第12話 長い耳と蔓の釣り竿
その日、フィリアーネは沢の上流で新しい釣り場を探していた。
下流のポイントは二週間で釣り尽くした。魚だって馬鹿ではない。毎日同じ場所に縫い針を垂らされれば警戒する。
合流点を過ぎ、右の流れに沿って歩いた。十分ほどで木々の密度が変わり、開けた場所に出た。
沢の先に小さな泉があった。
泉の傍の大木の枝の上に——誰かが寝ていた。
◇◇◇
長い耳。
銀緑色の髪が枝から垂れ下がっている。先端が緩やかに尖った耳が、その髪の間から覗いていた。
少女だ。フィリアーネと同じか少し年上に見える。薄い白い衣を纏い、地上三メートルの枝の上で仰向けに寝転がっている。片手に白木の弓を抱えて。
フィリアーネの足が止まった。
心臓が跳ねた。
三秒間、呼吸を忘れた。
——長い耳。銀緑の髪。弓。森の奥の泉。
脳内データベースが回転するまでもなかった。千紗は——いや、前世のゲームオタクの魂が、理性より先に反応した。
「——エルフ……!」
声に出ていた。
しかも——震えていた。
◇◇◇
フィリアーネ・ローゼンクランツ、氷の薔薇、公爵令嬢、悪役令嬢。
その全てが一瞬で吹き飛んだ。
千紗の中に眠っていた、前世のどうしようもないオタク魂が、蓋を突き破って噴出した。
エルフだ。本物のエルフが目の前にいる。
長い耳。銀色の髪。弓。森。泉。完璧だ。テンプレの塊だ。ファンタジーの権化だ。前世で千紗が読み漁ったライトノベルの、ゲームの、アニメの、その全てに登場した——あの種族が、今、三メートル上の枝の上で昼寝をしている。
設定資料集の記載を思い出す余裕もなかった。そんなものはどうでもいい。目の前にエルフがいる。それだけで十分だ。
フィリアーネの目がきらきら光っていた。
悪役令嬢の氷の仮面は完全に脱落していた。
◇◇◇
長い耳がぴくりと動いた。
碧色の瞳が開いた。少女は枝の上からフィリアーネを見下ろした。
「……何?」
低く涼やかな声だった。
フィリアーネは——駆け寄っていた。泉の傍の大木の根元まで。見上げる。三メートル上の碧の瞳と目が合った。
「あなた精霊族よね!? 本物の!? この森に住んでいるの!?」
少女の碧の瞳が見開かれた。
明らかに——予想外の反応をされた、という顔だった。
「……は?」
「その弓は精霊族の弓よね!? 弦が光っている! 風属性!?」
「ちょっと、何、あなた——」
「耳触ってもいい!?」
「いいわけないでしょう!?」
リーラは——後にフィリアーネがその名を知ることになる精霊族の少女は——枝の上で明らかに後退った。三メートルの高さの枝の上で、目を丸くして、長い耳を手で押さえた。
無理もない。森の奥で昼寝していたら、突然人間が走ってきて「耳触ってもいい」と叫んだのだ。
◇◇◇
五秒後。
フィリアーネは我に返った。
自分が何をしたか——何を言ったかを、脳内で再生した。
「耳触ってもいい」。
公爵令嬢が。
初対面の精霊族に。
「耳触ってもいい」。
血の気が引いた。
——OOC。完全なOOC。フィリアーネ・ローゼンクランツは絶対にこんなことを言わない。
だがシステムからの警告は——鳴らなかった。
なぜ。
考える。答えはすぐに出た。原作のフィリアーネは精霊族と遭遇する場面がない。前例がない状況にはOOCの基準がない。空白地帯。
だが空白地帯だからといって、今の自分の醜態が許されるわけではない。
フィリアーネは咳払いした。
「……失礼したわ。取り乱した」
枝の上で耳を押さえたまま、少女がこちらを睨んでいる。碧の瞳に警戒と困惑が混在していた。
「あなた、何なの。人間でしょう。なぜそんなに興奮しているの」
「いえ、その——」
言い訳が見つからない。「前世でエルフのフィギュアを三体持っていたから」とは死んでも言えない。
「……珍しいものを見て、つい」
「珍しいもの扱いしないで」
至極まっとうな返答だった。
◇◇◇
それでも——フィリアーネは帰らなかった。
泉の傍の岩に腰を下ろし、釣り竿を組み立てながら、さりげなく枝の上の少女を観察した。さりげなく、のつもりだったが、目線が五秒おきに上を向くので全くさりげなくなかった。
少女は枝の上で本を読み始めていた。古い装丁の本。精霊族の言語だろう、文字は読めない。
フィリアーネを無視しているようで、長い耳だけはこちらの方に向いていた。警戒が解けていない。
三十分。釣果ゼロ。
少女が本から顔を上げた。
「……あなた、まだいるの」
「釣りをしているの」
「釣れていないじゃない」
「この泉の魚は賢いのね」
「あなたの道具が粗末すぎるのよ」
碧の瞳が蔓の釣り糸と曲げた縫い針を見た。呆れが隠しきれていなかった。
沈黙が戻った。
更に十分。
「ねえ」
少女が言った。
「何?」
「ずっと見ているの、やめて」
「見ていないわ」
「嘘。二十三回見た。数えた」
フィリアーネの耳が赤くなった。
◇◇◇
少女はため息をついて、枝から飛び降りた。
三メートルの高さから——着地の音がしなかった。足元で風が渦を巻いている。
「リーラ。わたしの名前」
「え?」
「あなたがずっとそわそわしているのは名前を聞きたいからでしょう。違うの?」
違った。純粋にエルフを見ていたかっただけだ。だが名前を聞けるならありがたい。
「リーラ。わたくしはフィリアーネ」
「ローゼンクランツの。知っている。この学園の周辺にはよく来るから」
リーラは弓を肩にかけ、泉の傍にしゃがんだ。水面に手を浸すと——銀色の魚が一匹、掌に泳ぎ寄ってきた。それをぽんとフィリアーネの足元に放った。
「あげる。そのままでは日が暮れても釣れない」
魚が草の上で跳ねた。
「……ありがとう。でも、なぜ?」
「お腹が空いているでしょう。匂いで分かる」
フィリアーネは何も言えなかった。
空腹を匂いで見抜かれる公爵令嬢。
リーラは立ち上がり、弓を手に取った。
「明日も来るの?」
「……来るかもしれない」
「来るなら、もう少し静かに来て。さっきの叫び声で森の鳥が全部逃げたから」
リーラは風に乗って枝の上に戻り、本を開いた。
会話終了、という態度だった。
フィリアーネは魚を拾い上げ、泉を後にした。
◇◇◇
帰り道。
夕暮れの森を歩きながら、フィリアーネの顔は——ずっと、にやけていた。
エルフがいた。本物のエルフ。長い耳で、銀緑の髪で、弓を持っていて、木の上に住んでいて、名前がリーラで、魚をくれた。
前世の千紗が知ったら卒倒する。美咲に言っても信じてもらえない。
フィリアーネは口元を手で押さえた。にやけが止まらない。悪役令嬢がこんな顔をしてはいけない。
シェルターに戻って焚き火を起こし、リーラにもらった魚を焼いた。
美味い。普通の魚とは格が違う。
「……明日も行こう」
明日行く理由を考えた。釣り場の開拓。上流の地形調査。食料確保の多角化。
全部嘘だ。
エルフに会いたいだけだ。
◇◇◇
翌日も行った。
リーラは同じ枝の上にいた。フィリアーネの足音に長い耳が動き、碧の瞳がこちらを見た。
「あら。また来たの」
「たまたまよ」
「昨日もたまたま。今日もたまたま」
フィリアーネは岩に腰を下ろした。釣り竿を出す。
リーラは本を読んでいた。
一時間後。釣果ゼロ。リーラが魚を二匹くれた。
フィリアーネは魚を受け取りながら聞いた。
「ねえ、リーラ。あなたはなぜこの森にいるの?」
「住んでいるから」
「集落は? 精霊族は集落で暮らすと聞いたけれど」
リーラの長い耳が僅かに伏せた。
「……わたしには集落がない」
それ以上は聞かなかった。フィリアーネにも家の事情がある。聞かれたくないことは、お互い様だ。
代わりに——
「わたくしにも帰る場所がないの。今はこの森に住んでいる」
リーラが枝の上から見下ろした。碧の瞳が少し丸くなった。
「……あなた、ローゼンクランツの令嬢でしょう」
「令嬢よ。でも仕送りが止まったの。父親が賭博で全額すったから」
三秒間の沈黙。
リーラが——吹き出した。
「何それ」
「笑い事ではないわ。わたくしは今、本気で森でサバイバルしている」
「人間の貴族って、そんなことがあるの」
「あるのよ。少なくともうちの父には」
リーラは枝の上で腹を抱えて笑っていた。銀緑色の髪が揺れている。長い耳が笑うたびにぴくぴく動く。
フィリアーネの不幸話で精霊族が大笑いしている。
不思議と——嫌な気持ちにはならなかった。
◇◇◇
三日目。四日目。五日目。
毎日泉に通った。
リーラは毎回いた。毎回、同じ枝の上で本を読んでいた。フィリアーネが来ると長い耳が動き、迷惑そうな顔をしつつ——追い返すことは一度もなかった。
会話は少しずつ増えた。
リーラは森のことを何でも知っていた。どの木の実が食べられるか。どの草が薬になるか。天気の読み方。動物の習性。
フィリアーネは学園の話をした。授業の内容。生徒たちの噂。食堂の献立。リーラは人間の社会に興味があるらしく、長い耳をぴんと立てて聞いていた。
六日目。
フィリアーネが泉に着くと、リーラは枝の上ではなく、泉の縁に座っていた。
地上にいる。初めてだ。
「今日は降りているのね」
「……別に。本を読むのに飽きただけ」
碧の瞳がふいとそっぽを向いた。長い耳の先端が僅かに赤い。
精霊族も——耳が赤くなるのだと、フィリアーネは知った。
◇◇◇
七日目の夕方。
フィリアーネが泉に着くと、リーラが弓を構えていた。
泉の対岸の木の幹に的が刻んである。リーラは弦を引き——放った。矢が翠緑の光を曳いて飛び、的の中心に吸い込まれた。
風の矢。弦から矢を番えるのではなく、風の魔力を凝縮して矢の形にする。精霊族の弓術。
フィリアーネは足を止めて見ていた。
リーラが二射目を放った。一射目の矢の真横に、寸分の狂いなく刺さった。
三射目。四射目。全て的の中心に集中している。
「……綺麗」
声が漏れた。
リーラの耳が動いた。振り返った。
「あなた、来ていたの」
「今来たところ。——その弓、すごいわね」
リーラは弓を下ろした。
「風属性の精霊弓術。弦から魔力で矢を作る。矢が尽きることがない」
「矢の軌道も操れるの?」
「風で修正できる。追尾とまではいかないけれど、多少の曲射は可能」
フィリアーネの目が輝いた。また。
「あなた、また目がきらきらしている」
「してないわ」
「している。初日と同じ顔」
初日の醜態を思い出してフィリアーネの耳が赤くなった。
◇◇◇
リーラは弓を肩にかけ、泉の縁に腰を下ろした。フィリアーネも隣に座った。
「ねえ、フィリアーネ」
「何?」
「あなた、氷属性でしょう。魔力の匂いで分かる」
「ええ。最弱と言われている属性よ」
「人間の魔法体系ではね」
リーラは泉の水面を見つめた。
「あなたの氷を、見せて」
フィリアーネは右手を前に出した。掌に意識を集中する。魔力回路に冷気が走り——小さな氷の結晶が生まれた。不恰好で、欠けだらけの結晶。
リーラはそれを見つめた。碧の瞳が真剣だった。
「……純度が高い。冷たいのに、脆くない」
立ち上がった。弓を構えた。弦を引き、風の矢を作った。
「少し——試していい?」
フィリアーネが頷く前に、リーラは風の矢を放った。
翠緑の風がフィリアーネの掌の氷に触れた。
——瞬間。
氷が砕け、粉雪になり、風に乗って拡散した。泉の水面が薄氷に覆われた。草の葉に霜が降りた。空気そのものが凍った。
凍結拡散。
たった一欠片の氷が、風との融合で泉を丸ごと凍らせた。
リーラの目が——見開かれた。
「これは——」
声が上擦っていた。碧の瞳の中で光が踊っている。
「この相性は——すごい。風と氷でこんな反応が起きるなんて——」
今度はリーラが興奮していた。長い耳がぴんと立ち、頬が紅潮している。
「ねえ、フィリアーネ。あなた——わたしと契約しない?」
◇◇◇
「契約?」
「精霊族は人間と契約を結ぶことがある。古い伝統よ。契約した人間に精霊の力が加護として宿る。わたしは風属性だから——風の加護。拡散、弓術の補助、滑翔、登攀。あなたの氷と組み合わせれば——」
リーラの言葉が加速していた。普段の素っ気ない態度が嘘のように、碧の瞳がきらきらしている。
「——さっきの凍結拡散を、戦闘で使える」
フィリアーネは——笑いそうになった。
初日、エルフを前にして興奮を抑えきれなかった自分と、今のリーラが完全に重なった。
「わたくしが興奮した時は呆れた顔をしていたのに」
「これは別。元素の相性は学問よ」
「目がきらきらしているわよ、リーラ」
リーラの長い耳が真っ赤になった。
「してない」
「している。わたくしには分かる。同じ顔をしたことがあるから」
◇◇◇
フィリアーネは考えた。
精霊の加護。氷と風の融合。原作でフィリアーネに与えられるはずのなかった力。
攻略Wikiの隅に書かれていた幻のDLCルート——精霊族の少女リーラとの契約。本来はリーリエ用のシステム。それが今、フィリアーネの前に提示されている。
氷属性は最弱。だが風と組み合わせれば——凍結拡散。学園の誰も持っていない戦闘手段になる。
聖霊祭が近い。原作の大イベントが迫っている。戦力は一つでも多い方がいい。
そして——この契約は原作に存在しない選択肢だ。空白地帯。OOCにならない。
断る理由がない。
「いいわ。契約しましょう」
リーラの碧の瞳が——花が開くように輝いた。
◇◇◇
契約は簡素だった。
リーラがフィリアーネの額に指先を触れさせた。翠緑の光が全身を走った。冷たい氷の魔力の中に温かい風が吹き込む。右手の甲に風を象る薄い紋様が浮かんだ。
「契約の証。呼べばわたしが来る」
「……思ったより、あっさりね」
「精霊族は手続きが嫌いなの」
脳内にシステムの通知が浮かんだ。
【未回収伏線の補完を検知しました】
【DLC第三弾「翠緑の約束」——精霊族ルート導入部の具現化】
【キャラ格ポイント:+20】
【元素融合システム解放】
【契約精霊:リーラ(風属性)】
【融合反応:凍結拡散(氷+風)】
【切替スキル:風矢・風翼・拡散】
【注意:切替中は精霊が実体化します。第三者に目撃されるリスクがあります】
【現在キャラ格:283】
DLC未回収伏線の補完。通常より高いポイント。
レビューサイトで星一つをつけた恨みが、異世界でポイントになって返ってきた。
リーラはフィリアーネの隣に座り直した。
「これからよろしく。——それと、明日も来てね」
「毎日来いということ?」
「精霊族は退屈が嫌いなの」
長い耳がぴくぴく動いていた。
フィリアーネはため息をついた。生徒会。サバイバル。そして毎日の精霊との密会。スケジュールが破綻する。
だが——右手の甲の紋様が、温かく脈動していた。
「……分かったわ。毎日は無理かもしれないけれど、できるだけ」
リーラの長い耳がぴんと立った。
嬉しい時、この子の耳は立つのだと——フィリアーネは覚えた。
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(第十二話・了)




