第10話 釣り糸と短い髪
森の生活三日目。
住居はある。水もある。火も起こせる。
残る最大の問題は——食事だ。
木の実は渋い。渋いだけならまだ耐えられるが、栄養が足りない。一日一食を食堂で食べているとはいえ、朝と夜を木の実だけで過ごすのは限界がある。二日目の夜には空腹で目が覚めた。
沢には魚がいる。初日の夜に影が走るのを見た。小さいが、焼けば食べられるはずだ。
問題は、どうやって獲るか。
◇◇◇
釣り竿を作る。
材料は森にいくらでもある。真っ直ぐな枝を一本選び、石のナイフで余分な小枝を落とした。長さは二メートル弱。しなりが良い若木だ。
糸が要る。
前世の千紗なら釣り糸など持っているわけがないが、この世界のフィリアーネには——生活魔法がある。
シェルターの屋根に使った蔓を一本取り、石のナイフで細く裂いた。親指と人差し指の間くらいの太さ。これに【硬化】をかけると、蔓の繊維が引き締まり、切れにくくなる。引っ張ってみた。かなりの強度だ。小魚程度なら十分に耐える。
竿の先端に蔓の糸を結びつけた。
次は針だ。
トランクの中を漁った。洗面用具の中に——あった。裁縫セット。リゼットが「何かあった時のために」と入れてくれていた小さな針箱。
リゼット、ありがとう。あなたの心配性が異世界サバイバルで輝いている。
縫い針を一本取り出し、石のナイフの背で軽く曲げた。先端は元々鋭い。返しがないのが不安だが、まずはこれでいい。
針に蔓の糸を結びつけ、竿の完成。
餌は——沢の岸辺の石をひっくり返すと、小さな虫がいた。前世なら絶対に触れなかっただろうが、空腹は人を変える。公爵令嬢の白い指で虫を摘まみ、針に刺した。
「……前世の美咲に見せたら卒倒するわね」
◇◇◇
沢の深みに糸を垂らした。
岩に腰を下ろし、待つ。
釣りは待ちの遊び。前世の千紗は釣りの経験がない。だがサバイバル動画で「渓流釣りのコツ」は何度も見た。流れの緩い場所、岩陰、水深のある淵——魚はそういう場所にいる。
五分。十分。二十分。
何も来ない。
フィリアーネは岩の上で膝を抱え、沢を見つめた。秋の午後の日差しが水面にきらきら反射している。風は穏やかで、木々の葉がさらさらと音を立てる。
……静かだ。
学園にいる時は、常に緊張している。悪役令嬢の仮面を維持し、OOCに怯え、システムの判定に神経を尖らせ、ディートリヒの暴走を警戒し、クリスティーナの視線を気にし、リーリエの様子をこっそり観察し——一秒たりとも気が抜けない。
だがここには、誰もいない。
悪役令嬢を演じる必要がない。
千紗は——ただの千紗でいられる。
糸がぴくりと動いた。
◇◇◇
一匹目は逃げられた。針に返しがないので、合わせが遅れると外れる。
二匹目も逃げた。
三匹目——今度は糸が動いた瞬間に竿を跳ね上げた。銀色の小魚が宙に舞い、岸辺の草の上に落ちた。
掌に収まるくらいの小さな淡水魚。種類は分からない。だが——獲れた。
「……!」
フィリアーネの顔に、悪役令嬢でも公爵令嬢でもない、純粋な喜びが浮かんだ。
その後、要領を掴んだ。合わせのタイミング、餌の付け方、糸を垂らす場所。一時間ほどで四匹獲れた。大きいのは掌サイズ、小さいのは指二本分くらい。
竈の火を起こし、魚の腹を石のナイフで裂いて内臓を出し、枝に刺して火の傍に立てた。
脂がじゅうじゅうと音を立てる。煙が立ち上る。焼き魚の匂いが森に広がった。
塩がない。調味料もない。だが焼きたての魚は、何もなくても美味い。身を解して口に入れた瞬間、目を閉じた。
三日間、木の実と食堂の一食だけで過ごしてきた体に、蛋白質が染み渡る。
「……美味しい」
四匹全部食べた。行儀は悪い。骨は指で取った。前世のコンビニバイト帰りの牛丼よりは品のない食べ方だが、こっちの方が何倍も美味い。
◇◇◇
腹が満たされると、余裕が生まれた。
沢で手と顔を洗い、ふと水面に映った自分の顔を見た。
プラチナブロンドの長い髪が、泥と木の葉で薄汚れている。毎朝【浄化】をかけているが、森で動き回る度にすぐ汚れる。枝に引っかかる。視界を邪魔する。石斧を振る時に顔に張り付く。
フィリアーネの髪は腰まであった。原作の設定通り——悪役令嬢の象徴としての、美しいプラチナブロンドの長い髪。
だが今のフィリアーネに、腰までの長い髪を維持する余裕はない。
「……切るか」
石のナイフを手に取った。
一瞬、躊躇った。この髪はフィリアーネ・ローゼンクランツのアイデンティティだ。「氷の薔薇」のイメージの半分は、この美しい長い髪が担っている。切れば——学園で目立つ。噂になる。なぜ切ったのかと聞かれる。
だが。
長い髪を維持するためのヘアオイルも、ブラシも、リゼットの手入れもない。毎朝【浄化】で誤魔化しているが、限界がある。木の枝に引っかかって裂けた毛先は【繕い】でも直らない。
何より——実用的じゃない。サバイバル生活に長い髪は邪魔だ。
フィリアーネは髪を片手で束ね、石のナイフを首の後ろに当てた。
——ごめんね、フィリアーネ。あなたの綺麗な髪、借りてるだけなのに。
ざく、と切った。
◇◇◇
切り落とした髪が、落ち葉の上に銀色の束になって落ちた。
フィリアーネは沢の水面を鏡にして、自分の顔を見た。
「……あ」
肩にかかるくらいのボブカット——というには乱暴な切り方だが、【刃付け】をかけた石のナイフの切れ味のおかげで、断面は思ったより綺麗だ。
ただし長さが揃っていない。右側がやや長い。後ろは見えないので適当だ。
フィリアーネは石のナイフで少しずつ整えた。前世で千紗は前髪だけは自分で切っていた。「美容院代を節約するため」と美咲に呆れられたが、そのおかげで刃物を髪に当てることへの抵抗は少ない。
十分ほどかけて、ある程度整えた。
沢の水面にもう一度、顔を映した。
「——」
似合っている。
いや、似合っているどころの話ではない。
長い髪の時のフィリアーネは「冷酷で美しい悪役令嬢」だった。それはそれで完成されたビジュアルだ。だが短い髪のフィリアーネは——印象がまるで違った。
鋭さが増している。冷たさの中に、意志の強さが見える。長い髪が柔らかさを添えていた分、短い髪はフィリアーネの顔立ちの鋭利さを際立たせた。氷青の瞳が、長い髪に半分隠れていた時より、ずっと強い印象を与える。
水面に映るその姿は——「守られるお姫様」ではなく、「自分の足で立つ女」の顔だった。
「……へえ」
悪くない。全然悪くない。
前世の千紗はずっとショートヘアだった。美咲に「千紗ちゃんは短い方が似合う」と言われていた。長い髪は嫌いじゃないが、自分の顔には短い方がしっくり来る——その感覚が、フィリアーネの体でも同じだった。
「……悪役令嬢としてのブランドイメージは下がるかもしれないけど」
フィリアーネは水面の自分に向かって、薄く笑った。
こっちの方が、千紗らしい。
◇◇◇
切り落とした長い髪は、無駄にしなかった。
プラチナブロンドの髪は、丈夫で光沢がある。石のナイフで裂いて細い束にし、三つ編みにすると——強靭な紐になった。蔓の紐より遥かに強い。
釣り糸の予備。シェルターの補強。道具の結束。用途はいくらでもある。
公爵令嬢の髪で紐を編んでいる自分に、フィリアーネは乾いた笑いが漏れた。
「……これ、知られたらキャラ格暴落するだろうなあ」
だがシステムからの警告は——なかった。
◇◇◇
その日の夕方。
フィリアーネは沢で二回目の釣りをしていた。
腰を下ろし、糸を垂らし、秋の夕暮れの森を眺める。焚き火の煙が細く立ち上り、沢のせせらぎが一定のリズムを刻んでいる。
穏やかな時間だった。
——だからこそ、足音に気づくのが遅れた。
「…………」
背後から、気配。
フィリアーネは反射的に振り返った。
沢の上流——木々の間に、人影が立っていた。
白金色の長い髪。銀灰色の瞳。だがセヴェリンではない。背が高く、姿勢が良く、制服の上にケープを羽織っている。ケープの留め金に——王家の紋章。
クリスティーナ・フォン・ノルトシュテルン。
第一王女。生徒会長。「鉄壁の姉上」。
フィリアーネの全身が凍りついた。
◇◇◇
クリスティーナは木々の間に立ったまま、フィリアーネを見ていた。
その視線が——フィリアーネの短い髪、泥のついた制服、手の中の釣り竿、傍らの焚き火、背後のシェルター——全てを、一瞬で舐めるように観察した。
沈黙が流れた。沢のせせらぎだけが聞こえる。
クリスティーナの唇が動いた。
「……あら」
その一言に、いつものような笑みはなかった。
「ローゼンクランツさん。こんなところで、何をしているのかしら」
フィリアーネは釣り竿を握ったまま、氷の仮面を被り直した。
だが——仮面で隠せるものと、隠せないものがある。
短い髪は隠せない。焚き火は隠せない。シェルターは隠せない。
森の中で釣りをしている公爵令嬢。
言い訳が——思いつかない。
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(第十話・了)




