第21話 夜会への招待
フィリアーネは自分の手を見た。
指先が白い。氷の冷気の残滓。
——しまった。
反射で動いてしまった。千紗の本能が危険に最短距離で反応した。
原作のフィリアーネなら——標本が暴走したら悲鳴を上げるか、冷笑して見下すか。自ら氷魔法で対処したりしない。
だがシステムの警告音は——鳴っていなかった。OOC判定なし。
考える暇はなかった。
「ローゼンクランツ」
ヴァイスミュラー教授の声。
「今の精度。——春学期の成績下位の生徒の技ではないな」
視線が集まった。博物館の全員がフィリアーネを見ている。
「……夏の間に自主練習を」
「ふむ」
教授はそれ以上追及しなかった。だが——ヴァネッサの琥珀色の瞳が、面白そうにフィリアーネを見つめていた。
そしてヴァネッサは教授に向き直った。表情が切り替わっている。
「覚醒予測は来年のはずだったんですが」
声が低い。助教の声ではない。報告の声だ。
「保管庫のラベルが間違ってたんじゃないですか? あれ——目ができてましたよ。液体に目が。百年以上封印されてた標本がいきなり目を作って覗き返すなんて——」
「予測計算はブレンナー教授と私で行った。間違いはないはずだ」
ヴァイスミュラー教授の額に汗が浮いていた。
「外的要因か。——あるいは」
教授の視線が博物館を巡り——二箇所で止まった。
フィリアーネ。
そしてリーリエ。
二人の間で何かが——標本を刺激した。だが教授はそれを口にしなかった。
千紗の脳内で——DLC第四弾の最終ステージのローディング画面に表示されていた一文が蘇った。
【異形は眠りの中で夢を見る。夢の中で、彼らは宿主を探している。宿主の条件は——「相反する二つの力を持つ者」】
相反する二つの力。
リーリエ——聖なる力と魔の力。
フィリアーネ——氷の魔力と、右手の甲に宿る翠緑の精霊の加護。
この博物館の中に、「相反する二つの力を持つ者」が——二人、いた。
百年の眠りから標本を叩き起こすには——十分すぎる餌だ。
◇◇◇
「今日の参観はここまでとする。標本は直ちに再封印する」
ヴァイスミュラー教授が宣言した。
生徒たちがざわめきながら博物館の出口に向かう。「黒い液体」「目があった」「銃でも貫通しない」「ローゼンクランツが凍らせた」——断片的な単語が石壁に反響している。
フィリアーネは最後尾で石段を上った。
右手の甲の翠緑の紋様が——脈動していた。リーラの契約の証。温かい。だがいつもとは微かに違う。温かさの底に——微かな警戒の波動が混じっている。
リーラも感じたのだ。あの黒い液体の覚醒を。精霊の感覚が、異形の気配を捉えた。
「……今夜、泉で話さなきゃ」
小声で呟いた。
博物館の出口を出た瞬間——
「それで——」
横から声がした。同時に肩に、ぽんと手が置かれた。
赤い髪。琥珀色の瞳。不敵な笑み。
ヴァネッサがフィリアーネの肩に腕を回していた。博物館の中の助教の顔ではない。旧知の先輩の顔。
「久しぶり、ローゼンクランツ。——髪、似合ってるって言おうとしたけど、授業中じゃ言えなかったわ」
近い。距離が近い。
「……ヴァネッサ。腕を——」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
減る。品位が減る。
だがヴァネッサは構わない。フィリアーネの肩に腕を回したまま、渡り廊下を歩き出した。
「ちょっと付き合ってよ。話がある」
◇◇◇
中庭。噴水の縁に並んで座った。
ヴァネッサは懐からリンゴを二つ取り出した。一つをフィリアーネに投げる。
「食べなよ。痩せたでしょ」
三秒迷って、齧った。背に腹は代えられない。
「さっきの——あんた、すごかったね」
ヴァネッサがリンゴを齧りながら言った。
「あの黒い液体が暴走した時。あたしと教授が動くより先に氷で止めた。——しかもガラスを割らず、銀液の封印層も壊さず、液体だけを冷却して活動停止させた。あんな精密制御、春学期のあんたには絶対できなかった」
「自主練習よ」
「嘘。——まあいいけど。秘密は誰にでもある」
ヴァネッサはリンゴの芯を噴水に投げた。
「あたしにも秘密がある。——交換条件の前提として、一つ教える」
琥珀色の瞳から軽さが消えた。
「さっきの授業で見せたのは、あくまで『安全な範囲』の実演よ。MR-7の魔力弾、異形武器の杖。だけどね——教授が見せなかったものがある」
ヴァネッサは制服の内ポケットから——小さな瓶を取り出した。
ガラス瓶。親指ほどの大きさ。中に——黒い液体が、ほんの一滴。
フィリアーネの背筋が凍った。
「——ヴァネッサ。それ——」
「異形のサンプル。装備課から借りてる。MR-7の弾に混ぜると——威力が三倍になる」
ヴァネッサは瓶をくるくると回した。黒い液体が瓶の内壁を這う。小さすぎて目は形成されない。だが——動いている。
「装備課の連中はこれを『汚染弾』と呼んでる。異形の液体を魔力弾に微量混入して射出する。異形には異形が効く——さっきの杖と同じ原理。ただし杖と違って使い捨て。一発撃つごとにサンプルが消費される」
「副作用は」
「MR-7の魔力弾を使う分には、使用者への汚染はほぼゼロ。杖と違って液体が直接体に触れないから」
「ほぼ?」
「百発に一発くらいの確率で、銃身の中で液体が暴れる。そうなると銃ごと汚染されて使い物にならなくなる。手に持ってたら——最悪、指が二、三本持っていかれるかも」
百発に一発。
千紗はDLC第四弾の汚染弾ギミックを思い出した。攻略Wikiにはこう書いてあった——「汚染弾は三倍ダメージだが1%の確率で暴発し、自分に50ダメージ。期待値的には使った方が得だが、精神的ダメージは数字に換算できない」。あの「1%」が——「指が二、三本」だったのだ。
ゲームの数字の裏側にある現実を知るたびに、千紗は胃が痛くなった。
「——で、本題」
ヴァネッサは瓶をポケットに戻した。
「あの黒い液体——異形。教科書には数百年前の脅威って書いてある。教授も今日、『過去の脅威ではなく現在の脅威だ』とは言った。でもね——教授が言わなかったことがある」
「何?」
「この学園の周辺で、異形の活動が確認されてる。去年の冬から。教授陣は把握してるのに、発表しなかった。評判が傷つくから。親御さんが騒ぐから。——半年間、隠蔽してたの」
フィリアーネはリンゴを齧りながら考えた。
「……その情報を、どこで?」
「あたしの仲間。——夜会って聞いたことある?」
「ないわ」
「学園の中の非公式組織。表向きは社交サロン。裏では異形の情報を集めて、対処法を研究して、必要なら自分たちで戦う。学園が動かないから、あたしたちが動くの」
ヴァネッサは立ち上がった。赤い髪が風になびく。
「入らない? あんたの氷が必要なの。さっき見たでしょ——MR-7でも異形武器でも、あの液体の動きを『止める』ことはできなかった。砕くか、貫くか。でもあんたの氷は——冷却して、活動を停止させた。殺さず、壊さず、止めた。あたしたちの中にも、ああいうことができる奴はいない」
フィリアーネは噴水の縁に座ったまま、リンゴの芯を見つめた。
——MR-7は貫けるが止められない。異形武器は砕けるが代償がある。氷は——止められる。
ゲームのDLCでは、凍結は「一時停止」の効果だった。ダメージはゼロ。だが数ターンの間、異形の行動を完全に封じる。千紗はFPSパートで凍結を多用した。火力がないから。貫通力がないから。代わりに、止めて、時間を稼いで、その間に別の手段を考える。
あの「弱い属性の代わりの戦い方」が——ここでも使える。
「……考えさせて」
「いいよ。急がない」
ヴァネッサはケープを翻した。
「——でもあんまり悩まないでね。異形は待ってくれないから」
数歩歩いて、振り返った。
「あ、そうだ。一つだけ」
琥珀色の瞳が夕暮れの光の中で光った。
「夜会に入るなら覚悟だけはしておいて。入会手続きの書類は一枚だけ。——『万が一の際、遺品を実家に届ける連絡先を記入してください』」
フィリアーネの表情が凍った。
ヴァネッサは笑った。飒爽と、不敵に——少しだけ寂しそうに。
「遺体は届けてくれないのかって? 安心して。——遺体が残ればの話だけどね」
赤い髪が渡り廊下の向こうに消えた。
◇◇◇
中庭に一人残されたフィリアーネは、齧りかけのリンゴを手に、しばらく噴水の水面を見つめていた。
脳内にシステムの文字が浮かんだ。
【未回収伏線の具現化を検知しました】
【DLC第四弾「鉄火の審判」——魔導火器体系の具現化】
【設定資料集記載設定「異形の本体=黒い液体」の実体化】
【設定資料集記載アイテム「MR-7型魔導拳銃」の登場】
【設定資料集記載アイテム「異形骨杖(名称未定)」の登場】
【キャラ格ポイント:+15(異形標本の鎮圧行動による加算)】
【現在キャラ格:298】
【備考:なお、ユーザー様がDLC第四弾のFPSパートで投げたコントローラーの修理費は、現実世界でも異世界でも補償の対象外です】
「……このシステム、どこまで知ってるのよ」
フィリアーネは呟いた。
リンゴを齧った。甘い。ヴァネッサがくれたリンゴは、いつも甘い。
夕焼けが学園の尖塔を赤く染めていた。
右手の甲の翠緑の紋様が——まだ脈動していた。警戒の波動。リーラが森の奥で、何かを感じ取っている。
「……今夜、泉で会わなきゃ」
フィリアーネは立ち上がった。
噴水の縁にリンゴの芯を置いた。
渡り廊下を、北西の森に向かって歩き出した。
制服のポケットの中で——システムの通知が、もう一つ。
【追加検知:異形標本の覚醒トリガーに関する分析】
【「相反する二つの力を持つ者」の近接が覚醒条件である可能性——87%】
【該当者:星宮リーリエ(聖力+魔力)、フィリアーネ・ローゼンクランツ(氷属性+精霊加護)】
【警告:今後、ユーザー様とリーリエが同時に異形の近辺にいる場合、覚醒リスクが指数関数的に増大します】
【推奨行動:リーリエとの距離を保つこと】
【——ただし、ユーザー様の行動履歴から推測するに、この推奨が遵守される確率は極めて低いと判断されます】
「……嫌味はいいから、具体的な対策を教えてよ」
【現在のシステムレベルでは、具体的な対策の提示は制限されています】
【初級ミッションの達成後に開放されます】
【それまでは——ユーザー様の判断力と、ゲームの攻略経験に依存します】
「要するに自力で何とかしろと」
【端的に申し上げれば——はい】
フィリアーネは深く息を吐いた。
森への道を歩きながら、夕焼けの空を見上げた。
MR-7。異形武器。汚染弾。夜会。そして——「相反する二つの力」。
フライハイが投げっぱなしにした伏線が、一つずつ、フィリアーネの足元に落ちてくる。拾わなければ踏む。踏めば——爆発する。
「……まあ、クソゲーの伏線回収は慣れてるわ。深夜三時にWiki記事を書いてた頃に比べれば——」
比べれば何だ。
比べても、何一つマシにはならない。
だが——フィリアーネは歩みを止めなかった。
公爵令嬢は立ち止まらない。
悪役令嬢は振り返らない。
そしてクソゲーの廃課金プレイヤーは——伏線が回収されるまで、絶対にアンインストールしない。
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(第17話・了)




