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第11話 氷の薔薇は膝を屈さない


 沈黙が三秒。


 フィリアーネの脳内では、その三秒間に十七通りの言い訳が生成され、十七通り全てが棄却された。


 「森林浴です」——釣り竿を持ったまま言う台詞ではない。

 「薬草の採取を」——焚き火とシェルターの説明がつかない。

 「迷子になりまして」——迷子が竈を組むか。


 クリスティーナは微動だにせず、銀灰色の瞳でフィリアーネを観察し続けている。その視線には敵意も嘲りもない。ただ——精密機械のような、正確さがあった。


 視線が動いた。フィリアーネの短い髪。泥のついた指先。石のナイフ。蔓で編んだ釣り糸。骨組みが歪んだシェルター。竈の中の熾火。岸辺に転がる魚の骨。


 全てを見た。全てを理解した。——その上で、口を開いた。


 「髪を切ったのね」


 十七通りの言い訳を用意したのに、来たのはそこだった。


◇◇◇


 フィリアーネは覚悟を決めた。


 どうせ全部見られている。下手な嘘をつけば一瞬で見抜かれる。


 「ええ。邪魔だったので」


 短く答えた。理由は述べない。フィリアーネの性格ならば、他人に説明する義理などないと考える。


 クリスティーナは一歩、前に出た。枯れ葉を踏む音がやけに鮮明に響いた。


 「シェルターの構造が面白いわ。リーントゥ型? 片流れ屋根の角度が少し浅いけれど、排水を考えるともう十五度ほど傾けた方がいい」


 フィリアーネは耳を疑った。


 「……殿下は、こういったものに詳しいのですか」


 「王族は有事の際の野営訓練を受けるの。もっとも、わたくしの場合は教本を読んだだけで実技は免除されたけれど」


 教本を読んだだけで屋根の角度に言及できるのか。この女、記憶力が異常だ。


◇◇◇


 クリスティーナは沢の傍の岩に腰を下ろした。帰る気がない。


 フィリアーネは内心で焦りながらも表情を崩さなかった。


 「単刀直入に聞くわ」


 クリスティーナの声は穏やかだが、穏やかさの下に鋼が通っている。


 「寮を出たのはいつ?」


 「……十日ほど前です」


 「理由は」


 真実を言うか。「父が賭博で負けて仕送りが止まりました」——公爵家の恥だ。


 「——家の事情です。一時的なものです。他言は——ご容赦いただきたく」


 クリスティーナは瞬きもせずにフィリアーネを見つめた。


 長い沈黙。


◇◇◇


 「家の事情、ね」


 クリスティーナは視線を沢の水面に落とした。


 「ヴィルヘルム公が先月の秋季大公会でブランケンハイム侯爵に六連敗したことは——わたくしの耳にも入っているけれど」


 フィリアーネの心臓が止まりかけた。


 全部知っている。最初からこの会話の着地点は決まっていた。


 「……全てご存知の上で、ここにいらしたのですね」


 「まさか森に住んでいるとまでは思わなかったけれど」


 クリスティーナの声に、初めて微かな感情が混じった。驚き、に近い何か。


 「旧校舎あたりで寝泊まりしているのかと思って探したら、もぬけの殻。それで足跡を辿ったら——森の中で石斧を作って魚を釣っている公爵令嬢がいた」


◇◇◇


 クリスティーナは世間話のように切り出した。


 「ローゼンクランツさん。聖霊祭のことは知っているかしら」


 来た。原作の大イベント。


 「名前は存じております。三年に一度の祭典でしたか」


 「ええ。準備委員会を来週発足させるわ。生徒会が中心になって運営する」


 クリスティーナはフィリアーネに向き直った。


 「委員が足りないの」


 フィリアーネは眉を動かさなかった。足りない、ではない。この女は選んでいるのだ。


 「準備委員には学園の施設を優先的に利用する権限が与えられるわ。図書館の夜間利用権。練武場の自由枠。そして——」


 一拍の間。


 「——生徒会室の控室の使用権。鍵つき。寝泊まりも、黙認する」


 空気が変わった。


 鍵つきの部屋。屋根のある、壁のある、鍵のかかる部屋。


 施しではなく、準備委員の職務に付随する正当な権利。フィリアーネが受け取っても、恩を売ったことにはならない。ローゼンクランツの矜持は傷つかない。


 完璧な提案だった。断れない形で、借りを作らせない形で、しかし確実に自分の勢力圏に引き込む。


 千紗の中で——二つの声がぶつかった。


◇◇◇


 一つ目の声。千紗自身の声。


 ——受けろ。鍵つきの部屋だぞ。森の寝床に比べたら天国だ。しかも聖霊祭の内部に入り込めれば、リーリエが突き落とされるのを内側から阻止できる可能性がある。断る理由がない。


 二つ目の声。——システムの声。


 原作のフィリアーネは「貴族派閥の女王」だ。生徒会はクリスティーナが率いる勢力。原作では、フィリアーネは生徒会と距離を置いていた。明確に。


 距離を置いていた、ではなく——対立していた。


 フィリアーネが率いる貴族派閥と、クリスティーナが率いる生徒会は、学園内の二大勢力として対峙する関係にあった。フィリアーネが生徒会に入るのは——陣営を変えることと同義だ。


 これはOOCではないか?


 クリスティーナの生徒会勧誘自体は原作にない状況だ。だが「フィリアーネが生徒会に入らない」という事実は原作に存在する。そしてその理由は「機会がなかった」からではなく——「入るべきでない立場にいた」からだ。


 貴族派閥の長が生徒会に下れば、派閥の求心力は崩壊する。それはフィリアーネというキャラクターの根幹に関わる。


 千紗は慎重に考えた。


 空白地帯か? 否。これは空白ではない。原作に明確な根拠がある。フィリアーネは生徒会に入らない。入れば——キャラが崩れる。


◇◇◇


 フィリアーネは氷青の瞳を上げた。


 「お断りいたします」


 クリスティーナの表情が——微かに動いた。想定外の回答だったのだろう。控室の提示で断れないと読んでいたはずだ。


 「理由を聞いても?」


 「殿下はお分かりになるはずです」


 フィリアーネは背筋を伸ばした。岩の上に座ったまま、泥のついた手のまま、釣り竿を膝に置いたまま——だがその姿勢には、公爵令嬢の矜持が宿っていた。


 「わたくしはローゼンクランツの名を背負っております。生徒会の下で働くことは——わたくしの立場が許しません」


 嘘ではない。フィリアーネの論理としては完全に正しい。


 だが本心は別にある。OOCを踏むわけにはいかない。キャラ格を削られれば命に関わる。


 クリスティーナは五秒ほどフィリアーネを見つめた。


 それから——ふっ、と息を漏らした。


 笑ったのだ。


 「そう。それは——予想外だったわ」


 予想外と言いながら、不快そうではなかった。むしろ——面白がっている。


 「森で暮らしていても、公爵家の矜持は捨てないのね」


 「矜持しか残っていないので。手放すわけにはいきません」


 「……なるほど」


◇◇◇


 クリスティーナは岩から立ち上がった。ケープの裾を払い、制服の皺を直す。


 「わたくしはここに来ていないし、何も見ていない。ローゼンクランツ公爵家の事情については、何も知らない」


 フィリアーネは目を見張った。


 「——見なかったことにしてくださるのですか」


 「見なかったことにするのではなくて」


 クリスティーナは半歩振り返った。夕日が白金色の髪を赤く染めている。


 「ここには最初から、誰もいなかったの。わたくしは森を散歩していただけ。それだけよ」


 完璧な建前だった。「見逃す」のではなく「最初から知らない」。万が一第三者に問われても、嘘をついていないことになる。


 断られたのに——フィリアーネの秘密は守る。


 この女、やはり恐ろしい。断られたこと自体を次の布石にしている。今日の「温情」は、いつか回収される。


 クリスティーナは歩き出した。五歩ほど歩いて、足を止めた。


 「ああ、それと」


 振り返らずに言った。


 「屋根の角度は直した方がいい。今夜から三日ほど、雨が降るわ。南西から巻層雲が広がっていたから」


 「……なぜそんなことまで」


 「教本の第七章。高層雲に変わったら十二時間以内に雨」


 足音が遠ざかっていった。枯れ葉を踏む音がだんだん小さくなり、やがて森の中に消えた。


◇◇◇


 一人になった。


 フィリアーネは膝の上の釣り竿を見つめた。


 ——断った。


 鍵つきの部屋を。屋根のある、雨の降らない部屋を。


 千紗としては今すぐ取り消したい。「やっぱり入ります」と叫んで走って追いかけたい。森の寝床と鍵つきの控室、天秤にかけるまでもない。


 だがフィリアーネは——そうしない。


 そうできない。


 生徒会に入れば貴族派閥の長としての立場が崩れる。立場が崩れればキャラが崩れる。キャラが崩れればキャラ格が下がる。キャラ格が下がれば——死ぬ。


 天秤にかけているのは、部屋の快適さではない。命だ。


 「……馬鹿みたい」


 フィリアーネは立ち上がった。


 シェルターの屋根を見上げた。確かに——角度が浅い。


 石斧を手に取った。支柱を組み直す。一時間かかった。


 明け方、雨が降った。


 屋根を叩く雨音で目が覚めた。寝床を触った。


 乾いている。


 「……当たったわね、殿下」


 暗闇の中で、小さく笑った。


◇◇◇


 翌朝。雨は小降りになっていた。


 正門前のベンチ。リゼットが傘を持って待っていた。


 「おはようございます、フィリアーネさま」


 「おはよう」


 リゼットの目がフィリアーネの短い髪に釘付けになった。


 「フィリアーネさま……お髪が……」


 「切ったの。邪魔だったから」


 リゼットの目に涙が滲んだ。


 「泣かないで、リゼット。似合っているでしょう?」


 「……はい。とても……お似合いです」


 紅茶を受け取った。温かい。


 通りかかった生徒が何人か振り返った。短い髪のフィリアーネに気づいて、ひそひそと囁き合っている。噂は広まるだろう。理由は様々に憶測される。本当の理由を知る人間は——フィリアーネと、あの王女だけだ。


 「リゼット」


 「はい?」


 「生徒会から全学年への召集がかかっているでしょう。聖霊祭の準備委員会の発足」


 「はい。クリスティーナ殿下が直々に——」


 「わたくしは出ないわ。生徒会の行事に公爵家が膝を屈する必要はない」


 リゼットは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。それが「フィリアーネさまらしい」と思ったのだろう。


 フィリアーネは紅茶を一口飲んだ。


 ——聖霊祭。リーリエが虚無の深淵に突き落とされるイベント。


 準備委員会に入れなかった以上、内部からの阻止はできない。


 ならば——外から手を打つしかない。


 フィリアーネは雨上がりの空を見上げた。雲の切れ間から朝の光が差し込んでいた。


 外から。


 悪役令嬢らしく。


---


(第十一話・了)

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