第24话「第三演習場」
第三演習場は死城のように静まり返っていた。
結界の柱が四隅に立ち、薄い魔力の膜が草原を覆っている。秋の夕暮れの光が斜めに差し込み、草の海を黄金色に染めている。
フィリアーネは演習場の端にある石壁の陰に隠れていた。
観戦のつもりだった。丘の上から眺めるつもりだった。だが演習場に近づいた瞬間、流れ弾が飛んできた。慌てて石壁の陰に飛び込んで——そのまま動けなくなった。
石壁に背中をつけて、息を殺している。
心臓がうるさい。ドクドクと脈打つ音が、自分の耳にも聞こえる。
——なんでわたくしはここにいるのだろう。
観戦だけのつもりだったのに。安全な距離から見届けるつもりだったのに。
気づけば、戦場のど真ん中に取り残されていた。
石壁の向こうから、金属がぶつかる音が響いてくる。「帝律」と「雪走」が交差する音。咆哮。爆発。空気が震える。
フィリアーネは目を閉じて、壁に背中を押しつけた。
——動くな。息を殺せ。見つからなければ、死なない。
これはフィリアーネの得意技の一つだった。
前世の千紗は、叔母に見つからないように隠れる技術を磨いていた。物置の奥。押し入れの中。カーテンの裏。息を殺して、気配を消して、やり過ごす。
「千紗はどこに行ったの?」と叔母が廊下で叫んでいた。千紗は押し入れの中で、埃っぽい布団に顔を埋めて、息を殺していた。見つかったら面倒なことになる。だから——隠れる。
今も同じだ。
見つかったら死ぬ。だから——隠れる。
◇◇◇
石壁の向こうで、戦闘が激化していた。
深紅の残像と銀色の残像が入り乱れているのが、壁の隙間から見えた。
ルートヴィヒの「帝律」が空を切る音。セヴェリンの「雪走」が震える音。
——「雪走」。
フィリアーネの脳内で、前世の知識が蘇った。
「雪走」という刀は、実在した——かもしれない。
前世の千紗は刀剣乱舞にハマっていた時期がある。その時に調べた知識だ。
「雪走」の名は、いくつかの文献に登場する。江戸時代の読本『椿説弓張月』には、斬った軌跡に雪が舞い散るという伝説の刀として描かれている。作者は曲亭馬琴——『南総里見八犬伝』を書いた、あの馬琴だ。
だが馬琴の創作だけではない。
一説には、室町時代の刀工・長船長光の作品に「雪走」の銘を持つ刀が存在したという。現存はしていない。応仁の乱で焼失したとも、どこかの土蔵に眠っているとも言われている。
さらに古い伝承もある。平安時代末期、源義経が奥州に落ち延びる際に携えていた刀の一振りが「雪走」だったという。義経が衣川で自刃した後、刀は行方不明になった——という伝説。
真偽は不明だ。だが「斬撃の軌道に霜が降りる刀」という伝承は、日本の刀剣伝説の中に確かに存在する。
この世界の「雪走」は——その伝説を、魔法で具現化した刀なのかもしれない。
ノルトシュテルン王家が精霊と契約して鍛えた魔剣。刀身に永久凍土の精霊が封じられており、使用者の氷属性魔力と共鳴する。高速で振るうと刀身が共鳴振動を起こし——斬撃の軌道そのものが凍結する。
原作では「最強の氷属性武器」と設定されていた。
だが——「帝律」には及ばない。
火属性の大剣「帝律」。刀身が灼熱し、触れたものを焼き切る。氷と火。相性は最悪だ。
「雪走」の氷は、「帝律」の炎に溶かされる。
◇◇◇
石壁の向こうで、金属の悲鳴が響いた。
フィリアーネは壁の隙間から覗いた。
セヴェリンが後退していた。「雪走」を構えているが——刀身に亀裂が入っている。
限界が近い。
ルートヴィヒは笑っていた。「帝律」を肩に担ぎ、余裕の表情で。
「どうした、ノルトシュテルン。もう終わりか?」
セヴェリンは答えなかった。だが——息が荒い。
フィリアーネは唇を噛んだ。
——まずい。このままではセヴェリンが負ける。
——でも、わたくしに何ができる?
——飛び出したら死ぬ。あの二人の戦いに割り込める力など、フィリアーネにはない。
その時——足音が聞こえた。
背後から。
フィリアーネの耳がぴくりと動いた。
振り返る暇もなかった。
影が迫っていた。深紅のケープ。ルートヴィヒの部下だ。勢力戦の残党が、まだ演習場にいたのだ。
手に——魔導銃を構えている。
「——見つけた」
低い声。男の声。
銃口がフィリアーネの頭に向けられた。
——死ぬ。
その一語が、脳内を駆け抜けた。
◇◇◇
「伏せて!!」
声が響いた。
フィリアーネは考えるより先に体が動いた。地面に伏せた。
頭上を——光が通過した。
魔力弾ではない。金色の光。聖属性の光。
光が深紅のケープの男を直撃した。男が吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
フィリアーネは顔を上げた。
目の前に——誰かが立っていた。
金色の髪が夕陽に輝いていた。
リーリエ・シュテルンミヤ。
原作の主人公。聖女候補。そして——フィリアーネが守ろうとしている少女。
「大丈夫ですか、フィリアーネさま——」
リーリエが振り返った。金色の瞳がフィリアーネを見た。
その瞬間——空気が動いた。
背後から。
もう一人いた。深紅のケープの兵士が、もう一人。
リーリエの背後に回り込んでいた。魔導銃を構えていた。
フィリアーネは叫んだ。
「リーリエ、後ろ——!!」
遅かった。
銃声が響いた。
◇◇◇
リーリエの体が——揺れた。
背中から——血が噴き出した。
金色の髪が赤く染まっていく。
リーリエは——振り返らなかった。
フィリアーネの方を見たまま。
金色の瞳が——微笑んでいた。
「……よかった……フィリアーネさまが……無事で……」
膝が折れた。
倒れた。
フィリアーネの目の前で。
草の上に。金色の髪が広がった。
血が——広がっていく。
「——リーリエ?」
フィリアーネの声が掠れた。
「リーリエ!」
駆け寄った。膝をついた。リーリエの体を抱き起こした。
背中に——穴が空いていた。
魔導銃の弾丸が、背中から胸に貫通していた。
心臓の位置だ。
「リーリエ! リーリエ!!」
揺すった。反応がない。
胸に手を当てた。
——鼓動がない。
「……嘘」
フィリアーネの声が震えた。
「嘘でしょ……?」
リーリエの金色の瞳が、空を見上げていた。
動かない。
息をしていない。
「嘘よ……嘘に決まってる……だって……だってこれ、ゲームでしょ……?」
声が裏返った。
「リーリエが死ぬわけないでしょ……? 主人公なのよ……? 主人公は死なないの……! 死んだらゲームオーバーでしょ……!? リセットすればいいでしょ……!?」
涙が溢れた。
「戻りなさいよ……! リセットよ……! ロードよ……! ——戻りなさいよ!!」
リーリエは動かない。
金色の瞳が、空を見つめている。
生きていない目だった。
◇◇◇
世界が——暗転した。
フィリアーネの視界が黒く染まっていく。
頭が痛い。割れそうに痛い。目の奥が——脈動している。熱い。燃えるように熱い。
涙が溢れた。
だが——涙ではなかった。
光だ。
瞳から、淡い光が漏れ出ていた。
青紫色の光。星の光のような、冷たい輝き。
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