最終話
「本当に行かないの?」
「貴重な休日に、なぜわざわざアラタを見に行く必要があるんだ?」
クリニックの院長室。克哉はパソコンの画面から視線も上げずに、心底面倒そうに答えた。
私はその横顔に唇を尖らせながら、手慣れた手つきでスマホを操作し、ついに『チケット応募』のボタンをタップした。
dulcis〈ドゥルキス〉のアジアツアーだ。
「当たるかなぁ……当たれ、当たれ……!」
「そもそも、なぜそんな面倒な手順を踏む?」
克哉はキーボードを叩きながら、呆れたようにため息をついた。
「アラタに言えば、関係者席のひとつやふたつ、すぐに用意してくれるだろう」
「わかってないなぁ。それは『ファン道』に反します。私はアラタの彼女である以前に、dulcisの熱狂的なファンなの!聖域なの!」
チケットは自力で勝ち取ってこそ、神に、そして推しに捧げる価値がある。
コネや転売なんて言語道断。それが私の譲れないポリシーだ。
「それより、休暇申請はちゃんと受理してくださいね」
「有給は社員の権利だと言いたいんだろう?全く……」
克哉は眼鏡を押し上げ、完全に呆れ顔だ。
「克哉にもアラタの本当の姿を見てほしいのになぁ。ステージの上ではキラキラして、最高にカッコいいんだから」
「それを言うなら、ベッドの中こそが彼の本当の姿だろう」
「な!」
「すっかりトラウマを克服したようで何よりだな」
「もう、その話はしないで!」
私が真っ赤になって抗議すると、克哉はふっと意地悪な笑みを消し、真面目な顔で画面を指差した。
「そのアラタから、予約が入っている。今夜、愛香に残業を命じた本当の理由だよ」
「えっ!」
克哉に手招きされてパソコンを覗き込む。
そこには、限られた人間しかアクセスできないV.I.P.専用の予約画面が表示されていた。
【予約者:ARATA】
【時間:今夜21:00】
【メニュー:美容点滴】
【備考:オプション希望あり】
「オプションね……。帰国して早々、本当に元気な男だ」
「ハードスケジュールで疲れてるのよ!ケアが必要なの!」
アラタは海外ジュエリーブランドのアンバサダーとしてフランスへ渡航していた。
「愛香が癒やしてやればいい。今夜はデートの予定だったんだ」
「院長としての仕事をしてください、もう!」
でも、かすかな期待に胸が疼く。
顔が熱くなるのを隠すようにデスクの端に目をやったとき、私はある「異変」に気がついた。
「ねえ、こんなの……前からあった?」
克哉のデスクの隅、目立たない場所に置かれた小さなタブレット端末。
そこには、見覚えのある室内がリアルタイムで映し出されていた。
「これ……V.I.P.用の個室?ま、まさか、克哉……!」
「ふふ。バレてしまったら仕方ないね」
克哉は悪びれる様子もなく眼鏡を外した。その口元には、余裕たっぷりな微笑みが浮かんでいる。
「ま、まさか――ずっと見てたの?」
「言っただろう?僕は君たちが幸せになるのを、心から応援しているんだ。愛香がアラタに溺れ、アラタが愛香を貪る。僕が手掛けた2つの美しい肌が絡み合う……。そう、ルーブル美術館でもお目にかかれない至高の芸術品だ」
「……この、超絶ド変態院長!」
「僕にとっては最高の褒め言葉だ。今夜も楽しみにしてるよ、愛香」
「克哉の、バカバカ!」
私は恥ずかしさのあまり叫び、タブレットをひったくって逃げ出した。
「あ、コラ、それはクリニックの備品だ!」
椅子から立ち上がって追いかけてくる。
院長室の中でドタバタと追いかけっこが始まるが、診療時間はとっくに終わっている。
「あらあら、元気なこと」
ガチャリとドアが開き、百合さんが優雅に顔を出した。
「百合さん!聞いてください、克哉が盗撮してたんです!これ、今すぐ粉々にして捨ててください!」
「物騒な話ねぇ」
百合さんがひょいとタブレットを受け取り、画面を覗き込む。
「なぁんだ。バレちゃったの?残念ねぇ、面白かったのに」
「え……!ゆ、百合さんまで……!?」
絶句する私をよそに、百合さんはタブレットを愛おしそうに克哉へと戻した。
「バレてしまったなら、もうおしまいね。院長」
「そうだな。面白味がなくなった」
白衣を着た完璧な美男美女が、揃って私を面白そうに見下ろす。
揃いも揃って、うちには変態医師しかいないのか!
「そうそう、お客様がいらっしゃいましたよ。……まぁ、私の可愛い『弟』ですけどね」
百合さんがにこりと告げる。
「出番だな、愛香。もう盗み見はしないから、しっかり癒やしておいで」
克哉も満足げに私の背中を軽く押した。
「な、なんなのよ、もう!」
私は二人から逃げるように院長室を飛び出し、廊下を全速力で駆けた。
アロマの香るあのV.I.P.ルームのドアを開けると、そこには満面の笑みを浮かべたアラタが立っていた。
「愛香、会いたかった」
そう言って、アラタは私を優しく抱きしめた。
私の甘く騒がしい日々は、これからもずっと、終わらない。
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