#7 克哉という檻
「さあ、帰ろう」
克哉のあとに続き私はスイートルームを後にしようと、ドアノブに手をかけた。
――その瞬間、背後から強い力で引き寄せられて、気付くとアラタの腕の中に閉じ込められた。
「……っ、アラタさん?」
アラタは克哉の視線など気にする様子もなく、私の首筋に深く顔を埋めた。昨夜、何度も唇を寄せた場所に、また熱い吐息が吹きかかる。
「あ……っ……」
震える私の顎を長い指先で強引に上向かせると、アラタは吸い付くように唇を重ねてきた。
「んっ…ふぁ……!」
逃げる隙も与えない、深く、重い口づけ。
熱い舌が強引に割り込み、私の口内を隅々まで侵略していく。昨夜の情事の熱を無理やり引き摺り出されるような、支配的なキス。
鼻先が触れ、混ざり合う吐息。
肺の空気をすべて奪い去るような長い接吻に、頭の芯がとろけ、思考が真っ白に塗りつぶされていく。
「……んっ」
唇が離れたとき、銀色の糸が切なく伸び、すぐにプツンと弾けた。
熱っぽく潤んだ私の瞳を、アラタは獲物を捕らえた獣のような、冷たく燃える瞳で見下ろした。
「またね、愛香ちゃん」
唇を解放され、足元がふらつく私を、克哉が当然のように背後から支えた。
「行こうか、愛香」
何事もなかったように、克哉の手が私の肩に回される。
アラタの熱が残る場所に、克哉の冷たい指先が重なった。
◆◆◆
隣でハンドルを握る克哉は、驚くほど穏やかな表情をしている。
昔から変わらない、優しくて頼りになる――イトコのお兄ちゃんの横顔。私の視線に気付いたのか、
「聞きたいことがあるんだろう?」
「どうして、迎えにきたの?」
「愛子おばさんが心配してたからさ。無断外泊はよくないよ。実家暮らしなら、せめて連絡くらいはしないと」
「すぐにバレる嘘はやめて。ママが克哉に迎えを頼むはずがないわ」
学生時代もそうだった。
彼氏ができるたび、なぜかデートの終わりに克哉が現れる。そして、ぞっとするほど整った笑顔で言う。
『さぁ、愛香。そろそろ帰る時間だよ』
その美貌と威圧感に、当時の彼氏たちは例外なく萎縮し、気付くと距離を置かれた。自然消滅。それが毎度のパターン。
「……家に帰るんじゃないの?」
車が都心へ向かっていることに気づき、思わず尋ねる。
「クリニックに寄るよ」
「なんでよ、今日は休診日なのに」
「疲れたし、寝不足だろう。肌の調子を整えないと」
克哉は前を見据えたまま、当然のように言った。
私の身体は、克哉のメンテナンスによって磨かれているから。
「愛香には、いつも綺麗でいてほしいからね」
でも、こうなったきっかけは私だった。
小学生の頃、私は鼻の下にあった大きなホクロのせいで、男子からいじめられてた。
当時中学生だった克哉は、私の涙を拭いながら言った。
『僕が医者になったら、愛香をもっと綺麗にしてあげる。誰にも文句を言わせない。世界で一番、美しくしてあげるよ』
その約束は果たされた。
アロマテラピー、美容注射。レーザー脱毛。背中の産毛の一本、服に隠れた小さな痣。本当なら、恥ずかしくて見せられない場所まで、すべて知られている。
「克哉とは恋愛関係じゃない。アラタも言ってたよ」
「そうだろうね」
「克哉の『彼氏』って、どんな人なの?」
「さっきのホテルの経営者の息子だよ」
「すごいお金持ちじゃん!」
「まぁ、世間的にはそうだろうね。でも普通の男だよ。高級フレンチより牛丼チェーン店に行きたがる」
なるほど、それはちょっと親近感がある。
「どれくらい付き合ってるの?」
「一年くらいかな」
「好きなんだよね? その人のこと」
「もちろん」
軽いハンドル捌き。余裕な受け答え。
「彼は年内に結婚する。もちろん女性だよ。どこぞのご令嬢だったかな。親が決めた相手で、本人も異論はないらしい」
「相手が結婚するから別れるの?」
「今のところはその予定はない」
「え、それって不倫だよね?」
信号が赤になり、車が止まる。克哉は私に向き直った。
「まっすぐ竹のように芯のある子に育ったね。僕と同じ血筋だとは思えないよ。僕のように壊れた人間には、その真っ直ぐさが眩しい」
私はさらに踏み込んで、核心に触れる。
「どうして、好きな人がいるのに、他の人を抱けるの?」
「お、核心に迫ってきたな。そこに、男とか女という縛りがないところが、愛香の素敵なところだね」
楽しそうに眉を上げた。
克哉は再び車を走らせながら、静かに、しかし鮮明な言葉を紡いだ。
「そうだなぁ」
ハンドルを握る指先が、トントンと軽く鳴る。
「誰かに抱かれることで救われる――そんなことも、あるんだよ」
納得はできない。それでも、克哉がアラタを助けようとしたのも、彼なりの善意だったのかもしれない。
「ところで、愛香。アラタは優しく抱いてくれたか?」
「な、なに……!」
「はは、隠すな。同じ男と寝た仲だろ? ……医師として聞いているんだ。お前のバイタルが、アラタという劇薬にどう反応したのか、興味があってね」
「笑えない……!」
「笑えるさ。こんなに愉快なことはない」
赤信号で車が止まり、ハイブリッド車のエンジンがすっと静まる。
束の間の沈黙。
克哉はちらりと私を見て、呪文のように囁いた。
「イトコ同士は、結婚できるって知ってた?」
「……は?」
「もし僕が、女性を愛せるとしたら――たぶん、愛香だけだよ」
信号が青に替わる。
「冗談だよ」
ゆっくりと車が動き出す。
「アラタにとって、もう僕の『秘密の診療』は不要だからね。アイドル専用のセラピストか。アラタの面倒は、愛香にバトンタッチするよ」
「何を勝手に言うのよ」
「患者の相手なら残業代は払う。でも、恋人としての行為は業務外だよ」
「な、……バカ!」
克哉は心の底から楽しそうに笑った。




