#9 推しの彼
水曜日の夜。他のスタッフが帰り、静まり返ったクリニックに予告通りアラタがやってきた。
「こんばんは」
軽くマスクを外し、私だけに笑みを見せる。
VIP用の診療室に案内すると、アラタはベッドの横に置かれたソファに腰を下ろした。
「そんなに固まらないで。克哉みたいな強引な治療を求めてない。このクリニックを風俗店だなんて思ってもないよ」
「え、ええ!」
意識過剰で恥ずかしい。
「ここに来る理由は、肌のメンテナンスが優先だよ。美容系アイドル、なんて肩書きがあるもんでね。克哉の腕が確かなのは、愛香ちゃんが一番知ってるでしょ?」
「そうですよね。じゃあ、克哉……じゃなくて、院長を呼んできますね」
「まって」
不意に手を取られる。つかまれた腕が、じんわりと熱くなる。
「少しだけ、こうしたい」
背後から抱かれて、そのままストンと膝に座る。
「なっ、ちょっと」
「まだ克哉との予約時間には早いから。少し話をしよう」
ふわりと漂う淡い香水の香りが、昼間にテレビ画面越しに感じていた遠い存在感を、体温のある男へと塗り替えていく。
「そうだ、姉さんから話を聞いたよ」
「克哉だけでなく、百合さんにまで……。この数日、驚かされてばかりです」
「それは申し訳ない」
アラタが目尻を下げて笑う。
グループをまとめる穏やかなアイドルのアラタより、今、目の前で、ちょっとイタズラな素の顔を見せている彼の方が、ずっと魅力的に見えた。
「この前の夜は、つい我慢できなくて……ごめんね。朝は克哉に邪魔されたし。今後について、ちゃんと話をしたいんだ」
「今後?」
「身体から始まる関係は、だめかな?」
「専用セラピスト、っていうお話ですよね」
セカンドやセフレと、セラピストの違いなんて私にはわからないけれど、そういう関係なのだろうと思っていた。
「……付き合わない?」
「え?」
思わず振り向くと、すぐ目の前にアラタの顔。鼻先が触れ合うほどの距離。
「ほ、本当に、本気ですか?」
「もちろん。冗談で言わないさ」
「どうしてですか? 会ったばかりで、その、一度できたからって……」
不能だなんて言っておきながら、あの夜のアラタはとてもそうは思えなかった。私が相手でなくても問題なさそうだった。もしかしたら、とっくに完治していたのではないだろうか。
「克哉が親族にゲイだと告白したとき、どう思った?」
「え、どうって、別に。そうなんだって……感じです」
「愛香ちゃんだけは何も変わらなかった。克哉はそれが、死ぬほど嬉しかったらしいよ」
「そんなこと、聞いたこともないです」
「はは、意外と照れ屋なんだろ。でもね、自分を見る目が、ある日突然変わる恐怖は俺も経験があるんだ」
スキャンダルのときだろうか。アラタは目を伏せた。
「変わらないでいてくれる存在の尊さが、俺は羨ましかった。克哉から君の話を聞く度に、惹かれていたんだ。会ったこともないのにね。でも、ずっと恋していたんだ」
語るアラタの言葉は、私の胸の奥にじんわりと広がっていった。
「愛香ちゃんとは、心も身体も不思議と合うんだ。俺、ずっと上手くいかないことが多かったのに、君とは自然に寄り添えた」
彼の甘い笑顔が近づく。
「推しが彼氏になって、嬉しくない?」
もう隠せない。私は意を決した。
「アラタさん……、言わないといけないことがあるんです」
「なに?」
「私、dulcis〈ドゥルキス〉のファンなんです。本当に大好きなんです」
「うん、応援ありがとう」
「3年前に新卒で入社して、大学病院で働いていた頃、人間関係で上手くいかなくて悩んでたんです。そんなとき、dulcis〈ドゥルキス〉のデビュー曲に元気をもらったの。それから、ずっと大好き」
「告白、みたいだな」
アラタの腕が、ぎゅっと強くなり抱きしめられた。
「あのときから、大好きなんです――…が……」
「なに? 聞こえないよ」
スーッと息を吸い、今度はハッキリと声を出す。
「本当の『推し』は、アラタさんじゃないんです」
「え?」
「私、ケイタ推しなんです!」
あーー、スッキリした。
室内がシンと静まり返り、BGMのヒーリングミュージックだけがやけに響いている。
アラタの完璧な笑顔が、まるでバグったように固まった。やがて、地の底から絞り出したような声が漏れる。
「……え? ああ、もしかして冗談? 笑えないけどね」
「いえ。私の推しは、最年少の末っ子アイドル、ケイタくんです!」
「嘘だ……。よりによってケイタだと? 俺と正反対じゃないか」
アラタはガックリと頭を抱えた。
金髪ベビーフェイス、天然キャラで愛される23歳のケイタ。おどけた笑顔、なのに、不意に見せる色気とのギャップがたまらない、私の愛しい推し。
「あの、でも、基本的には箱推しです! 5人揃ってるのが大好きなんです。だからアラタさんも、推しと言えなくもないんです!」
「そのフォロー、余計に痛いんだけど」
「すみません……」
「克哉から俺のファンだって聞いたけど、嘘だったのか? はめられた? あいつ、性格悪いもんな」
「いえ、克哉は芸能人にまるで興味がないので、本当にわかってなかったかと思います。性格が悪いのは同感ですけど」
克哉は私の推し活にも呆れ顔をするばかりだ。
「明日は全員揃ってダンス練習だから、ケイタが泣くまでしごいてやろう」
「ええっ? ケイちゃんの泣き顔? 見たいです! 動画送ってください!」
「やっぱり克哉の血縁者だ。君も隠れドSだよね」
不満そうに私を睨むアラタ。けれど、その苦々しい表情が、アイドルではない一人の男としての独占欲に見えて、私はつい笑ってしまった。
「ケイタ推しなのは分かった」
「えっ、ちょっと」
彼は私の髪をそっと撫で、その指先をブラウスのボタンへと滑らせた。
「推しじゃなくてもいい。ファンじゃなくてもいい。恋人になってくれたら、それでいい」
その言葉には、絶対的な支配力が込められていた。
「返事は?」
「……ケイタ推しのままでも、いいですか?」
アラタは一瞬呆気にとられたが、次の瞬間、お腹を抱えて大声で笑いだした。
「アハハハハ! まぁ、いいよ」
彼はゆっくりと私のボタンを解きながら、挑発的な瞳で囁いた。
「すぐに、俺に『推し変』させてあげるから」
秘密の診療室、ふたりきり。
イタズラな指先を拒む理由は、もうどこにも見当たらなかった。




