第13話 翠緑の道標
その日、フィリアーネは道に迷っていた。
泉への道は七日間で完全に記憶したはずだった。合流点を右、苔むした岩を左、三本の白樺を目印に北へ。単純な経路だ。
だが今日に限って——森が違う。
「……おかしい」
フィリアーネは足を止めた。
同じ場所を三度通った。見覚えのある倒木。見覚えのある蔓の絡まり方。間違いない、堂々巡りをしている。
空を見上げた。木々の隙間から覗く空は鈍い灰色だった。方角が分からない。太陽の位置すら掴めない。
右手の甲の紋様に意識を集中した。風の契約。リーラを呼べるはずだ。
だが——反応がない。
紋様は微かに脈動しているが、リーラの気配を感じ取れなかった。距離が離れすぎているのか。それとも、この森の異常が干渉しているのか。
フィリアーネは溜息をついた。
迷った。完全に迷った。
学園の敷地内の森で遭難する公爵令嬢。情けない話だ。
◇◇◇
一時間後。
状況は改善していなかった。
同じ倒木を五度目に見た時点で、フィリアーネは腰を下ろした。
これは普通の迷子ではない。
何かが道を塞いでいる。魔法的な現象か、あるいは——森そのものの意思か。
水筒の水を一口飲んだ。残り半分。焦る必要はないが、このまま日が暮れると厄介だ。
——落ち着け。
フィリアーネは目を閉じた。
原点に戻れ。苔は北側に多く生える。木の年輪は南側が広い。風は——今日は風がない。それが異常だ。この森には常に微風が吹いているはずなのに。
無風。灰色の空。道の消失。
脳内データベースが回転した。
——森の守護者の試練。
原作の設定資料集に記載があった。精霊族の領域に無断で踏み込んだ者に対し、森そのものが道を閉ざす現象。解除条件は——
「精霊族の承認を得ること」
リーラとの契約は結んだ。だが森全体の承認は得ていない。毎日通っていたのは泉までの限定的な経路だけだ。今日は少し違う道を試そうとした。その結果がこれだ。
◇◇◇
その時——風が吹いた。
唐突に。一瞬だけ。頬を撫でる程度の微風が、フィリアーネの髪を揺らした。
そして、声が聞こえた。
「——あなた、何をしているの」
見上げた。
リーラが木の枝の上に立っていた。銀緑色の髪が風に靡き、碧色の瞳がフィリアーネを見下ろしている。
「リーラ……!」
「一時間も同じ場所をぐるぐる回っていたから、見に来た」
「……見ていたの?」
「途中から」
フィリアーネの耳が熱くなった。醜態を見られていた。
リーラは枝から飛び降りた。着地の音がしない。
「今日はどこに行こうとしたの」
「……泉に」
「嘘。泉への道は右よ。あなたは左に曲がった」
「……森の奥に何があるか、少し見てみたくて」
「許可なく?」
「……許可なく」
リーラの長い耳が伏せた。
「この森には古い守護がある。精霊族以外の者が奥に踏み込むと、道が閉じる」
「知っている。本で読んだ」
「知っていて踏み込んだの?」
「好奇心に負けた」
三秒間の沈黙。
リーラが——溜息をついた。
「来て。道を開く」
◇◇◇
リーラがフィリアーネの手を取った。
冷たい指先だった。だが不思議と心地よい。
リーラが歩き出すと、景色が変わった。同じ倒木、同じ蔓——だが、その向こうに道が見えた。さっきまでなかった道だ。
「精霊族が触れると、森は道を開ける。契約者も同様のはずなのだけれど——あなたの契約、まだ浅いから」
「どうすれば認識される?」
「時間。あるいは——」
リーラが言葉を切った。
「あるいは?」
「……森の奥の泉で、儀式をする方法がある」
「儀式?」
リーラの耳の先端が赤くなった。
「今度教える。今日は——まず泉に行きましょう」
◇◇◇
泉に着いた。
見慣れた景色だ。大木の枝、澄んだ水面、苔むした岩。
フィリアーネは岩に腰を下ろした。
「……助かった。ありがとう」
「礼は要らない。契約者を森で迷わせたままにはできない」
リーラは泉の傍にしゃがみ、手を水面に浸した。銀色の魚が二匹、掌に泳ぎ寄ってきた。
「お腹、空いているでしょう」
「……いつも分かるのね」
「匂いで分かる」
魚を受け取りながら、フィリアーネは聞いた。
「ねえ、リーラ。さっきの儀式のこと——」
「しつこい」
「気になる」
リーラの耳がぴくぴく動いた。
「……契約を深める儀式。森の精霊に、契約者を正式に紹介する」
「どんな儀式?」
「——名前を交換する」
「名前? わたくしたち、もう名前は知っているけれど」
「違う。真名よ」
リーラの声が低くなった。
「精霊族には、表の名前と真名がある。真名を知られると——その相手には逆らえなくなる」
フィリアーネは息を呑んだ。
「それは……重い契約ね」
「だから軽々しくはできない。でも、真名を交換すれば——森はあなたを完全に受け入れる。道に迷うこともなくなる」
リーラは水面を見つめていた。碧の瞳に複雑な感情が浮かんでいた。
「……考えておいて。急がなくていい」
フィリアーネは頷いた。
◇◇◇
午後。
フィリアーネは泉の傍で魚を焼き、リーラは枝の上で本を読んでいた。
穏やかな時間だった。
「リーラ。あなたは森の外に出たことはある?」
「ある。何度か」
「どう思った?」
「……騒がしい。でも——面白いものもあった」
「何が?」
「本。人間は色々な本を書く」
フィリアーネの目が輝いた。
「どんな本を読んだの?」
「騎士と姫の恋物語。魔王と勇者の戦い。——あなたたちの想像力は面白い」
「精霊族には物語がないの?」
「ある。でも、全部が真実の記録。作り話を楽しむ文化がない」
「フィクションがない?」
「フィク……?」
「虚構。嘘の物語。でも嘘だからこそ美しいもの」
リーラの長い耳がぴんと立った。
「——あなたは、そういう物語を知っている?」
「たくさん知っている」
「聞かせて」
碧の瞳がきらきら光っていた。
◇◇◇
フィリアーネは物語を語った。
前世で読んだライトノベルを、この世界の言葉で再構成した。異世界転生もの。チートスキル。魔王討伐。ハーレム展開。
リーラは枝の上から身を乗り出して聞いていた。長い耳がぴくぴく動き、表情がころころ変わった。
「——それで、スライムになった男は、どうなったの?」
「国を作った」
「スライムが?」
「スライムが」
リーラの目が丸くなった。
「人間の想像力は——本当に、理解できない」
「褒め言葉として受け取っておく」
夕暮れが近づいていた。木々の隙間から差し込む光が橙色に変わっている。
「そろそろ帰らないと——」
フィリアーネが立ち上がろうとした、その時だった。
◇◇◇
——轟音。
空気を震わせる、重低音の咆哮。
フィリアーネの足が止まった。リーラが弾かれたように顔を上げた。
音は遠かった。とても遠かった。学園の森を越え、山脈を越え、その向こうから響いてきた。
だが——その距離にもかかわらず、音は森全体を震わせた。
木々がざわめいた。鳥が一斉に飛び立った。泉の水面に波紋が広がった。
「——何、今の」
フィリアーネの声が掠れていた。
リーラは枝の上で立ち上がっていた。白木の弓を握り、長い耳を北に向けて。
◇◇◇
夕暮れが近づいていた。木々の隙間から差し込む光が橙色に変わっている。
「そろそろ帰らないと——」
フィリアーネが立ち上がろうとした、その時だった。
——轟音。
空気を震わせる、重低音の咆哮。
フィリアーネの足が止まった。リーラが弾かれたように顔を上げた。
音は森の北から響いていた。学園の敷地内——だが、泉よりもずっと奥。普段は足を踏み入れない領域だ。
木々がざわめいた。鳥が一斉に飛び立った。泉の水面に波紋が広がった。
「——何、今の」
フィリアーネの声が掠れていた。
リーラは枝から飛び降りていた。弓を握り、長い耳を北に向けて。
「……竜の声」




