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第22話 空襲警報


 ヴァネッサの動きが止まった。


 会話の途中だった。博物館の実演のあと、中庭の噴水の縁に並んで座り、フィリアーネがリンゴを齧りながら夜会への参加を「考えさせて」と答えた——その直後。


 ヴァネッサの制服の胸ポケットが光った。


 魔法通信器だ。掌に収まるほどの金属板で、表面に刻まれた魔導刻印が受信時に発光する。学園の教員と上級生に支給される連絡用の装備——博物館の授業中、ヴァネッサの腰にぶら下がっているのをフィリアーネは見ていた。


 ヴァネッサは通信器を取り出し、表面に浮かんだ光の文字列を読んだ。二秒。


 顔が変わった。


 さっきまでの不敵な笑みが一瞬で消え、琥珀色の瞳に剣呑な光が走った。三秒目には立ち上がっていた。


 「——ごめん。行く」


 一言だけだった。声が違っていた。さっきまでの先輩の声でも、助教の声でもない。緊急招集を受けた軍人の声だ。


 「何か——」


 「リンゴもう一個、今度ね」


 ヴァネッサはケープを翻し、駆け出していた。フィリアーネが口を開く前に赤い髪は渡り廊下の角を曲がり、消えた。


 中庭にフィリアーネだけが残された。


 噴水の水音。秋の夕暮れの風。齧りかけのリンゴ。


 嫌な予感がした。ヴァネッサのあの反応速度は、日常の呼び出しに対するものではない。


 だが追いかける理由がない。悪役令嬢が先輩の後を追いかけ回す道理がどこにある。森に帰ろう。今日は疲れた。博物館の黒い液体、異形武器の轟音、標本の覚醒、夜会の誘い——一日に詰め込まれる情報量がこのゲームの設定と同じで常に過積載だ。


 渡り廊下を北西に向かって歩き出した。


 その時——


◇◇◇


 音が鳴った。


 最初、何の音か分からなかった。


 低い唸り声のような、金属が振動するような——地の底から這い上がってくる不快な周波数。


 次の瞬間、その音は一気に膨れ上がり、学園の上空を覆い尽くした。


 ——ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン。


 空襲警報だった。


 あの音だ。前世でテレビのドキュメンタリー番組で何度も聞いた、防空サイレンの音。第二次世界大戦のロンドン空襲。映画『この世界の片隅に』。低く唸り、高く昇り、また沈んでいく不吉な波形。


 フィリアーネの足が止まった。


 ——なんで。


 ここは中世ヨーロッパ風の魔法学園だ。尖塔がある。ステンドグラスがある。渡り廊下に薔薇の生け垣がある。箒で空を飛ぶ魔女こそいないが、杖を振って氷の矢を放つ公爵令嬢ならいる。


 そういう世界で——なぜ現代の防空サイレンが鳴っている。


 MR-7型魔導拳銃。今日博物館で見たばかりだ。銃身、照準器、引き金、弾倉——いや「魔力装填槽」。名前だけ変えても構造は拳銃そのものだった。そして今度は防空サイレン。中世の騎士が剣を振り回す隣で、近代兵器の設計思想と現代の警報装置がまかり通っている。ファンタジーとミリタリーが無秩序に同居して、世界観の整合性という概念がスタジオ・フライハイの辞書には存在しない。


 千紗は前世で『蒼穹のステラリウム』のレビュー欄に書いた一文を思い出した。


 『このゲームの世界観設定は、小学生が自由帳に「かっこいいもの全部入り」で描いた落書きに近い。剣と魔法と銃と聖女と龍と——全部盛りにして統合する気ゼロ。設定資料集の「世界観コンセプト」の項目が白紙なのは、きっと編集者のミスではなく事実だ』


 あのレビューに「いいね」が三百十七ついた。千紗のレビュー投稿史上の最高記録。


 だが今まさにその「全部盛り」の世界の真ん中に自分が立っていて、防空サイレンの音波が頭蓋骨を振動させている。笑えない。


 ——いや、笑っている場合ではない。


◇◇◇


 渡り廊下の先から、生徒たちが走ってきた。


 一人ではない。五人、十人——教室から、図書館から、食堂棟から飛び出してきた生徒たちが、渡り廊下を東に向かって走っている。顔は一様に緊張しているが、パニックではない。逃げ慣れている。足運びに迷いがない。


 「また始まったよ——」


 「今度はどこ?」


 「南だって。南!」


 「礼拝堂の方か——巻き込まれたくない、急ごう!」


 断片的な会話が風に乗って飛んでくる。「南」「礼拝堂」。


 フィリアーネは渡り廊下の柱の陰に身を寄せ、流れていく生徒たちの群れを見送った。


 ——「また」始まった。「また」。


 つまりこれは初めてのことではない。この学園の生徒たちは、この警報に慣れている。


 千紗の脳内で、設定資料集の一行がちらりと明滅した——「学園には伝統的な勢力争いの仕組みがある」。一行だけ。詳細なし。フライハイは餐巾紙にメモして口を拭いた。


 だが今はその一行を掘り下げている余裕がなかった。


 生徒の流れが途切れ、渡り廊下が静かになった。


 静かすぎた。


 さっきまで噴水の周囲でおしゃべりしていた生徒たちが一人残らず消えている。鳩すら飛び去っていた。夕暮れの学園に、サイレンの残響だけが尾を引いている。


 フィリアーネは一人で渡り廊下に立っていた。


 ——ここを離れよう。


 その判断が降りた瞬間——渡り廊下の反対側から、足音が聞こえた。


◇◇◇


 足音ではなかった。地響きだった。


 複数の人間が全力で走っている。革靴が石畳を打つ音。金属が擦れ合う音。そして——怒号。


 「右から回り込め! 正面は囮だ!」


 「第二小隊、花壇の裏につけ! 射線を確保しろ!」


 渡り廊下の南側——礼拝堂の方角から、武装した生徒の集団がなだれ込んできた。


 フィリアーネは目を見張った。


 二十人以上。全員が戦闘課の制服を着ているが、制服の上から深紅のケープを羽織っている。手には杖、剣、あるいは——MR-7。今日博物館で見たばかりの魔導拳銃と同型の武器を、数人が片手に握っている。


 彼らは渡り廊下を横切り、礼拝堂の前庭に向かって展開した。走りながら陣形を組んでいる。訓練された動き。素人ではない。


 フィリアーネは柱の陰に張り付いた。深紅のケープの集団は彼女に気づく様子もなく、嵐のように通り過ぎていった。


 ——何なの、これ。


 心臓が跳ねている。


 深紅のケープの最後尾が渡り廊下を抜けきらないうちに——今度は反対方向から、別の集団が現れた。


 こちらは白銀のケープ。人数は少ない。十人ほど。だが空気が違った。深紅の集団が荒波なら、こちらは研ぎ澄まされた刃だ。無駄な動きがない。声もない。


 白銀のケープの先頭に——見覚えのある横顔があった。


 蜂蜜色の髪。翡翠色の瞳。柔和な笑みは消え、引き締まった表情。


 レオンハルト・フォン・ヴァイスシュテルン。


 光属性カーテン。あのカーテンが——杖を握りしめ、小隊の先頭に立っている。


 カーテンが戦っている。カーテンが指揮を執っている。「大丈夫? 僕がついているよ」の男が、今まさに部下に向かって「散開。礼拝堂南面を押さえろ」と低い声で命じている。


 フィリアーネの脳が処理落ちしかけた。


 白銀の小隊は深紅の集団と別の方角から礼拝堂に向かい、建物の影に消えていった。


 渡り廊下がまた静かになった。


 三秒。


 轟音が来た。


◇◇◇


 最初の爆発は礼拝堂の南面だった。


 石壁に火球がぶつかり、破片が放射状に飛び散った。続いて二発目。三発目。音が重なって一つの連続した轟音になり、渡り廊下の薔薇の生け垣が衝撃波で根元から揺れた。


 フィリアーネは柱にしがみついた。


 礼拝堂の周囲で——戦闘が始まっていた。


 火球。氷の矢。風の刃。土壁の障壁。ありとあらゆる属性の魔法が飛び交い、石畳を抉り、壁を砕き、空気を焼いている。その合間に——乾いた銃声。MR-7の魔力弾が夕暮れの空を赤や青の光条になって切り裂く。


 深紅と白銀が入り乱れていた。


 深紅のケープが花壇の影から飛び出し、火属性の魔法を放つ。白銀のケープが石柱の陰から応射する。一人が被弾して吹き飛び、石畳に叩きつけられた——動かない。別の一人が大剣を振り回しながら突撃し、白銀の二人を薙ぎ倒した。


 「左翼、押し込め!」


 「MR-7部隊、援護射撃!」


 深紅側の怒号が礼拝堂の壁に反響した。


 白銀側は声を出さない。だが動きが正確だった。二人一組で行動し、一人が盾の魔法で防御している間にもう一人が側面から撃つ。小さな単位で、歯車のように噛み合っている。


 フィリアーネは柱の陰から覗きながら——これが「戦闘」であることをようやく理解した。


 模擬戦ではない。倒れた生徒は起き上がらない。だが——死んでもいない。よく見ると、被弾した生徒の体の周囲に薄い光の膜が纏わりついている。結界だ。学園が設置した何らかの防護結界が、致命傷を防いでいる。


 だが衝撃は本物だ。痛みも本物だ。吹き飛ばされた生徒が壁にぶつかる音は、人体が出していい音ではなかった。


◇◇◇


 「——ローゼンクランツ!」


 背後から声がした。


 振り返ると——ヴァイスミュラー教授が渡り廊下を走ってきた。白髪が乱れ、片手に杖を握りしめている。今日博物館で講義をしていた、あの温厚な老紳士が——額に汗を浮かべ、目を吊り上げていた。


 「なぜここにいる! 避難区域は東棟だ!」


 「教授、これは——何が——」


 「説明は後だ。ここは交戦範囲の境界線上だぞ。今すぐ——」


 教授の言葉が途切れた。


 前庭から流れ弾が飛んできた。MR-7の魔力弾だった。誰かが外した一発が石柱の角を抉り、破片を撒き散らした。石の欠片がフィリアーネの頬を掠めた。熱い。


 教授がフィリアーネの腕を掴み、柱の陰に引き込んだ。


 「伏せろ!」


 二人で石柱の陰にしゃがみ込んだ。頭上を魔力弾が通過する。青い光条が夕暮れの空に尾を引き、渡り廊下の向こう側の壁に着弾した。


 「教授、これは何なんですか——深紅と白銀——」


 「勢力戦マハトシュピールだ」教授は息を切らしながら、短く答えた。「この学園に百年以上続く——公認された戦争だ。説明は後にする。今は——」


 また着弾。今度は近い。柱そのものが揺れた。


 「——まず生きて東棟に戻れ」


 教授が杖を構え、フィリアーネの周囲に防御結界を展開しようとした——


 その瞬間。


 戦場が——静まった。


◇◇◇


 静まったのではない。


 全ての音が——一つの気配に塗り潰されたのだ。


 前庭で戦っていた深紅と白銀の生徒たちが、攻撃の途中で、防御の途中で、走っている途中で——全員が足を止め、一つの方向を見た。


 礼拝堂の尖塔。


 その中腹、張り出した石のバルコニーに——人影があった。


 最初からそこにいたかのように。


 琥珀金の短い髪。深紅の瞳。均整の取れた長身。深紅のケープが夕風に緩やかに靡いている。


 両腕を組み、戦場を見下ろしていた。


 その姿勢には焦りがなかった。恐怖もなかった。戦場の最も高い場所に——狙撃の的になることを承知の上で、堂々と立っている。「ここにいるぞ。撃てるものなら撃ってみろ」と全身で語っている。


 ——千紗の脳内データベースが、一瞬の遅延の後にヒットした。


 ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンクローネ。


 設定資料集三ページ。本編出番ゼロ。戦闘課三年。学園最強と設定されながら一度もその強さが描写されなかった男。


 攻略Wikiにはこう書かれていた——


 【ルートヴィヒ・フォン・レーヴェンクローネ:フライハイはこのキャラクターに三ページの設定を費やしておきながら、本編ではテーブルの上のリンゴ程度の存在感しか与えなかった。三ページ分の設定が泣いている】


 千紗はかつてこの記述に「いいね」を押した。


 今、その三ページ分の設定が——尖塔の上に立っていた。


 ルートヴィヒは腕を解いた。


 片手を掲げた。指先に赤い光が灯った。


 合図だった。


 その光を見た瞬間——深紅のケープの生徒たちが一斉に動きを変えた。散発的だった攻撃が統一された。三方向からの同時攻撃。指揮系統が、あの指先一つで切り替わった。


 フィリアーネは理解した。


 あの男は暴れているのではない。戦場の最も高い場所から全体を俯瞰し、指先一つで駒を動かしている。尖塔の上の王。


 白銀のケープの生徒が二人、ルートヴィヒに向かってMR-7を撃った。


 ルートヴィヒは動かなかった。


 魔力弾が彼の左右三十センチを通過した。避けたのではない。最初から当たらない位置に立っていた。射線を読んでいた。二発とも。


 ルートヴィヒは撃った二人の方を見下ろし、首を僅かに傾げた。


 「——練習が足りないな」


 声は小さかったはずだ。だが戦場の喧噪の中で、なぜか明瞭に届いた。


 ヴァイスミュラー教授が石柱の陰で唸った。


 「あの馬鹿が……また上から全部仕切りおって……」


 「教授、あれは——」


 「レーヴェンクローネだ。深紅側の——いや」教授は言い淀み、そして吐き捨てた。「あれは深紅側の頭目かしらだ」


 フィリアーネは尖塔の上の人影を見上げた。


 夕陽を背に。深紅のケープを靡かせて。深紅の瞳で戦場を見下ろす琥珀金の男。


 設定資料集三ページ分の男が——この学園の「戦争」の、片方の頂点に立っている。


 心臓が跳ねた。


 嫌な予感——ではなかった。もっと複雑な何かだった。恐怖と、好奇心と、そして——前世のゲーマーとしての直感が告げている。


 あの男は——この学園で、まだ見ていなかった種類の存在だ。


 ディートリヒとは違う。ヴァネッサとも違う。レオンハルトのような光属性カーテンでもない。


 三ページ分の設定の中に何が書かれていたか、千紗は覚えている。だがあの三ページのどこにも——尖塔の上から戦場を支配するこの圧倒的な存在感は記述されていなかった。


 テキストでは伝わらないものが、この世界にはある。


 フィリアーネは石柱の陰にしゃがんだまま、尖塔を見上げ続けた。


 ルートヴィヒの視線が——一瞬だけ、渡り廊下の方を向いた気がした。


 気のせいかもしれない。二十メートル以上離れている。あの位置からフィリアーネの姿など見えるはずがない。


 だが——深紅の瞳が、ほんの一拍だけ、こちらに止まった。


 笑みが浮かんだ。


 冷たく、美しく、切れ味だけで構成された——刃の笑み。


 次の瞬間には視線は前庭に戻り、ルートヴィヒは再び指を振った。深紅の部隊が新たな陣形に移行する。


 フィリアーネの心臓が、もう一度跳ねた。


 ——見られた。


 見られたのか? 気のせいか?


 分からない。


 分からないが——あの笑みは、忘れられそうにない。


---


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