕暮れの風が、甘い花の香りを含んで吹き抜けた瞬間——渡り廊下の向こう側から、一人の青年が歩いてきた。
夕陽が逆光になって、まるでスポットライトのように彼の輪郭を縁取っている。
蜂蜜色の柔らかな髪が風に揺れ、穏やかな翡翠色の瞳が夕焼けの光を受けて琥珀のように輝く。柔和な笑みを湛えた口元。制服の着こなしは崩しすぎず堅すぎず、首元のネクタイだけがほんの少し緩められている——計算し尽くされた隙のなさ。長身で、歩き方にも品があり、すれ違う女子生徒たちが片っ端から頬を染めて振り返っている。
彼は片手に分厚い魔導書を抱え、もう片方の手でそっと薔薇の花弁に触れた。花弁が風に舞い上がり、彼の周囲をひらひらと舞った。
フィリアーネは足を止めた。
——あっ、これ知ってる。逆光。花弁。柔らかい微笑み。
乙女ゲーの「攻略対象初登場イベント」だ。
間違いない。テンプレ通りのやつだ。BGMが聞こえてきそう。というか脳内で勝手に再生されている。ピアノのアルペジオとストリングスの甘いメロディ。
フィリアーネの脳内データベースが即座に該当人物を検索し、ヒットした。
——攻略対象その一。レオンハルト・フォン・ヴァイスシュテルン。
ヴァイスシュテルン侯爵家の嫡男にして、王立セレスティア学園一年生、同級生。学年次席。専攻は光属性魔法と治癒術。性格は温厚で面倒見が良く、誰にでも分け隔てなく優しい。
通称「学園の太陽」。
——ファンの間での通称は「光属性カーテン」。
なぜカーテンかというと、このキャラクター、いつでもどこでもヒロインの前に颯爽と現れては「大丈夫? 僕がついているよ」と言うだけ言って、肝心な場面では毎回何の役にも立たないからだ。存在意義はヒロインが辛い時に肩を貸すこと、それだけ。実質、装飾品。カーテンのように美しく、カーテンのように実用性に乏しい。
ゲームの攻略Wikiにはこう書かれていた。
【レオンハルトルート攻略メモ:このルートの特徴は「何も起きない」ことです。他ルートに比べてイベント数が著しく少なく、シナリオの大半はレオンハルトがリーリエにお茶を淹れるか、リーリエの髪を褒めるか、リーリエのために傘を差し出すかのいずれかです。攻略対象の中で唯一、闇堕ちレベルが「不信」止まりのため、ヤンデレ成分を期待するプレイヤーには不向き。推奨:他ルートの口直しとして最後にプレイすること】
千紗はかつて深夜三時にこのルートをプレイし、画面の前で三回寝落ちした実績がある。
そのレオンハルトが、今まさにこちらに向かって歩いてきている。
逆光と花弁と微笑みという、乙女ゲー三種の神器をフル装備して。
レオンハルトはフィリアーネの姿を認めると、ふわりと微笑んだ。翡翠色の瞳が夕日に透けて、まるで宝石のように煌めいた。
「やあ、フィリアーネ。こんな時間にどうしたの?」
声まで良い。低すぎず高すぎず、耳心地の良いバリトン。
フィリアーネは咄嗟に原作フィリアーネの態度を思い出した。原作において、フィリアーネはレオンハルトに対して——実は、それほど敵対的ではない。理由は単純で、レオンハルトは序盤においてはリーリエとまだそこまで親しくなく、フィリアーネの標的リストの優先度が低いからだ。
ただし、フィリアーネはレオンハルトのことを内心では見下している。「才能はあるのに甘い」「侯爵家の嫡男のくせに覇気がない」——という、いかにも公爵令嬢らしい評価。
つまり、ここでの正解は——冷淡だが露骨に敵意は見せない、程度の態度。
「散歩よ。それが何か?」
完璧。素っ気なく、しかし礼を失しない程度の返答。
システムからの警告音は鳴らなかった。
レオンハルトは気にした様子もなく、柔らかく笑った。
「そう。夕暮れの渡り廊下は綺麗だよね。薔薇もちょうど見頃で」
彼は一輪の薔薇をそっと手折り——フィリアーネの方に差し出した。
「はい、どうぞ。白い薔薇は、君の髪の色に似合うと思って」
フィリアーネの脳内で、盛大にツッコミが炸裂した。
——出た! 攻略対象の「何の脈絡もなく花を渡すイベント」!
いや、ちょっと待て。原作では、この薔薇イベントの相手はリーリエのはずだ。なぜ悪役令嬢に薔薇を渡している? 時系列がずれたのか? それとも、リーリエがまだ中庭から戻ったばかりで食堂棟にいないから、本来リーリエに発生するはずだったイベントのフラグが宙に浮いて、一番近くにいた女性キャラ——つまりフィリアーネに飛んできたのか?
だとしたら、このゲームのイベント判定はガバガバすぎる。さすがスタジオ・フライハイ。
レオンハルトは薔薇を差し出したまま、にこにこと待っている。
フィリアーネは一瞬迷った。
受け取るべきか? 原作のフィリアーネなら——
原作のフィリアーネは、レオンハルトからの好意をどう扱っていただろう。記憶を辿る。確か……「あら、ありがとう」と表面上は受け取りつつ、背を向けた瞬間に花を握り潰す、みたいな描写があった気がする。公爵令嬢として最低限の社交辞令は守るが、内心では歯牙にもかけない。
フィリアーネは薔薇を受け取った。
「……ありがとう」
それだけ言って、さっさと歩き出した。振り返らない。
背後から、レオンハルトの穏やかな声が追いかけてきた。
「フィリアーネ。もし何か困ったことがあったら、いつでも僕に言ってね」
フィリアーネは足を止めなかった。
——困ったこと。困ったことだらけに決まっているでしょうが。
あなたが攻略対象としてもう少し有能だったら、ヒロインの闇堕ちだって多少は食い止められたかもしれないのに。「いつでも僕に言ってね」じゃないのよ。言ったところで結局お茶を淹れるだけでしょうが。
渡り廊下を抜け、中庭に面したベンチの前を通り過ぎようとした時、フィリアーネはふと足を止めた。
手の中の白い薔薇に目を落とす。
原作のフィリアーネなら、ここで花を握り潰す。
だが——別にわざわざ花を殺す必要はないだろう。
フィリアーネは薔薇をベンチの上にそっと置いた。誰かが通りかかって拾うかもしれない。拾わなくても、明日の朝には庭師が片付けるだろう。
花を握り潰すより、こちらの方がよほど「冷淡だが品のある」フィリアーネらしい気がする。
システムは沈黙していた。OOC警告は、なし。
——よし。
これが「キャラ格を落とさずにキャラを改善する」ということか。
原作フィリアーネの行動を完全に踏襲するのではなく、「原作フィリアーネならやりかねないが、もう少し知性的なバージョン」に差し替える。品のない行動を、品のある行動に。
悪役令嬢のまま、悪役令嬢の格を上げる。
フィリアーネは歩きながら、口の端に小さな笑みを浮かべた。
「……なるほどね。少しだけ、やり方が見えてきたかもしれない」
夕焼けが学園の尖塔を赤く染め、長い影が渡り廊下に伸びていた。
白い薔薇だけが、ベンチの上で静かに夕風に揺れていた。




