第62話 評判
しかし、何の噂にもならなかった。
ハンナは拍子抜けした。
「つまりね、何も見えなかったの」
アレクサンドラ殿下が苦笑しながら教えてくれた。
「え?」
あんなに見通しのいい中庭での出来事だったのに?
アレクサンドラ殿下は結婚の準備でものすごく忙しいはずなのに、昼食に呼んでくれた。ハンナは恐縮しながらも殿下と楽しい時間を過ごすことにした。殿下のそばは、とにかく安心だ。
「お手を煩わせて、申し訳ございません、殿下」
「いいのよ。面白いんですもの。それに、私としても、フィリップの相手がヒルダ嬢では嫌だわ。ジョージとの婚約が早く本決まりになれば安全なのに」
ハンナには、アレクサンドラ殿下がヒルダ嬢に難色を示す気持ちがよくわかった。ハンナだって、弟の嫁にヒルダ嬢が来たら困ってしまう。
「公爵家に何のメリットもないので、お話が進まないのよね。でも、フィリップ以外なら、ジョージくらいしか残っていないのではないかしら?」
人気ないな、ヒルダ嬢。しかし、高位貴族の公爵令嬢をけなすわけにはいかないので、ほんのりと微笑むにとどめた。アレクサンドラ殿下も微笑みながらハンナに尋ねた。
「今、ヒルダ嬢のお友達が誰だかご存じ?」
ヒルダ嬢にお友達がいたとは知らなかった。ヒルダ嬢の周りは、公爵家の令嬢のご機嫌を取り結ぶ、あまり上品とは言いにくい令嬢方ばかりだった。
「それがね、エリザとジョゼフィンのお二人なんですのよ」
ハンナはちょっと驚いた。
「あの、フィリップ殿下のファンの方々ですか?」
鷹揚にアレクサンドラ殿下はうなずいた。
「とても実行力のある方々ですわ」
アレクサンドラ殿下が褒めるのを聞くと、少しばかりハンナは悔しい気がした。
確かにあの二人は素晴らしい。
何がすごいって、ハンナには絶対真似のできない実行力と演技力の持ち主なのだ。
自分がフィリップ殿下の意味の分からない芝居に付き合わされてる間に、アレクサンドラ殿下はあの二人の令嬢方と仲良くなったのか。
「あら、いやだ。知り合いではありませんわ。聞くところによると、ヒルダ嬢は、あの二人から吹き込まれて、中庭事件をまるで自分が目撃したような気分になっているそうよ」
ハンナはげんなりした。一体、何を見た気になっているのかしら?
「ハンナ嬢が、フィリップに抱き着いて、はしたなくも胸を鼻にすり寄せたら、フィリップが鼻血を噴いてぶっ倒れたことになっていますわ」
絶対にあり得ない、お下品な想像ですわとアレクサンド殿下は、さも愉快そうにホホホと笑った。
ハンナは顔が自然と引き攣っているのがバレませんようにと祈りながら、相槌を打った。
「そ、そうですわね……」
楽しいお茶会でした、また呼んでくださいませと言ってから、ハンナは前のめりで、宮廷内を大急ぎで通り抜け、全速力で馬車を走らせ家に帰った。
ヤバい。
ハンナは今後の展開が不安になってきた。
教室の真ん中で愛を叫ぶ事件や、中庭での鼻血流血事件が起きてしまった。
退屈な授業にウンザリしている生徒にとっては、いい刺激である。
しかも王子殿下が引き起こした騒ぎだ。注目度抜群。
ただし、問題は、エリック様の格好ではなくて、フィリップ殿下の変装のままだったということ。
しかも相手は、ハンナ。
これでは、物語の中の、見た目愛嬌たっぷりで男性の庇護欲そそるあざといデイジーと、頭空っぽだが絶世の美男子王子殿下との華やかな恋物語との乖離甚だしく、どこかの田舎者のジャガイモ同士の、いや変人同志の恋物語になってしまいそうだ。
他の生徒から見たら、それこそ、勝手にしやがれである。お高く止まっている不細工な王子殿下がブス子と恋に落ちただなんて恋物語は、面白いっちゃー面白いかもしれないけど、誰も憧れない。
自虐的になってきたハンナは心の中でうめいた。
ジークムンド王太子殿下とアレクサンドラ王女殿下があれほどの人気をさらった理由は、ジークムンド殿下が王太子殿下であることもあるが、アレクサンドラ殿下がさながら宝石のような美しさだからだ。
ボサボサの黒髪と妙な黒縁メガネ、鼻まで届きそうな襟に顎を沈めた異様な感じが漂うフィリップ殿下と、平凡極まりないハンナがどんなにいちゃついても痛いだけだ。みんなの失笑を買うだけではないかとハンナは頭が重かった。
「そんなことはないわよ」
事件のあと、お昼休みに食堂でおそるおそるリリアンとマチルダに聞いてみる。アレクサンドラ殿下を信用しないわけじゃないけど、一応、聞いてみる。
「フィリップ殿下にハンナが迫っただなんて、聞いたこともないわ!」
えええ? よかったあ。
どんな時でもイザベラとリリアンは頼りになる。その婚約者たちもだ。もっとも、この婚約者たち、断り切れないらしく時々ハンナに縁談を持ち込むと言う悪い癖があるけど。
「ところで中庭の鼻血事件て、初めて聞いたけど何のお話?」
しまった。余計な情報をもたらしてしまった。知らないなら知らないままで終わらせておけばよかった。
「それより、フィリップ殿下に連れ去られた件は、何か言われているかしら?」
「王子という特権を生かした汚いやり口だって……」
ハンナは目を丸くした。仮にも王子殿下。そこまで言っていいのかしら?
「……て、エリザ様とジョゼフィン様がおっしゃってたわ」
「あの、どなたかしら?」
ハンナはとぼけてみた。
「知らないわよね! 隣国からの留学生なの。宰相の娘と公爵家の令嬢よ! 巷では、アレクサンドラ殿下のご結婚のため、同じ学園に来られたのではなどと言われてるわ」
ああ、そういう見方も出来るわねとハンナは納得した。
まあ、その割に堂々としてるので、違うような気もする。
「だから、当然アレクサンドラ殿下とお友達になって然るべきなのに、なぜだか知らないけどヒルダ嬢が気に入って手放さないのよ! ご本人たちは困ってらっしゃるんじゃないかしら」
どうかなあ。やる気になれば、何でもやってのけそうだけど、あの二人。
学園が頭痛のタネ化しつつある。
今は母もいるし、自邸の方が、まだ気楽だ。
ハンナは帰宅を急いだ。
しかし、家に帰ると母がのたまった。
「来週、お茶会をやりますの」
「そうですか」
母のお茶会は最近回数が多い。王都でかつてのコネクションが復活しつつあるらしい。もはや、自分のことで手一杯なハンナは、簡単に返事した。
「ハンナが」
「えええ?」
ハンナは驚いて母の顔を見た。
母は、意味ありげにフッと微笑んでいる。
「私はお茶会なんか!」
絶対やりたくありませんのっ、と言いたかったのだが、被せるように母は言った。
「実は、当家を訪問したいというご要望がありましたの。お断りできるような相手ではありませんのよ」
そんな要望、あり?
他人に向かって、招待しろだなんて、どんな人?
まさかヒルダ嬢じゃないでしょうね?
……と思ったが、違っていた。
「隣国の宰相閣下の令嬢と、公爵家のご令嬢ですわ。ええと、お名前は確か……」
エリザ様とジョゼフィン様?




