第23話 紅と銀の決闘
「——ローゼンクランツ!」
背後から声がした。
振り返ると——ヴァイスミュラー教授が渡り廊下を走ってきた。白髪が乱れ、片手に杖を握りしめている。今日博物館で講義をしていた、あの温厚な老紳士が——額に汗を浮かべ、目を吊り上げていた。
「なぜここにいる! 避難区域は東棟だ!」
「教授、これは——何が——」
「説明は後だ。ここは交戦範囲の境界線上だぞ。今すぐ——」
教授の言葉が途切れた。
前庭から流れ弾が飛んできた。MR-7の魔力弾だった。誰かが外した一発が石柱の角を抉り、破片を撒き散らした。石の欠片がフィリアーネの頬を掠めた。熱い。
教授がフィリアーネの腕を掴み、柱の陰に引き込んだ。
「伏せろ!」
二人で石柱の陰にしゃがみ込んだ。頭上を魔力弾が通過する。青い光条が夕暮れの空に尾を引き、渡り廊下の向こう側の壁に着弾した。
「教授、これは何なんですか——深紅と白銀——」
「勢力戦マハトシュピールだ」教授は息を切らしながら、短く答えた。「この学園に百年以上続く——公認された戦争だ」
また着弾。今度は近い。柱そのものが揺れた。
教授は柱の陰から前庭を覗き、舌打ちした。
「……またあの馬鹿が——」
「馬鹿?」
「レーヴェンクローネだ!」教授の声が怒りで震えた。「深紅側の——薔薇騎士団ローゼンリッターの頭目。あいつは——あいつはまた通告なしで王座戦ケーニヒスデュエルを始めやがった!」
教授は額を押さえた。
「マハトシュピールには規定がある。王座戦を開始する場合は、最低でも三時間前に双方が合意の上で——だがあいつは毎回、毎回だぞ——いきなり尖塔に登って一方的に宣言する! ルール無視もいいところだ!」
フィリアーネは——教授の怒りが本物であることを理解した。学者の怒り。規則を踏みにじられた者の怒り。
「あいつが私の講義を取っているなら——いや、取っていなくても——次の学期には必ず呼び出して——」
教授の声がさらに高くなった。
「単位を——いや、単位どころではない! 戦術理論の補講を受けさせる! レポートを書かせる! マハトシュピール史を全巻読ませる! あの馬鹿に規則というものを——」
◇◇◇
だが——教授の怒りは、そこで途切れた。
教授は渡り廊下の方を向いた。
「……私は避難誘導に行く。まだ逃げ遅れた生徒がいるかもしれん。ローゼンクランツ、お前はここを動くな。王座戦が始まったら——絶対に動くな。流れ弾に当たる。お前は戦闘課ではない。防御魔法も使えない。ここにじっとしていろ——」
その瞬間。
乾いた銃声が、夕暮れの空気を裂いた。
◇◇◇
ヴァイスミュラー教授の体が、硬直した。
胸に——赤い染みが広がっていく。
教授は自分の胸を見下ろし、それから——ゆっくりとフィリアーネの方を向いた。
「……すまんな、ローゼンクランツ。約束が——守れそうに、ない……」
膝から崩れ落ちた。
石畳に倒れる音。鈍い、重い音。
フィリアーネは——動けなかった。
三秒。
五秒。
教授は起き上がらなかった。
フィリアーネは震える手を、教授の首筋に当てた。
脈が——ない。
胸に手を当てた。
心臓が——跳ねていない。
動いていない。
完全に、止まっている。
◇◇◇
——嘘だろ。
千紗の思考が、完全に空回りし始めた。
——嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ。
防護結界があるって——さっき教授が言ってたじゃないか。致命傷を防ぐって。倒れても起き上がるって——
だが教授は起き上がらない。
胸が動かない。
心臓が跳ねていない。
体温が——急速に下がっている。
——本当に、死んだ。
フィリアーネの手が震えた。もう一度、教授の胸に手を当てる。
心音が——ない。
本当に、ない。
——防護結界は?
さっき、倒れた生徒たちの周りに薄い光の膜が見えた。あれが防護結界だ。でも——教授の周りには何もない。光の膜がない。
——もしかして、教員には適用されない?
それとも——
千紗の脳内で、最悪のシナリオが浮かび上がった。
——もしかして、防護結界なんて最初から存在しない?
さっき見た「薄い光の膜」は——ただの残留魔力か何かで、実際には何の防御機能もない?
千紗がプレイしていたのは乙女ゲームだ。『蒼穹のステラリウム』。主人公が王子様と恋愛するゲームだ。戦闘シーンなんてほとんどなかった。マハトシュピールの詳細なルールなんて、設定資料集に一行しか書いてなかった。
「学園には伝統的な勢力争いの仕組みがある」——それだけ。
ゲームでは、キャラクターは「退場」するだけで「死」なかった。バッドエンドでも、画面が暗転して「to be continued...」と出るだけだった。
だがここは——ゲームの画面じゃない。
リアルだ。
本当の、血が流れて、心臓が止まる、リアルな世界だ。
——じゃあ、もし自分が撃たれたら?
もし自分の心臓が止まったら?
復活システムなんて——ないんじゃないのか?
コンティニュー画面なんて——出ないんじゃないのか?
フィリアーネの手が、教授の胸から離れなかった。
もう一度——もう一度だけ確認する。
心音が——
——ない。
本当に、ない。
心臓が、跳ねていない。
◇◇◇
轟音が続いていた。
いや——轟音は止まっていなかった。フィリアーネの意識が、教授の死体に固定されている間も、前庭では戦闘が続いていた。
魔力弾が飛び交い、火球が炸裂し、氷の矢が石畳を砕いている。
深紅のケープと白銀のケープが、互いに撃ち合い、斬り合い、魔法を撃ち合っている。
一人、また一人と倒れていく。
フィリアーネは柱の陰から、その光景を見ていた。
——彼らは、死なないのか?
倒れた生徒たちの周りに、薄い光の膜が見える。だがあれは本当に防護結界なのか? それとも——
千紗の思考が、パニックと冷静さの間で揺れ動いていた。
——確認しないと。
確認しないと分からない。
だが——今、あの戦場に出ていくわけにはいかない。
フィリアーネは教授の死体の横にしゃがみ込んだまま、前庭を見続けた。
そして——
戦場が、静まった。
◇◇◇
静まったのではない。
全ての音が——一つの気配に塗り潰されたのだ。
前庭で戦っていた深紅と白銀の生徒たちが、攻撃の途中で、防御の途中で、走っている途中で——全員が足を止め、一つの方向を見た。
礼拝堂の尖塔。
その中腹、張り出した石のバルコニーに——人影があった。
最初からそこにいたかのように。
琥珀金の短い髪。深紅の瞳。均整の取れた長身。深紅のケープが夕風に緩やかに靡いている。
両腕を組み、戦場を見下ろしていた。
その姿勢には焦りがなかった。恐怖もなかった。戦場の最も高い場所に——狙撃の的になることを承知の上で、堂々と立っている。「ここにいるぞ。撃てるものなら撃ってみろ」と全身で語っている。
——千紗の脳内データベースが、一瞬の遅延の後にヒットした。
ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンクローネ。
設定資料集三ページ。本編出番ゼロ。戦闘課三年。学園最強と設定されながら一度もその強さが描写されなかった男。
攻略Wikiにはこう書かれていた——
【ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンクローネ:フライハイはこのキャラクターに三ページの設定を費やしておきながら、本編ではテーブルの上のリンゴ程度の存在感しか与えなかった。三ページ分の設定が泣いている】
千紗はかつてこの記述に「いいね」を押した。
今、その三ページ分の設定が——尖塔の上に立っていた。
◇◇◇
尖塔の上から、ルートヴィヒの声が降ってきた。
「——アルブレヒト」
低く、静かな声だった。だが戦場の隅々まで届いた。拡声の魔法か、それとも——あの男の声そのものが、空気を支配しているのか。
白銀のケープの集団が割れた。
その中心から——一人の人影が前に出た。
銀白の髪。蒼氷色の瞳。均整の取れた長身。白銀のケープが夕風に靡いている。右手に杖——いや、剣だ。細身の騎士剣。柄に氷結晶の意匠。
礼拝堂の階段に足を踏み出した。倒れた生徒たちを踏まないように歩く。だが視線は一度も下を向かなかった。
尖塔の上のルートヴィヒだけを見ていた。
「レーヴェンクローネ」
声は低く、冷たかった。氷の刃のような声。
「お前の部下は何人残っている?」
——フィリアーネの思考が、一瞬停止した。
——は?
今、何を言った?
◇◇◇
ルートヴィヒは尖塔の欄干に片手を置き、戦場を見下ろした。深紅のケープの生徒たちが、散発的に動いている。数えるまでもない。
「俺とヴァネッサだけだ」
「俺もレオンハルトだけだ。あいつは潜入戦は得意だが、正面戦闘は不得手だ」
「ヴァネッサは逆だ。撃つことしか能がない」
銀白の髪の男——アルブレヒトの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。冷たい笑み。
「——つまり、お互い使えない手駒しか残っていない」
「そういうことだ」
——フィリアーネは、心の中で絶叫していた。
——だったらその手駒を使えよ!!!
ヴァネッサは「撃つことしか能がない」? だったら援護射撃させろ! レオンハルトは「潜入戦が得意」? だったら裏から回り込ませろ!
お前ら今まで集団戦してたくせに、なんで急に一騎打ちモードに入ってるんだ!
これはRTSか? いや、RTSだったら指揮官が前線に出るのは悪手中の悪手だろう!
しかも——しかもだぞ——敵に手の内を晒して何の意味がある! 「俺は何人残っている」「お前は何人だ」——まるで紳士の社交か! その時間で一発でも多く撃て! 包囲しろ! 挟撃しろ! それが戦争というものだろう!
集団戦の意味がない。戦術も戦略もあったものではない。
——お前ら本当に戦ってるのか? それとも演劇の稽古か?
千紗の脳内のゲーマー魂が、全力で叫んでいた。
——これは戦争じゃない。様式美だ。かっこつけだ。
そして——
フィリアーネの視線が、横たわる教授の死体に落ちた。
——教授、あなたは正しかった。
あなたは本当に正しかった。
そして——あなたはその正論を吐いた三分後に死んだ。
心臓が跳ねていない死体。
復活しない死体。
——この世界では、死んだら終わりなのか?
◇◇◇
ルートヴィヒは欄干から手を離した。深紅のケープを翻し——尖塔から飛び降りた。
十メートル以上ある高さだ。だがルートヴィヒは空中で一度身を捻り、礼拝堂の屋根に着地し、そこから石段に飛び降りた。衝撃を完全に殺している。膝すら曲げていなかった。
地面に降り立ったルートヴィヒは、深紅のケープの裾を払い、アルブレヒトの方を向いた。
二人の距離は十メートル。
礼拝堂の前庭。倒れた生徒たちに囲まれた空間。夕陽が二人の影を長く伸ばしている。
ルートヴィヒは腰のホルスターからMR-7を抜いた。
「俺はこれしかない。魔力弾が五発」
銃口を下に向けたまま、弾倉を開けた。金属音が静寂に響く。赤い魔力結晶が五つ、弾倉の中で鈍く光っている。
「五発撃ったら、後は素手だ」
アルブレヒトは剣を抜いた。細身の騎士剣。刀身に霜が這っている。
「俺はこれだ。『氷華フロストブルーメ』——俺の指揮剣だ」
剣を一閃させた。空気が凍結し、白い霧が刀身から飛散した。
「魔力はまだ半分ある。お前を凍らせるには十分だ」
ルートヴィヒの口元に、笑みが浮かんだ。刃のような笑み。
「——いいだろう。前庭で会おう」
「待っている」
深紅と白銀の生徒たちが、戦場の端に下がっていく。誰も口を開かない。ただ見守っている。
——王座戦ケーニヒスデュエル。
教授が言っていた。通告なしで始められる、百年続く馬鹿げた伝統。
フィリアーネは石柱の陰で——教授の死体の横で——その光景を見ていた。
心臓が跳ねている。
恐怖と、困惑と、そして——前世のゲーマーとしての直感が告げていた。
——これは、ゲームじゃない。
人が本当に死ぬ世界だ。
そして今、その世界の頂点に立つ二人が——前庭の中央で向かい合っていた。
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