第14話 紅炎の苦鳴
森の北へ走った。
リーラが先導し、フィリアーネが後に続いた。木々の間を縫い、倒木を跳び越え、息を切らしながら走った。
三度目の咆哮が響いた。
近い。ずっと近い。
「もうすぐ——封印地よ」
リーラの声が緊張を帯びていた。
木々が途切れ、開けた場所に出た。
フィリアーネは——足を止めた。
◇◇◇
赤かった。
巨大な体躯が、夕暮れの光を浴びて赤銅色に輝いていた。
紅竜。
翼を広げれば学園の講堂を覆い尽くすほどの巨体。全身を覆う鱗は炎のように赤く、口の端から煙が漏れている。
だが——その姿は、威厳とは程遠かった。
地面にうずくまり、身を捩り、苦悶の声を上げている。
巨大な瞳は濁り、呼吸は荒く、時折痙攣するように体が震えていた。
「——苦しんでいる」
リーラが呟いた。
「封印が——何かおかしい」
紅竜の周囲に、古い魔法陣が刻まれていた。地面に描かれた複雑な紋様。その一部が——黒く変色している。
腐食。封印の一部が、何かに侵されている。
紅竜が再び咆哮した。
——ギャァァァァァァァァッ!!
耳を劈く悲鳴。怒りではない。純粋な苦痛の叫び。
フィリアーネは耳を塞いだ。鼓膜が破れるかと思った。
◇◇◇
リーラが前に出た。
弓を下ろし、両手を広げた。
「——落ち着いて」
声が変わった。
人間の言葉ではない。高く澄んだ、風に乗る響き。精霊族の言語——いや、違う。
もっと古い。もっと深い。
竜語だ。
リーラが竜語を話している。
フィリアーネには一言も理解できなかった。音の羅列としか聞こえない。だが——その響きには、確かに意味があった。
紅竜の動きが止まった。
濁った瞳がリーラを見た。
リーラが再び竜語で何かを告げた。長い文章。問いかけるような抑揚。
紅竜が——答えた。
低く、地鳴りのような声。途切れ途切れの、苦しげな響き。
リーラの顔色が変わった。
「——そんな……」
日本語——いや、この世界の共通語に戻っていた。
「リーラ、何て言っているの?」
「封印が——内側から蝕まれている。何かが——何かが封印の中に入り込んで、この子を苦しめている」
紅竜が身を捩った。
巨大な尾が地面を叩き、衝撃波が走った。フィリアーネは吹き飛ばされそうになり、木の幹にしがみついた。
「安抚できる!?」
「試す——!」
リーラが両手を掲げた。風の魔力が渦を巻き、緑色の光が紅竜を包んだ。
精霊族の鎮静術。森の生き物を落ち着かせる古い魔法。
紅竜の動きが鈍くなった。呼吸が少し穏やかになった。
「——効いている」
リーラの額に汗が滲んでいた。
「もう少し——もう少しで——」
◇◇◇
その時だった。
紅竜の瞳が——真っ黒に染まった。
一瞬で。濁った赤から、漆黒へ。
そして——咆哮。
今までとは全く違う、禍々しい響き。
紅竜の苦痛の声ではない。別の何かが——紅竜の口を借りて叫んでいる。
リーラの鎮静術が弾け飛んだ。
「——駄目! 乗っ取られた!」
紅竜が立ち上がった。
巨体が翼を広げ、口を開けた。
炎が渦巻いている。
「逃げて——!!」
リーラがフィリアーネの手を掴んだ。
同時に——紅竜が炎を吐いた。
◇◇◇
熱。
背中を焼く灼熱。
フィリアーネは走った。考える余裕はなかった。リーラに手を引かれ、森の中を駆け抜けた。
背後で木々が燃えている。炎の壁が迫ってくる。
「こっち——!」
リーラが方向を変えた。
崖が見えた。岩壁に——穴がある。小さな洞窟の入り口。
「入って——!」
フィリアーネは飛び込んだ。
リーラが続いた。
直後——入り口を炎が舐めた。
熱風が洞窟の中に吹き込んだ。髪が焦げる匂いがした。
◇◇◇
暗闇。
荒い呼吸。
心臓が破裂しそうなほど脈打っている。
フィリアーネは地面に倒れ込んだ。動けない。息ができない。
外で紅竜が咆哮している。だが——炎は止んだ。入り口が狭すぎて、これ以上は攻撃できないらしい。
しばらくして——羽ばたきの音が遠ざかっていった。
「……行った」
リーラの声が聞こえた。
「行った……どこかへ飛んで行った……」
フィリアーネは仰向けになった。
洞窟の天井が見えた。暗い。だが——完全な暗闇ではない。
壁に、微かな光が点在していた。砂粒のような、小さな輝き。
「……夜光石」
リーラが呟いた。
「この洞窟——古い。とても古い……」
フィリアーネは起き上がろうとした。体中が痛い。だが——生きている。
「リーラ……怪我は……」
「ない。あなたは?」
「……生きてる」
それだけで精一杯だった。
◇◇◇
洞窟は思ったより広かった。
入り口は狭いが、中は椀を伏せたような形になっている。壁の夜光石が淡い光を放ち、ぼんやりと内部が見えた。
奥に——行き止まり。
出口はない。
「……閉じ込められた、わね」
フィリアーネが呟いた。
「紅竜が戻ってきたら……」
「しばらくは戻らない。あの状態では——どこかで暴れているはず」
リーラは壁に背を預けた。顔色が悪い。
「それより——さっきの。あの黒い瞳。あれは……」
「何だったの?」
「分からない。でも——紅竜の意思じゃなかった。何かが——何かがあの子を操っていた」
リーラの声が震えていた。
フィリアーネは隣に座った。
二人とも、しばらく無言だった。
◇◇◇
どれくらい時間が経っただろう。
フィリアーネは壁に凭れたまま、目を閉じていた。
疲労が全身を蝕んでいる。だが——眠れない。紅竜の姿が瞼の裏に焼きついている。
「……ねえ」
リーラの声が聞こえた。
「何?」
「さっき——ありがとう」
「何が?」
「一緒に来てくれて。一人だったら——たぶん、逃げられなかった」
フィリアーネは目を開けた。
リーラの横顔が見えた。夜光石の淡い光に照らされ、銀緑の髪が微かに輝いている。
「……わたくしは、足手まといだったわ」
「そんなことない。あなたがいたから——わたしは冷静でいられた」
長い耳が伏せていた。
「一人は——怖いから」
フィリアーネは——何も言わなかった。
代わりに、そっとリーラの手に自分の手を重ねた。
リーラの耳がぴくりと動いた。
だが——手を引っ込めなかった。
◇◇◇
その時だった。
洞窟の奥から——声が聞こえた。
古い声。掠れた声。ほとんど途切れそうな、微かな声。
『——客人か……』
フィリアーネとリーラが同時に顔を上げた。
洞窟の奥の壁が——揺らめいていた。
硬い岩が、水面のように波打っている。
『……待っていた……長い間……』
壁の中から——何かが、這い出ようとしていた。
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(第十四話・了)




