第18話「開学式」
新学期が始まる時というのは、どこか浮ついた空気がある。
これは前世でも同じだった。夏休み明けの教室特有の、あの落ち着かない雰囲気。千紗は前世の高校時代、その空気がわりと好きだった。
この世界でも——同じだ。
学園の中央講堂。ゴシック様式の大広間に、全学年の生徒が集まっている。白い柱が等間隔に並び、ステンドグラスの窓から夕暮れの光が差し込んでいる。数十の円卓が並び、その上には晩餐の料理。
焼いた鶏肉。温野菜のグラタン。果物の砂糖漬け。焼きたてのパン。
ここ数日間、焼き魚と木の実しか食べていない人間にとって、この光景は拷問に等しい。しかもフィリアーネは今朝、北西の森から学園まで走ってきた。この料理を前にして我慢するということは、人類の限界を超えた試練である。
残った料理を包んで持ち帰るだけで数日分の食料になる。袋か容器はないだろうか——と考えたが、あくまで考えただけだ。
この忌々しい貴族学校の文化。この学園は「体面」というものを過剰に重んじる。料理を持ち帰る姿を見られたら——軽蔑されるだけならまだしい。キャラ格に傷がつきかねない。
◇◇◇
フィリアーネは皿を手に取り、鶏肉を一切れ、野菜を適量、パンを一つ。完璧な分量。完璧な所作。公爵令嬢として過不足のない食事。
内心では——パンをあと十個ポケットに詰めて森に帰りたかった。
だが悪役令嬢は品位を保つ。
円卓の隅に座り、鶏肉を——ゆっくりと、上品に——食べた。
美味い。
涙が出そうなほど美味い。一ヶ月ぶりの塩と胡椒が、焼き魚に飽き飽きしていた味覚を殴りつけている。
だが表情は変えない。氷の薔薇は、鶏肉一切れで顔を崩さない。
◇◇◇
【新学期を迎え、皆さんがより一層の向上心を持って帰ってきたことを嬉しく思います——】
壇上で学園長の式辞が始まった。長い。校長の話が長いのは、時代と世界を超えた普遍的法則だ。
だが流石はこの学園——「体面」の力で数百人の生徒が背筋を伸ばして聞いている。数百人が静かに校長の話に耳を傾ける光景は、確かに壮観だった。
もちろん、囁き声が完全に消えたわけではない。
「見て、あの人……ローゼンクランツの?」
「髪が短くなってない?」
「ほんとだ。どうしたんだろう」
「お父上が賭けで六連敗したんですって」
「公爵家も落ちたものね」
「しっ、聞こえるわよ」
「聞こえたところでどうなの? 寮からも出たって話じゃない」
生徒たちの間に混じって、フィリアーネには「光栄な」耳打ちがはっきり聞こえていた。
この人たちは何を言っているのだ。
フィリアーネは努めてゆっくりと、上品に鶏肉とパンを食べ続けた。朝、森から走ってきて体力は限界だ。エネルギー補給の機会を逃すわけにはいかない。
◇◇◇
「フィリアーネさま」
活気のある声が聞こえた。
落ちぶれた公爵令嬢にこうして笑顔で声をかけてくれる人間は多くない。
顔を上げると——案の定、リゼットが銀の盆を持ってにこにこと立っていた。紅茶のカップが一つ。
「お紅茶をお持ちしました。お砂糖はいつもの通り一つで」
「ありがとう。——座りなさい、リゼット」
「え? でも——」
「命令よ」
リゼットはおずおずとフィリアーネの向かいに座った。大広間で最も寂しい円卓に、ようやく二人。
周囲の円卓は六人、七人と賑やかに囲んでいる。フィリアーネの円卓だけが——静かだった。
春季学期の三ヶ月間、フィリアーネは完璧な悪役令嬢を演じきった。クラスメイトを氷の視線で黙らせ、廊下で道を空けさせた。結果——「ローゼンクランツさまの機嫌を損ねないように」が学年の暗黙の了解になっている。
キャラ格のためには正しい。だが代償は——こうして開学式の晩餐を、侍女と二人で食べることだ。
「リゼット。夏休みはどうだった?」
「はい! 実家に帰って、母の手伝いを少し。フィリアーネさまは——」
言いかけて、口を閉じた。フィリアーネの夏休みがどんなものだったか——リゼットは知っている。
「わたくしは元気よ。見ての通り」
「……はい。お元気そうで、安心しました」
リゼットの目が少し潤んだ。
フィリアーネは紅茶を口に運んだ。温かい。砂糖の甘さが、一ヶ月の野生生活で荒んだ心に沁みた。
◇◇◇
紅茶を飲みながら——フィリアーネの視線は大広間を巡っていた。
実のところ、自然と浮かんでくる疑問が一つあった。
以前は空腹を満たすのに忙しくて考える暇がなかったが、学期が始まるにあたって、その疑問が再び頭をもたげていた。
——リーリエは今、何をしているのだろう。
原作の主人公。このゲームの物語の中心。
今後この学園に降りかかる数々の困難は——フィリアーネが何もしなくても、リーリエが走り回って解決する。聖属性で敵を浄化し、攻略対象たちの心を開き、最終的には世界を救う。本当にありがたいお人だ。
そして——この世界が原作通りに動いているかを確認する最も確実な方法は、リーリエの動向を追うことだ。彼女の行動がこの世界の方向を決める。
そろそろ確認すべきだ——そう思って大広間を見渡した。
——いた。
大広間の反対側。一年生の円卓。
金色の髪の少女が座っていた。リーリエ・シュテルンミヤ。背中まで流れる金髪。柔らかい笑顔——だが、どこかぎこちない。
リーリエの隣には——一人だけ。
桜色のショートカットに大きなヘーゼルの瞳。ミーア・ヘッセンドルフ。リーリエの幼馴染で唯一の友人。
二人だけだ。
大広間には各学年の生徒が揃っている。こういう機会は滅多にない。みんな授業が違い、専門領域も違うからだ。大広間にはさまざまな才能と背景を持った生徒が座っている。
だが千紗は知っている。この世界の主人公であるリーリエは今——孤立している。
◇◇◇
ミーアが何か言った。リーリエが小さく笑った。
だがその笑顔が消えた瞬間——金色の瞳がちらりと周囲を見渡した。
他の円卓の生徒と目が合った。
相手がさっと視線を逸らした。
リーリエは何事もなかったように微笑みを戻した。フィリアーネは見逃さなかった。金色の瞳の奥に走った影を。
ミーアもそれに気づいていた。視線を逸らした生徒をきっと睨む。だがリーリエがミーアの腕をそっと掴んで首を振った。いいの、と。
フィリアーネの胸がちくりと痛んだ。
——あれは、わたくしのせいだ。
原作のフィリアーネが春季学期にやったこと。答案のすり替え。ディートリヒを使った孤立工作。「リーリエと親しくすれば、ローゼンクランツ公爵令嬢に目をつけられる」——その空気を学年中に行き渡らせた。
千紗が転生する前の、原作フィリアーネの所業だ。答案の件はクリスティーナの介入で是正されたが、一度広まった空気は消えない。
結果——九月になっても、リーリエの隣にいるのはミーアだけだ。ミーアだけが怖がらなかった。幼馴染の絆が、公爵令嬢の威圧に勝った。
——どうする。
リーリエの孤立を解くべきだ。フィリアーネが作った空気を壊すべきだ。
だが——フィリアーネが突然リーリエに優しくしたらOOC。悪役令嬢が標的に友好的になるのは「らしくない」。かといって放置すれば孤立は深まり——闇堕ちの条件が整う。
自分で築いた壁を、自分で壊せない。それが悪役令嬢の呪いだ。
紅茶を一口。冷めていた。
◇◇◇
学園長の式辞は続いていた。
【当学園の課程は五つの専門領域に分かれております】
千紗は攻略Wikiでこの設定を見た記憶がある。
【戦闘課——元素魔法の実戦運用および近接戦闘。武器課——武器製造および武器魔法付与。錬金課——錬金化学および魔法道具製造。学術課——魔法史、魔法理論、聖典解読。そして聖務課——聖術、治癒魔法、結界術。各課程の生徒は専門科目を中心に履修しつつ、他課程の基礎科目も必修として修めること】
五つの専門課程。フィリアーネは戦闘課だ。
氷属性で戦闘課。最弱属性で、最も戦闘を求められる課程。ローゼンクランツ公爵家が代々戦闘課に子息を送り込む伝統のせいだ。家名で課程が決まる。実力ではなく。
結果——春季学期の戦闘課実技、フィリアーネは下から数えた方が早かった。
だが今学期は違う。リーラの指導で氷の精密制御力は別人のように上がっている。威力では勝てなくても、精度と応用力で——
【——さて。今学期より、全課程において実践科目の比重を大幅に引き上げます】
フィリアーネの思考が中断された。
大広間がざわついた。
【特に戦闘課においては、従来の理論課程の一部を実技演習に振り替えます。実戦形式の授業を増設し、試験における実技の配点も引き上げる予定です】
理論が減って実技が増える。フィリアーネにとっては——チャンスだ。リーラ仕込みの精密制御を見せる機会が増える。
だが同時にリスクでもある。精霊術は使えない。素の氷属性だけで戦わなければならない。
【その第一歩として——】
学園長が一拍置いた。
【戦闘課の二年生は、本日午後、ヴァイスミュラー教授の特別実践課程に出席すること。理論講義の予定を変更し、実施いたします。内容は——】
学園長の老いた目が、大広間を見渡した。
【異形に関する、特別標本参観です】
囁き声が波紋のように広がった。
異形。アブノーマル。
千紗の脳内データベースが反応した。原作の第三章以降に登場する敵。正体不明の魔獣。通常の元素魔法が通じにくい。Kusogameの常で、詳しい生態や起源は描写されなかった。
——それが、前倒しで来る。
今日の午後。
フィリアーネは紅茶のカップを置いた。
「フィリアーネさま? お顔が——」
「何でもないわ、リゼット」
何でもなくはない。
原作第三章の内容が、こんなに早く始まる。異形の標本参観。戦闘課の実技強化。これは——ゲームのシナリオが加速しているのか、それとも、Kusogameが書かなかっただけで、原作でも本来はこの時期に起きていたことなのか。
どちらにしても——午後の授業で、千紗はこの世界の「異形」を自分の目で見ることになる。
教科書の端に一行だけ載っている名前ではなく。
保存液の中で眠る、本物を。
フィリアーネは冷めた紅茶を飲み干した。
——午後か。
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(第十四話・了)




