第19话「アルカナ資料館」
午後一時。
戦闘課の二年生と一年生の一部は、学園本棟の東翼に集められていた。
東翼の最奥。普段は施錠されている重厚な樫の扉の前に、ヴァイスミュラー教授が立っていた。白髪の老紳士が懐から鍵束を取り出し、三重の錠前を一つずつ開けていく。さらに掌を扉に押し当てると、魔力認証の紋様が青白く光って消えた。
扉が開いた。
冷たい空気が流れ出してきた。地下室特有の、石と埃と古い革の匂い。
「入りなさい。足元に注意すること。展示物には手を触れないこと。——ただし、今日は例外がある」
ヴァイスミュラー教授が先頭に立ち、石段を降りていく。生徒たちが後に続いた。
フィリアーネは列の最後尾にいた。
石段を降りきると——広い地下空間が開けた。
◇◇◇
学園博物館。
正式名称は「アルカナ資料館」。通常は教授と四年生以上にしか開放されていない。
天井の高い地下ホール。石壁に沿ってガラスケースが並んでいる。中には古い武器、風化した魔法書、変色した薬瓶、正体不明の骨格標本——数百年分の学園の歴史が、埃と保存魔法の中で眠っている。
天井から吊るされた魔石の灯籠が冷たい青白い光を落としている。暖炉はない。地下特有の、骨に沁みる冷気。
生徒たちは物珍しそうに周囲を見回していた。普段は入れない場所だ。ざわめきが石壁に反響している。
フィリアーネは周囲を観察しながら——リーリエの位置を確認した。
二列ほど前。ミーアと並んでいる。金色の髪が博物館の青白い照明に淡く光っている。リーリエは周囲のガラスケースを好奇心に満ちた目で見つめていた。ミーアが何かを指差して、リーリエが小さく笑う。
一年生がいる。今日の特別課程は学年合同らしい。
フィリアーネは反射的にリーリエから視線を外した。同じ空間。近い距離。原作のフィリアーネなら嘲笑の一つも投げるところだが、千紗はそれをやりたくない。かといって無視しすぎるのも不自然。
氷の視線で空間全体を見渡す。リーリエの上を通過する時だけ、ほんの一瞬長く止まる——侮蔑でも敵意でもない。「視界に入った」程度の、最低限の認識。
リーリエがこちらに気づいた。金色の瞳が一瞬だけフィリアーネを捉え——すぐに逸らされた。
ミーアがリーリエの腕を掴む。「大丈夫?」と唇が動いた。
——よし。この距離感でいい。
◇◇◇
博物館の最奥に、他とは明らかに異なる区画があった。
鉄柵で仕切られた一角。鉄柵の向こうには展示ケースが二つだけ。他の展示物がガラスケースに収められているのに対し、この二つは——分厚い強化硝子と金属フレームで厳重に封じられている。
だがフィリアーネの目を引いたのは、展示ケースだけではなかった。
展示ケースの隣に——テーブルが一つ。白い布がかけられ、その上に黒い手提箱が二つ並んでいた。銀色の金属包縁。見るからに頑丈そうな作りで、箱の表面には学園の紋章と「装備課」の刻印がある。
鉄柵の前で、ヴァイスミュラー教授が足を止めた。
そして——教授の隣に、赤い髪の女生徒が進み出た。
鮮やかな赤。炎のような長い赤髪。すらりとした長身に、制服のケープを片肩にだけ掛けた着崩し方。琥珀色の瞳。三年生の制服。
——ヴァネッサ・フォン・シュヴァルツシルト。
攻略Wiki。三年生NPC。台詞二行。名前と立ち絵だけのキャラクター。
その二行しか喋らないはずの女が、教授の隣に立っている。
「助教を紹介する。戦闘課三年首席——ヴァネッサ・フォン・シュヴァルツシルト」
「よろしく、後輩たち」
軽い声。教授の隣に立っているのに、緊張感が微塵もない。
琥珀色の瞳が生徒たちを一巡した。フィリアーネの上で一瞬だけ止まり——唇だけで「久しぶり」と動いた。
フィリアーネは微動だにしなかった。
◇◇◇
「諸君」
ヴァイスミュラー教授が鉄柵の鍵を開けた。
「今学期から実技比重を引き上げる理由を、まず理解してもらう。——教科書の端に一行だけ載っている名前がある」
教授は鉄柵の中に入り、一つ目の展示ケースの前に立った。
「——異形」
囁き声が波紋のように広がった。
千紗の脳内データベースがフル回転していた。異形。原作第三章の敵。正体不明の存在。フライハイが設定だけ作って放置した脅威。
「教科書には、数百年前に出現し、討伐されて消滅したと書いてある」
教授の声が低くなった。
「あれは嘘だ。異形は消滅していない。今もこの大陸のどこかに存在し、活動している」
教室が——いや、博物館が静まり返った。
「この事実を学園が公にしてこなかったのは、『不必要な混乱を避ける』という方針のためだ。だが今学期より、その方針が変わった。——諸君には、異形の実態を自分の目で知ってもらう」
教授がヴァネッサに目配せした。
◇◇◇
ヴァネッサが一つ目の展示ケースの封印を解いた。魔力認証。暗証番号。三重の解錠。
強化硝子のケースの中に——黒い塊があった。
鎧だった。
いや——鎧の破片、というべきか。
胸当ての上半分。肩から胸にかけての部位。人間の体に合わせた形状だが——素材が異常だった。
黒い。漆黒。だが金属の黒ではない。光を反射しない。まるで光を吸い込んでいるような黒。表面に紋様がある——だがそれは彫刻や象嵌ではなく、黒い素材そのものが脈のように蠢いた痕跡だ。血管のような、根のような、不規則な隆起が鎧の表面を覆っている。
そして——鎧の断面。砕けた端から、黒い液体が薄く滲んでいた。乾いているはずなのに、博物館の青白い照明の下で、断面がぬらりと濡れて光っている。
「触ってみなさい」
ヴァネッサが強化硝子のケースから鎧の破片を取り出した。
素手ではない。白い手袋をしている。
最前列の生徒が手袋を受け取り、恐る恐る鎧に触れた。
「——っ!」
手を引いた。
「冷たい——いえ、冷たいのとは違う。何か——吸われるような——」
「そう。これに触れると、魔力が微量ながら吸引される。素手で長時間触れれば、魔力欠乏症を起こす」
ヴァネッサが淡々と言った。
鎧の破片が手袋とともに生徒たちの間を回った。
フィリアーネの番が来た。手袋越しに黒い鎧を持ち上げる。
重い。見た目以上に重い。そして——手袋越しでも分かる、あの感覚。指先から何かが引き出される。体温ではない。もっと深いところにある何か。
千紗の脳内で、ゲーム画面のUIが一瞬だけフラッシュした。ステータスバーが微かに減る——あの感覚。触れているだけでHPではなくMPが削られる、悪質な環境ダメージ。フライハイが中盤以降に実装したクソギミックの一つだ。
表面の紋様を目で追った。血管のような隆起。規則性はない。だが——生きている、と思った。この鎧は素材の段階で、まだ生きている。
「……これは何で出来ているの?」
フィリアーネの声が出た。フィリアーネとして不自然でない程度の、冷淡な質問の形で。
「いい質問だ」
ヴァイスミュラー教授が答えた。
「この鎧は——異形そのものだ」
博物館がざわついた。
「異形は決まった形を持たない。その本質は黒い液体だ。流動する、意思を持った液体。それが宿主——人間や魔獣の体を侵食し、体表を覆い、鎧のように硬化する。これはかつて異形に侵食された騎士の遺体から回収された、硬化した異形の外殻の一部だ」
◇◇◇
「——さて」
ヴァイスミュラー教授が鎧の破片を展示台に戻した。
それから——テーブルの上の黒い手提箱の方を振り向いた。
「ここからは実演だ。異形がいかに厄介な存在かを、諸君の目と耳と身体で理解してもらう」
ヴァネッサが白い布をめくった。
黒い手提箱が二つ。ヴァネッサは暗証番号と指紋認証で一つ目を開けた。箱の内側は黒い泡沫素材で覆われ、その中に——
金属の塊が収まっていた。
フィリアーネは見た瞬間、何であるかを認識した。
前世の千紗は銃を実際に撃ったことはない。だが見たことはある。映画で。アニメで。ゲームで。そして——『蒼穹のステラリウム』のDLC第四弾「鉄火の審判」で。
あの忌々しいDLCだ。
フライハイが突如として乙女ゲームの世界観に銃をぶち込んだ、プレイヤーコミュニティを二分した問題DLC。「魔法学園モノになんで銃が出てくるの?」「世界観崩壊」「いや逆に面白い」「FPSパートのエイムがガバガバすぎる」——発売初週のレビュー欄は阿鼻叫喚だった。
千紗はあのDLCを三周した。三周目でようやくFPSパートの隠しルートを解放した。文句を言いながら三周する女、それが宮園千紗だ。
ヴァネッサが泡沫素材から取り出したのは——短銃身の、ずんぐりとした拳銃だった。全体が暗灰色の金属で出来ている。銃身は短いが、グリップが異様に太い。通常の拳銃なら弾倉が収まる部分に、淡く光る紋様が刻まれていた。魔力紋様だ。
「シュテルンヴァッへ工廠製、MR-7型魔導拳銃」
ヴァネッサが銃を片手で持ち上げ、生徒たちに見えるように掲げた。
「口径は九ミリ相当。ただし弾丸は通常の金属弾ではなく、魔力を圧縮して射出する。装備課の連中がここ十年かけて開発した代物で、要するに——魔法を撃つ銃よ」
魔法を撃つ銃。
千紗の脳内で、攻略Wikiの記載がスクロールした。
【MR-7型魔導拳銃:DLC第四弾「鉄火の審判」で初登場。学園の装備課が異形対策として開発した近距離用魔導火器。使用者の魔力を弾丸に変換して射出する。威力は使用者の魔力量と属性に依存する。ゲームではFPSパートで使用するが、照準がブレすぎて多くのプレイヤーが投げた。開発者インタビューによれば「乙女ゲームにFPS要素を入れることで新規層を開拓したかった」とのこと。開拓されたのは炎上だけだった】
【なおMR-7の「MR」は「Magische Revolve(魔導回転式)」の略だが、実際の機構は回転式ではなく半自動式である。設定資料集によれば初期設計は回転式だったが、量産段階で変更された。名前だけが残った。このゲームでは名前だけが残って中身が伴わないことが非常に多い】
千紗はこのWiki記事を書いた人間と握手がしたかった。最後の一文が完璧すぎる。




