表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/25

第10話 釣り糸と短い髪


 森の生活三日目。


 住居はある。水もある。火も起こせる。


 残る最大の問題は——食事だ。


 木の実は渋い。渋いだけならまだ耐えられるが、栄養が足りない。一日一食を食堂で食べているとはいえ、朝と夜を木の実だけで過ごすのは限界がある。二日目の夜には空腹で目が覚めた。


 沢には魚がいる。初日の夜に影が走るのを見た。小さいが、焼けば食べられるはずだ。


 問題は、どうやって獲るか。


◇◇◇


 釣り竿を作る。


 材料は森にいくらでもある。真っ直ぐな枝を一本選び、石のナイフで余分な小枝を落とした。長さは二メートル弱。しなりが良い若木だ。


 糸が要る。


 前世の千紗なら釣り糸など持っているわけがないが、この世界のフィリアーネには——生活魔法がある。


 シェルターの屋根に使った蔓を一本取り、石のナイフで細く裂いた。親指と人差し指の間くらいの太さ。これに【硬化】をかけると、蔓の繊維が引き締まり、切れにくくなる。引っ張ってみた。かなりの強度だ。小魚程度なら十分に耐える。


 竿の先端に蔓の糸を結びつけた。


 次は針だ。


 トランクの中を漁った。洗面用具の中に——あった。裁縫セット。リゼットが「何かあった時のために」と入れてくれていた小さな針箱。


 リゼット、ありがとう。あなたの心配性が異世界サバイバルで輝いている。


 縫い針を一本取り出し、石のナイフの背で軽く曲げた。先端は元々鋭い。返しがないのが不安だが、まずはこれでいい。


 針に蔓の糸を結びつけ、竿の完成。


 餌は——沢の岸辺の石をひっくり返すと、小さな虫がいた。前世なら絶対に触れなかっただろうが、空腹は人を変える。公爵令嬢の白い指で虫を摘まみ、針に刺した。


 「……前世の美咲に見せたら卒倒するわね」


◇◇◇


 沢の深みに糸を垂らした。


 岩に腰を下ろし、待つ。


 釣りは待ちの遊び。前世の千紗は釣りの経験がない。だがサバイバル動画で「渓流釣りのコツ」は何度も見た。流れの緩い場所、岩陰、水深のある淵——魚はそういう場所にいる。


 五分。十分。二十分。


 何も来ない。


 フィリアーネは岩の上で膝を抱え、沢を見つめた。秋の午後の日差しが水面にきらきら反射している。風は穏やかで、木々の葉がさらさらと音を立てる。


 ……静かだ。


 学園にいる時は、常に緊張している。悪役令嬢の仮面を維持し、OOCに怯え、システムの判定に神経を尖らせ、ディートリヒの暴走を警戒し、クリスティーナの視線を気にし、リーリエの様子をこっそり観察し——一秒たりとも気が抜けない。


 だがここには、誰もいない。


 悪役令嬢を演じる必要がない。


 千紗は——ただの千紗でいられる。


 糸がぴくりと動いた。


◇◇◇


 一匹目は逃げられた。針に返しがないので、合わせが遅れると外れる。


 二匹目も逃げた。


 三匹目——今度は糸が動いた瞬間に竿を跳ね上げた。銀色の小魚が宙に舞い、岸辺の草の上に落ちた。


 掌に収まるくらいの小さな淡水魚。種類は分からない。だが——獲れた。


 「……!」


 フィリアーネの顔に、悪役令嬢でも公爵令嬢でもない、純粋な喜びが浮かんだ。


 その後、要領を掴んだ。合わせのタイミング、餌の付け方、糸を垂らす場所。一時間ほどで四匹獲れた。大きいのは掌サイズ、小さいのは指二本分くらい。


 竈の火を起こし、魚の腹を石のナイフで裂いて内臓を出し、枝に刺して火の傍に立てた。


 脂がじゅうじゅうと音を立てる。煙が立ち上る。焼き魚の匂いが森に広がった。


 塩がない。調味料もない。だが焼きたての魚は、何もなくても美味い。身を解して口に入れた瞬間、目を閉じた。


 三日間、木の実と食堂の一食だけで過ごしてきた体に、蛋白質が染み渡る。


 「……美味しい」


 四匹全部食べた。行儀は悪い。骨は指で取った。前世のコンビニバイト帰りの牛丼よりは品のない食べ方だが、こっちの方が何倍も美味い。


◇◇◇


 腹が満たされると、余裕が生まれた。


 沢で手と顔を洗い、ふと水面に映った自分の顔を見た。


 プラチナブロンドの長い髪が、泥と木の葉で薄汚れている。毎朝【浄化】をかけているが、森で動き回る度にすぐ汚れる。枝に引っかかる。視界を邪魔する。石斧を振る時に顔に張り付く。


 フィリアーネの髪は腰まであった。原作の設定通り——悪役令嬢の象徴としての、美しいプラチナブロンドの長い髪。


 だが今のフィリアーネに、腰までの長い髪を維持する余裕はない。


 「……切るか」


 石のナイフを手に取った。


 一瞬、躊躇った。この髪はフィリアーネ・ローゼンクランツのアイデンティティだ。「氷の薔薇」のイメージの半分は、この美しい長い髪が担っている。切れば——学園で目立つ。噂になる。なぜ切ったのかと聞かれる。


 だが。


 長い髪を維持するためのヘアオイルも、ブラシも、リゼットの手入れもない。毎朝【浄化】で誤魔化しているが、限界がある。木の枝に引っかかって裂けた毛先は【繕い】でも直らない。


 何より——実用的じゃない。サバイバル生活に長い髪は邪魔だ。


 フィリアーネは髪を片手で束ね、石のナイフを首の後ろに当てた。


 ——ごめんね、フィリアーネ。あなたの綺麗な髪、借りてるだけなのに。


 ざく、と切った。


◇◇◇


 切り落とした髪が、落ち葉の上に銀色の束になって落ちた。


 フィリアーネは沢の水面を鏡にして、自分の顔を見た。


 「……あ」


 肩にかかるくらいのボブカット——というには乱暴な切り方だが、【刃付け】をかけた石のナイフの切れ味のおかげで、断面は思ったより綺麗だ。


 ただし長さが揃っていない。右側がやや長い。後ろは見えないので適当だ。


 フィリアーネは石のナイフで少しずつ整えた。前世で千紗は前髪だけは自分で切っていた。「美容院代を節約するため」と美咲に呆れられたが、そのおかげで刃物を髪に当てることへの抵抗は少ない。


 十分ほどかけて、ある程度整えた。


 沢の水面にもう一度、顔を映した。


 「——」


 似合っている。


 いや、似合っているどころの話ではない。


 長い髪の時のフィリアーネは「冷酷で美しい悪役令嬢」だった。それはそれで完成されたビジュアルだ。だが短い髪のフィリアーネは——印象がまるで違った。


 鋭さが増している。冷たさの中に、意志の強さが見える。長い髪が柔らかさを添えていた分、短い髪はフィリアーネの顔立ちの鋭利さを際立たせた。氷青の瞳が、長い髪に半分隠れていた時より、ずっと強い印象を与える。


 水面に映るその姿は——「守られるお姫様」ではなく、「自分の足で立つ女」の顔だった。


 「……へえ」


 悪くない。全然悪くない。


 前世の千紗はずっとショートヘアだった。美咲に「千紗ちゃんは短い方が似合う」と言われていた。長い髪は嫌いじゃないが、自分の顔には短い方がしっくり来る——その感覚が、フィリアーネの体でも同じだった。


 「……悪役令嬢としてのブランドイメージは下がるかもしれないけど」


 フィリアーネは水面の自分に向かって、薄く笑った。


 こっちの方が、千紗らしい。


◇◇◇


 切り落とした長い髪は、無駄にしなかった。


 プラチナブロンドの髪は、丈夫で光沢がある。石のナイフで裂いて細い束にし、三つ編みにすると——強靭な紐になった。蔓の紐より遥かに強い。


 釣り糸の予備。シェルターの補強。道具の結束。用途はいくらでもある。


 公爵令嬢の髪で紐を編んでいる自分に、フィリアーネは乾いた笑いが漏れた。


 「……これ、知られたらキャラ格暴落するだろうなあ」


 だがシステムからの警告は——なかった。


◇◇◇


 その日の夕方。


 フィリアーネは沢で二回目の釣りをしていた。


 腰を下ろし、糸を垂らし、秋の夕暮れの森を眺める。焚き火の煙が細く立ち上り、沢のせせらぎが一定のリズムを刻んでいる。


 穏やかな時間だった。


 ——だからこそ、足音に気づくのが遅れた。


 「…………」


 背後から、気配。


 フィリアーネは反射的に振り返った。


 沢の上流——木々の間に、人影が立っていた。


 白金色の長い髪。銀灰色の瞳。だがセヴェリンではない。背が高く、姿勢が良く、制服の上にケープを羽織っている。ケープの留め金に——王家の紋章。


 クリスティーナ・フォン・ノルトシュテルン。


 第一王女。生徒会長。「鉄壁の姉上」。


 フィリアーネの全身が凍りついた。


◇◇◇


 クリスティーナは木々の間に立ったまま、フィリアーネを見ていた。


 その視線が——フィリアーネの短い髪、泥のついた制服、手の中の釣り竿、傍らの焚き火、背後のシェルター——全てを、一瞬で舐めるように観察した。


 沈黙が流れた。沢のせせらぎだけが聞こえる。


 クリスティーナの唇が動いた。


 「……あら」


 その一言に、いつものような笑みはなかった。


 「ローゼンクランツさん。こんなところで、何をしているのかしら」


 フィリアーネは釣り竿を握ったまま、氷の仮面を被り直した。


 だが——仮面で隠せるものと、隠せないものがある。


 短い髪は隠せない。焚き火は隠せない。シェルターは隠せない。


 森の中で釣りをしている公爵令嬢。


 言い訳が——思いつかない。


---


(第十話・了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ