第15話 人形の主
その手は枯れ木のようだった。
蒼白い肌が骨に張り付き、干からびた老木のように乾ききっている。指がゆっくりと持ち上がり、フィリアーネとリーラに向かって招くように動いた。
そして——その手は壁の中へ引っ込んでいった。
フィリアーネが最初に我に返った。
二歩前に進み、波打つ洞壁に手を伸ばした。触れた感触は柔らかく、まるで水に手を入れたような感覚だった。意識を集中すると、手がそのまま壁の中に沈んでいく。
「……入れる、みたい」
声が掠れていた。
後ろでリーラがフィリアーネの腕を掴んだ。長い耳が伏せ、碧の瞳に警戒の色が浮かんでいる。
「入るの? 相手が何者か分からないのに」
「ここにいても——紅竜が戻ってきたら終わりよ」
フィリアーネはリーラを見た。
「わたくしを信じて」
リーラは三秒間黙っていた。
そして——頷いた。
「……分かった。でも、何かあったらすぐに逃げる」
フィリアーネはリーラの手を握った。冷たい指先だったが、握り返す力は強かった。
深呼吸を一つ。
二人は、壁の中へ足を踏み入れた。
◇◇◇
悪夢の中を歩いているようだった。
完全な暗闇。光も音もない。前後左右の感覚すら曖昧になる。
フィリアーネはリーラの手だけを頼りに、一歩一歩進んだ。
——もし途中で魔法が切れたら。
——この岩の中に埋もれて死ぬのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった時だった。
唐突に——視界が開けた。
◇◇◇
そこは、先ほどの洞窟より遥かに広い空間だった。
天井は高く、壁は滑らかに削られている。明らかに自然の洞窟ではない。誰かが——何かが、意図的に作り上げた空間だ。
そして、その中央に——
「……何、あれ」
リーラが呟いた。
フィリアーネも言葉を失っていた。
それは——人形だった。
いや、人形のようなもの、と言うべきか。
人の形をしている。二本の腕、二本の脚、胴体、頭部。だが——明らかに人間ではなかった。
全身が白い。蝋のように白い肌が、骨格の上に薄く張り付いている。関節の繋ぎ目が不自然に浮き出ており、まるで球体関節人形のような——
そして、その人形は——宙に浮いていた。
足が地面についていない。黒いローブを纏った体が、空中に静止している。
◇◇◇
「あなたたちが——私を起こしたのね」
声が響いた。
古い声。掠れた声。まるで何百年も使われていなかった声帯を、無理やり動かしているような。
人形の——いや、その存在の口が動いていた。
「あ、あなたは——誰」
フィリアーネの声が震えていた。
人形は答えなかった。
代わりに——ゆっくりと、こちらに近づいてきた。
宙に浮いたまま。音もなく。
三歩の距離まで近づいた時、フィリアーネはその顔を見た。
顔があった。目も鼻も口もある。
だが——その肌は半透明だった。
蝋のような白い肌の下に、骨格が透けて見える。頬骨の輪郭。眼窩の縁。顎の骨。
生きた骸骨が、薄い皮膚を被っている。
そんな顔だった。
リーラがフィリアーネの前に出た。弓を構え、弦に風の魔力を集中させる。
「何者! 答えなさい!」
人形が——笑った。
「ケケケケケ……」
耳障りな笑い声が洞窟に反響した。フィリアーネは生まれてこのかた、これほど不快な笑い声を聞いたことがなかった。
「愚かな子供たちよ……」
人形が両腕を広げた。
「感謝するがいい。私がお前たちを救わなければ——あの竜に焼き殺されていた」
◇◇◇
「救った……?」
フィリアーネが聞き返した。
「あの紅竜から——あなたが?」
「そうだ。お前たちをこの洞窟に導いたのも、壁を開いたのも、全て私だ」
人形は宙に浮いたまま、フィリアーネたちの周りをゆっくりと回り始めた。
「なぜ——」
「暇だったからだ」
あまりにも予想外の答えだった。
「……暇?」
「ここには長い間、誰も来なかった。退屈で退屈で仕方がなかった。——そこへお前たちが現れた」
人形が足を止めた。
半透明の顔に、笑みが浮かんでいる。骨格が透けて見える笑みは、悪夢のようだった。
「さあ、私の小さな客人たちよ。名を名乗れ」
「なぜ?」
リーラが警戒を解かずに問い返した。
「主人への最低限の礼儀というものだ」
嘲りを含んだ声だった。
◇◇◇
フィリアーネは深呼吸した。
相手の実力は未知数。だが——敵意があるなら、とっくに殺されているはずだ。
「……フィリアーネ・ローゼンクランツ。ローゼンクランツ公爵家の令嬢よ」
リーラが横目でフィリアーネを見た。少し躊躇った後、弓を下ろした。
「……リーラ。森の精霊族」
「ほう」
人形が興味深そうに首を傾げた。
「公爵令嬢と精霊族か。——前回の客人より、遥かに面白い」
「前回?」
「百年ほど前に、冒険者が迷い込んできた。つまらない連中だった。すぐに発狂して死んでしまった」
さらりと恐ろしいことを言う。
フィリアーネの背筋に冷たいものが走った。
「では——あなたの名前は? 主人としての礼儀があるなら」
「私か」
人形の声が低くなった。
「私の名は重要ではない。どうしても知りたいなら教えよう——アルカディウス・ネヴァーモア・ザルバドール・オルテンシア・クロウリー……」
途方もなく長い名前が続いた。フィリアーネは途中で数えるのを諦めた。
そして——人形は最後にこう付け加えた。
「……だが、私はここの主人ではない。私は——ただの僕だ。主の最も忠実な僕に過ぎない」
◇◇◇
僕。
この力を持つ者が——僕?
フィリアーネの思考が止まった。
リーラも目を見開いている。精霊族の彼女には、この存在の魔力がどれほど異常か、より明確に分かるのだろう。
「では……あなたの主人は——」
フィリアーネは慎重に尋ねた。
「誰なの」
人形が——笑った。
今度は声を出さず、ただ口角を上げただけの笑み。
半透明の肌の下で、骸骨が笑っている。
「私の主は——お前たちもよく知っている名だ。様々な書物で、様々な呼び方をされている。だが、世俗の人間たちには——一つの呼び名で知られている」
人形は一拍置いて、微笑んだ。
「——悪魔、とね」
◇◇◇
脳内にシステムの通知が浮かんだ。
【隠しイベント発生】
【悪魔の僕——アルカディウスとの遭遇】
【警告:このイベントは原作に存在しません】
【警告:対象は極めて危険な存在です】
【推奨行動:慎重な対話、信頼関係の構築】
【キャラ格ポイント変動なし——状況継続中】
フィリアーネは——息を呑んだ。
悪魔。
この世界において、神と対をなす存在。原作では第五章の終盤に、ほんの僅かだけ言及される名前。
それが——今、目の前にいる。
その僕が。
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(第十五話・了)




